第二十三回 李六が足止めを食らうこと
打倒した勢力を吸収する。
口でいうのは簡単だが、これほど難しいものはない。
敗者にとって自分を打ち負かした勢力と轡を並べることは、納得しがたい。
そういった感情を宥め、霊狐こそ奉戴するに足る英主であることを示すため、霊狐の一軍は荊棘姫と六、さらに劉与や洪宣ら屠虎の同志を伴い、かつての黒風の領土を巡っていた。
いわゆる巡撫、というやつである。
霊狐はただ柔和な狐妖ではない。
小哪吒と荊棘姫を従える器量の持ち主であることを示し、妖怪を恭順させる必要があった。
またこの巡撫は慰撫だけが目的ではない。
荊棘姫が黒風の元を去ったように、黒風の驕慢を嫌って野に下った妖怪は多い。
そういった者の中から有望な妖怪を見出し、召し抱えたいという考えもある。
「黒風の配下の中にも剡尤のような烈士はいます。見込みがある者を見つけたら、荊棘姫か蓮香さんに伝えて下さい」
と六は触れ回った。
「太號君に動きあり」
その報告が入ったのは、霊狐が慌ただしく各地を巡っている最中である。
「ついに来たか」
霊狐は腰を浮かした。
「霊狐公は陀熊山に戻り兵を集めて下さい。私と荊棘姫もこのまま各地に触れ回って兵を集めます」
「うむ。太號君の軍がどう進軍するか、香から連絡が行くはずだ。あとで合流しよう」
そのようなことを言い合っていたとき、たまたま六の一軍は船に乗り込もうとしていた。
北方妖界には永江という名の大河と、その支流が走っており、時には船を利用した方が早い。
かつて六が転落し、龍王や太陽道士と出会ったあの川である。
川を渡るために六が船に乗り込むと、船が動かない。
六は首を傾げた。
「あれ、どうした?」
「川底に腹が付いているわけではないようだが……」
と洪宣なども不思議そうに発した。
「これは……まさか」
動かない船を見て、船頭の妖怪だけが目を瞠目させた。
船が動かなくては仕方がないので、一行は別の船に乗り込むことにした。
川に浮かぶ空の船は当然、押せば動く。
船頭が乗る、動く。
劉与が乗る、動く。
洪宣が乗る、動く。
六が乗る、動かない。
六が降りて他の者が乗る、動く。
最後にまた六が乗る、動かない。
「なんだこれは!」
苛立った六は語気を強めた。
こんな所で遊んでいる場合ではない。
こうしている間にも太號君の軍が近づいて来ているかもしれない、というのが六を焦らせていた。
不機嫌になり始めた六を刺激しないように、船頭が口を挟んだ。
「あのう、これはきっと龍王の船留めですよ」
「船留め……なんですかそれは?」
六はなるべく不機嫌さを隠そうと努力しながら訊ねた。
「へえ。永江を総攬する永雲龍王が誰かを召すときに、こうしてその者の船を留めるのです。その場で待っていろ、ってコトで」
「呼ばれてるのは誰かな」
「それはそのう……どうみても六殿では?」
しばらく六は黙っていたが、やがて観念したように重く閉じた口を開いた。
「……永雲龍王様か」
太號君との戦いが始まるこのタイミングで、自分が抜けるのはよくない。
私がいなくなったことで兵を動揺させたくないし、最悪なのは太號君の率いる大軍を前に小哪吒は逃げた、と見做されることである。
そうなれば自分だけでなく霊狐の名にも傷がつくだろう。
折角ここまで高まった軍の士気が落ちる。
――よりにもよって今か。
太號君の軍勢がこちらに向かっている今、私を呼ぶのか、龍王よ!
そう叫んでやりたい。
だが、それら全てのことを考慮しても永雲龍王の招きを断ることは、ならぬ、と六は思った。
龍王は太陽道士と並んで命の恩人である。呼ばれたら私事を脇にどけて参上しなければなるまい。
苦渋の決断だが、それが礼であり節というものだ。
「洪兄、ごめん。六はしばらく用事ができたらしい」
六が言うと二人の師兄は嫌な顔もせず、六の節烈を酌んだ。
「分かった。行って来い」
「正直なんで呼ばれたのかも分かんない。いつ戻るかも龍王様次第だ」
六は永雲龍王を思った。
最後に会ったのは、水府を出て行く際にこれまでの礼を述べたときだ。
龍王も私が敵討ちに趨走していることは知っているはずである。
それを妨げたということは、よほどの事態が生じたに違いない。
「三日は抜けると荊棘姫に伝えてくれ。それ以上長引くようだったら、使いを送るから霊狐公に伝えて欲しい。私が抜けたことがあまり大事にならないように気を付けて」
「分っている」
苦そうな顔をしている六をみて、劉与は豪快に笑った。
「なぁに、ちょっとの間くらいお前がいなくても、上手くやって見せるさ。あっでも早く来ないと、俺たちが太號君を倒してしまうかもしれんな! そうなっても恨むなよ!」
「そこまでは遅れない」
師兄の笑いを見て、少し感情の強張りがほぐれた六は肩を竦めた。
「では水府の土産を楽しみにしていてくれ、兄者」
六はそこで一行から別れ、一人動かぬ船の上に留まった。
一度はこの川に命を救われた。それが今度は私を阻むか。
船上で六はそこに宿命の皮肉を感じた。
そして太號君の運の強さを呪った。
まるでこの永江が太號君の城の濠のように思えてならない。
この濠を越え、十重二重に張り巡らされた魑魅魍魎の戦陣、意思の奪われた一騎当千の軍、そして私を孺子の様にあしらった妖将を越え、その先にようやく太號君がいる。
私の刃は本当にそこまで届くのか。
暮れないずむ夕日に、自分の心を重なる。
が、六は頭を叩いて思い直した。
「……なんてな。どうも最近、感傷的になってていけないや」
自分が誰だか忘れちゃいけない。
素手で虎に立ち向かい、大河に阻まれたら跨いで渡る。
私は暴虎馮河の小哪吒よ!
束の間訪れた寂寥はさざ波によって破られた。
いつの間にか六を乗せた船が動いている。
船が川の中ほどまで来ると、水中から巨大な蟹の化け物と、人のようなものが現れた。
人間だと断定しないのは、彼らの体が水中での生活に適応し、半身が魚の如く変化しているからだ。
鮫人、と呼ばれる妖怪たちである。
余談だが、多くの書籍において鮫人は南海に住むと記述されている。
またそれと並行して始皇帝陵を照らす照明には鮫人の脂が使われていた、という話がある。
この両者の説が成り立つかは少々疑問がある。
南海は中華の支配の外に存在し、例え中華を統一した始皇帝であっても、巨大な陵墓の照明に用いるほど、大量に鮫人の脂を入手することは難しかったはずである。
とすれば、南海以外の場所、中華の領域内の淡水にも鮫人が生息していたのではないか、と思うがどうだろうか。
余談の終わり。話を戻す。
鮫と冠されているが、龍王に仕える彼らからは獰猛さは感じない。六を迎えに来たのは、どちらかと言えば文官に類する者たちだった。
「小哪吒殿」
鮫人の声にはやや緊張があった。
六の驍名を憚っているのではない。まずい事態が起こった、という顔だ。
こりゃあ、めんどくさいことが起きたな、と六は推量した。
「我が君がお呼びです。ご足労願います」
いやあ、いまちょっと手一杯で……。
それが偽ざる六の本心だろう。
しかし、作り笑いを浮かべて六は言った。
「気にしないでください。大恩ある永雲龍王様のお召しなら、喜んで参りましょう」




