第二十一回 李六が天道に是非を問うこと
双方が降伏に同意し、牙奉山は開城した。
霊狐方は黒風方に黒風の首を返却し、黒風勢は首を携えて首府である陀熊山へと退却していく。
降伏による開城のため、霊狐勢による追撃はない。
目の前を横切る黒風勢を霊狐の軍は緊張しながら見守っていた。
双方の軍が接近するため、兵卒同士の突発的な騒乱が起きないとも限らないからだ。
しかし不測の事態はなく黒風勢は遠ざかり、霊狐勢は牙奉山へと入城した。
そして十日間、霊狐勢は進軍を停止し、牙奉山に留まった。
「その間に黒風公の弔いをせよ」
という霊狐の、というより六の計らいである。
戦場では金より貴重な時間を投げ出す気になったのは、剡尤という妖怪が見せた壮烈な忠義が胸を打ったからだ。
この十日の間に牙奉山の陥落、黒風の討ち死に、そして小哪吒が霊狐方の将として参戦していることが、あの鳩を使った非公式の通信網で空中を飛び回った。
大半の妖怪たちは動揺したが、もっとも動揺したのは黒風の息子、統旋である。
父の方は筋骨隆々の逞しい大熊であったが、統旋は丸々と肥え太った肥満体である。
陀熊山で酒と色に耽っていた統旋は、敗報を聞き父の首を見ると、贅肉で膨らんだ体を飛び上がらせた。
「小哪吒だと……」
「はっ」
領主ともいうべき黒風が死んだ以上、息子の統旋がその地位を引き継ぐのは当然である。同時に仇を討つのも子の役目だ。
だが、統旋には大将の器量も声望もない。
快楽を貪り、弱者を虐げることしかできない男である。
黒風の唯一の美徳といっていい尚武の気質を継いでいない。
統旋はただ狼狽えた。
小哪吒が来る……この俺を殺しに来る……。
十日、あと十日で小哪吒がやって来る。
そう考えていると父の首に自分の顔が重なった。
「ひえっ」
思わず統旋は自分の首に手を当てた。そこに首があることを確認したのである。
「も、もうよい、その首を下げよ! 門を堅く閉じ、防げ。あ、蟻一匹通すな!」
辛うじて統旋が命じたのはそれだけである。
軍団の招集と編成を命じることもない。
外交的手段で霊狐に働きかけるなど思いもよらず、そのようなことができる配下もいない。
統旋の左右に居るのは主に媚びへつらい頽落的な快楽に誘う佞臣だけである。
結局、統旋はただ目を閉じ耳を塞ぐ、現実逃避の道を選んだ。
このような状態では無理もないが、陀熊山の奥に引きこもり、ひたすらに痛飲する統旋に、陣営を見限る者が続出した。
日に日に陀熊山に詰める妖怪の数が減っていく。
だが、そこへふらりと現れた妖怪がいた。
荊棘姫である。
泥酔の中に最後の希望を見出そうとしている統旋を一瞥して、荊棘姫は嗤笑した。
「どうやら年貢の納め時だな、統旋」
「け、荊棘姫か。いったい何の用だ?」
「なに、すぐに帰る。旧主が亡くなったと聞いて香を焚きに参っただけだ。まあ、私のことなどどうでもよい。それよりお前、このままでは死ぬぞ。小哪吒が迫っている」
「うぐっ」
統旋は震えた。
酒でも死の恐怖を打ち消すことはできない。
だいたいそんなことは言われなくとも分かっている。
分ってはいるが、この期に及んでどうしろというのだと、統旋はそこから目を背けた。
「だ、陀熊山は堅城だ。小哪吒とて、ここの門は易々とは破れん……」
棘のある冷笑が響く。
「ははは、お前には足元が見えてないのか。小哪吒は門を破る必要などない。開けろと一言声をかけるだけでよい。それだけでお前の部下はお前の首を斬り落として、小哪吒に献じるであろうよ」
「な、なに。そんなことは……」
統旋の手が震え、杯に満たされた酒が零れた。
「起きぬとでも? ではなぜ私がここに居るのだ。お前は蟻一匹通すなと命じたのではないのか? 私は別に門を破ったわけではない。通してくれと言ったら門番は通してくれたぞ。もう誰も、お前の言う事など聞かぬということだ」
そこまで事態は進行していたのかと、統旋は愕然とした。
栄華に満ちた自分の暮らしが崩壊していく様を、まざまざ見せつけられた思いだった。
「た、助けてくれ、荊棘姫! いますぐお前を将に任じる! そ、そうだ荊棘兵も呼ぶ! 小哪吒と戦ってくれ!」
「なぜ私が貴様に臣従しなければならんのだ?」
荊棘姫の冷顔がいよいよ冷えた。
「かつてお前の父は自ら兵を率いて切り込み、白刃に身を晒した。それゆえ私は臣従する気になったのだ。貴様が同じことを小哪吒相手にやって見せたら、臣になってやろう」
「うっぐぐ……」
それをやったら死ぬことは分かり切っている。
進退窮まった統旋は喘いだ。
酒を煽り、喘ぐことしかできなかった。
情けない男だ。死ぬならばせめて、格好をつけて死ねばよいものを。
と、荊棘姫は思った。
だがそんな男にも、利用価値はある。
荊棘姫はここで謀を一つ行った。
「だが一つだけ、お前が生き永らえる方法がある」
統旋にとってその言葉はカンダタの前に垂れた蜘蛛の糸のようだった。
荊棘姫がわざわざ助け舟を出す理由はないのだが、統旋は逡巡もせず食いつく。
「その方法とはなんだ?」
「今すぐ逐電しろ。ひたすら走れ」
