第二十二回 太號君が天道の是非を問うこと
「……三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提、故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚……」
ろうそくの灯に照らされた堂の中で、一人の高僧が経をあげていた。
三蔵法師、と呼ばれている男である。
三蔵法師といえば唐代の伝説的な僧、玄奘三蔵の名が真っ先に挙がるが、いま経を唱えているのはそれとは別の三蔵法師である。
それでも経蔵・律蔵・論蔵を修めたのが三蔵であるから一廉の人物であることは間違いない。
「故説般若波羅蜜多呪、即説呪曰、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶――般若心経」
仏像に向って一心に念仏を唱える三蔵の背後で、床板がミシリと軋んだ。
「来たか、妖虎」
と呟くと、三蔵法師は端然としたまま振り返った。
突如として出現した巨躯の虎を見ても、三蔵の挙措は乱れない。
「呵呵呵呵呵呵! 三蔵法師とやらは貴様か!」
「いかにも」
「我こそは太號君なり! 三蔵の肉を喰らえば寿命が千年延びると聞いて、喰らいに参った!」
太號君はいつも以上に大仰に名乗った。
原因は酒である。
妖虎は血の酒をたっぷりと飲み干し、ほろ酔いの陽気に誘われるまま城を出たのだ。
三蔵の肉はいわば酒の肴である。
「お前が今宵来るのは分かっていた。待っていたぞ」
三蔵法師がそういうと、太號君はギョロ目を見開いた。
顔には三蔵への嘲りが浮かんでいる。
「分っていたならなぜ逃げぬ?」
「他の者は逃がした。だが、愚僧は逃げるわけにはいかぬ」
「あえてこの太號君に千年の寿をもたらそうとは、殊勝な心掛けだ」
嘲笑を浮かべる太號君を前に、三蔵は従容として言い放った。
姿勢は真っ直ぐと伸び、眉一つ微動だにしない。
「妖虎よ、御仏の慈悲は無辺だ。お前を救うため、お前が自らの行いを悔い改められるようにするため、御仏が私をここに置いたのだ」
太號君は声をあげて哄笑した。
「呵呵呵呵呵呵! なんとなんとなんと! この太號君を救うというのか!? それでお前は犠牲になるというのか! 酷い仏もいたものだ!」
「全くだ。私は未熟な不心得者ゆえ、御仏ほどの慈悲はない。お前のような畜生を救う必要はないと思っている」
「では、なぜ残った。仏には逆らえぬか、木偶」
「御仏と私の思惑は違う。愚僧が残りしは、お前を苛み苦しめるため」
「我を笑い殺す気か、三蔵法師! この太號君を坊主一匹がどう苛む?」
「未来をもって、苛めるのよ!」
このとき三蔵法師は尋常ではない肝の太さを見せた。
足を崩し片膝を立てると、太號君を睨みつけて見栄を切る。
「御仏は私に将来を見る力を与えて下さった。それが為に私は今宵お前が来ることも知った。そして私はお前の死に様をも見た――よっく聞け!」
三蔵法師は声を張り上げる。
諸々の物質を通り抜けて響くような、朗々たる声だった。
「お前の死は、天より遣わされた者によってもたらされる。その者は、お前には到底理解できぬ術を使い、お前を追い詰める。野望は果たせず、兵は消え城は崩れ、それでもお前は何が起こってるか分からぬだろう。己の非力さと小ささを思い知り、絶望して、犬のようにただ死ぬ。それがお前の死に様だ。悔い改めるのならば、いまだぞ!」
「て、天より遣わされたものが我を討つ?」
太號君は腹を抱えて体を震わせた。
「呵呵呵、大した妄想だな、三蔵法師。 だが、それをいうのは貴様が初めてではない。多くの者が似たようなことをいっては、この太號君に殺されたわ! 一体いつこの身が亡びるのかな?」
「もうすぐだ。その日まで、その者の出現に怯え震えるがいい! お前を狩る者が、紅衣を抱いて趨走する姿が見えるわ。おうおう、剣の道だ! 刃を踏みしめて、その者はお前に迫っていく!」
「世迷言を。これが三蔵とは世も末だわ」
笑いを通り越して、太號君は呆れた。
そして喜色は去り、次第に不機嫌になっていた。狂ったように叫ぶ三蔵の姿は、太號君が見たかった光景とは少し違う。
「天ほど不仁なものはない。天こそ万物をもって芻狗と為す(全てを使い捨ての藁人形のように扱う、の意)暴君ではないか。天命を承けた者がいるとすれば、それはこの太號君よ。喝!」
その瞬間、空が震え、光と音が天より降ってきた。
轟音とともに堂の屋根が吹き飛ぶ。
不意の落雷の正体は、一振りの巨大な偃月刀であった。
偃月刀の名を岳崩、という。
太號君は岳崩の刃を空に向け傲岸に言い放った。
「あの月は、我が為に登っている」」
「驕慢! やはり救えぬな、妖怪!」
「もうよい、興が削がれたわ。弱き者に死を、天に代わりて殺殺殺、殺殺殺! 我が千年の礎となれ、三蔵法師!」
「むざむざ食われるわけにはいかんな!」
突如三蔵法師は太號君へ突進した。
完全に岳崩の間合いである。
だが、ついにその刃が振り下ろされることはなかった。
身命を賭した三蔵法師は最後に吠えるように叫ぶ。
「南無阿弥陀仏!」
「おっ――」
その瞬間三蔵法師の体から光と炎が溢れた。
肉体は爆散し、堂が半壊するほどの爆発が起きた。先の岳崩の飛来に、優るとも劣らぬ威力である。
ただし太號君は至近距離で爆発を受けたものの、その身にはいささかの傷もない。
しかし肉体の傷はなくとも、三蔵の肉を食いそびれた不興は、太號君の感情を逆撫でた。
「これだから、死士はつまらん」
太號君は焼けた骨の欠片の一つを踏み砕き、一言吐き出した。
太號君にとって、命を投げ出す行為は何ら評価に値しない。
全てはまず生きてこそ、ではないか。
己の存在しない世界は無である。
全ての意味はまず己が存在することから生じる。
それが太號君の考えである。
命を賭す行為は、妖虎にとって無への逃避にすぎない。
慍色を抱えたまま、太號君は居城へ舞い戻った。
帰還した太號君の耳に飛び込んできたのは、霊狐と黒風が戦を起こし、霊狐勢が勝利したという報告だった。
「かっ。では我が相手は狐か。霊狐の兵の数は?」
「黒風の勢力を取り込んだとしても、最大六万を超えることはまずありませぬ。ただ、小哪吒が生きており霊狐の将になっているようです」
「――まさか」
甲高いを上げたのは金華娘である。
柳眉を逆立てて報告者を睨んだ。
「あの小娘、わらわの毒に侵されて死ななかったというのか!」
「ふうむ。小哪吒とやらはいつぞや我に刃向かったとかいう娘か。そうか金華娘の粗略か」
太號君に視線を向けられた美しき妖女はしずしずと跪いた。
「申し訳ありませぬ、太號君様」
太號君は黙考し、考えがまとまると岳崩の柄をドンドンと地に打ち付けた。
「金華娘よ、自分で蒔いた種は自分で刈れ。十二万の兵を与える。臼が麦を挽くように、霊狐勢をことごとく挽き殺せ」
「御意」
自分に恥を掻かせた小哪吒への怒りを抱えたまま、妖女の姿が闇に溶け、消えた。
第三部 長風破浪 へ続く