「ど、どこへ?」
「知らん。それくらいは自分で考えろ。ただ霊狐の慈悲に縋るのはやめておけ。お前は恨みを買い過ぎている。霊狐の前に引き出される前に、恐らく事故死する」
「ほ、他に方法はないのか?」
統旋にはまだいまの身分を捨てることに躊躇いがある。
「ない。ところで言い忘れていたが、明日には小哪吒が来るぞ。まあ好きなだけ悩め」
「そんな……」
「部下からそれも聞いていないのか。この山の者どもの肚は読めたわ。今日寝たら、明日お前が目覚めることはないだろう。事故が起きてな」
「――」
恐懼した統旋は酒の酔いの勢いに任せ、大声で御者を呼びつけ、転がるように馬車に乗ると、陀熊山を飛び出した。
「香を焚いて統旋の酒臭い匂いを消せ」
統旋が逃げたのを確認すると、荊棘姫は当然のように陀熊山の妖怪に命じた。
よくよく考えればこれはおかしいが、声望ある荊棘姫が陀熊山の主に収まることに異を唱える者はいない。
ただ、荊棘姫の目的は陀熊山の主の座などではない。
生臭い匂いを払うと、荊棘姫は次の命令を出した。
「邦の全土に鳩を放て。小哪吒を恐れた統旋は、何もかも放り出して逃げた、とな」
剡尤の気高い忠義と愛国心を持った剡尤が黒風の遺徳だとすれば、統旋は黒風最大の汚点である。
あまりにも見苦しい逃走だった。
結果から言えば、この行為が黒風の築いたものを粉砕した。
そしてそれこそ荊棘姫の狙いであった。
もし統旋が残存勢力を纏め、陀熊山の砦に立て籠もっていれば、霊狐軍は負けぬまでもかなり面倒なことになったことは間違いない。
が、そうはならなかった。
――統旋は、いままで散々奢侈を楽しんでおきながら、戦を前に単身逃げた。
荊棘姫はそれを白日の下にさらした。
上に立つ者がそのようなことをして良いはずがない。
統旋が逃げた時点で、統旋を奉戴しうる反抗勢力は消し飛んだ。
かわりに黒風の邦の妖怪は烈火のごとく怒った。
ほどなく荊棘姫の元に、怒れる妖怪たちに殺された統旋の死体が届いた。
荊棘姫は、敗残の国の民に霊狐の統治のすみやかに承服させるため、統旋を使ったのである。
――黒風は死に統旋は恃むに足らず、ならば霊狐の方が良い。
そう思わせるための工作。
陀熊山に到着した六と霊狐の軍を迎えたのは荊棘姫だった。
「おう李六。待っておったぞ」
「荊棘姫殿……」
これには李六も驚き瞠目した。
「殿は余計だ。これからは同輩、いや霊狐公の将としてはお前の方が先任だろう」
といってから荊棘姫は霊狐の前に跪いた。
「荊棘姫と申します。願わくば今日より霊狐公にお仕え致したい」
一戦もせず砦と良将と得た霊狐は、思わぬ僥倖に飛び上がらんばかりに感激した。
ついさっきまで敵同士だった黒風の邦をまとめ上げるのに、荊棘姫より適した人材はいない。
「立たれよ、荊棘姫殿。下の君主の周囲には下僕があり、中の君主の周囲には友がおり、上の君主は師に囲まれているという。私は無知蒙昧だが、上の君主になることを願っている。是非私を輔けて欲しい」
「はっ」
その日陀熊山では霊狐軍の勝利を祝ってささやかな宴が催された。
膳には酒を伴っていたが、参加者の酔いは浅い。
巨凶太號君を前に泥酔するほど霊狐とその将兵たちは愚かではない。
ただしそれでも、人間である屠、虎の同志と妖怪たちは手を取り合って燕喜した。
ただ一人、笑顔に力がないのは六である。
六と最も付き合いの長い劉与と洪宣だけがそれに気が付いた。
翌朝、鶏鳴が響く前に六は目覚め、陀熊山の砦から抜け出すと、一人で山を登った。
自身の内部に生じた矛盾に心がかき乱され、体を動かさずにはいられない。
何かから逃げるように、六は山の頂きを目指した。
「こんなところでなにをしてる、六」
薄闇の中、陀熊山の頂上で、悄然と佇む六を劉与と洪宣が見つけた。
黎明前の空は昏い。
六はその闇の中にいた。
「私が行った悪行の苦みを味わっているところだよ」
「聞き捨てならんな。お前がいつそんな悪行をした?」
「そうだぜ。今回一番の戦功を立てたのはお前じゃねえか。なにをそんなに憂慮してるんだよ?」
二人に促され、六は躊躇いがちに口を開く。
「……剡尤を、殺したことだ」
「牙奉山でお前と一騎討ちした奴か」
「そう。あれこそ黒風が遺した烈士だった。主の名誉を守り主に殉じ、さらに自分の亡き後も邦の安寧を守ろうとした。ああいう奴が共に戦ってくれたら、どれほど頼もしいか……殺すべきではなかった……」
苦いものを吐き出すように六は言った。
「お前はそう言うが、剡尤は死にたがってたぜ。それは傍から見てても分かる。生かす方法なんかねえよ」
「それは分かっているよ劉兄。それでも、あの最後を見たら考えずにはいられない。剡尤と比べて自分はなんだ?ってね」
問うことは六の根幹である。
このとき六は己の存在に疑問を投げかけていた。
「私は昔、自分から生け贄になったことがある。知ってるかな、この話」
「朱堂鏢局の者で、小哪吒蛇斬り李六の誕生譚の話を知らん者はいない」
「そう……自分でいうのもなんだけど、あのときの私は奇麗だった――どこまでも純粋で、心にはただ正義だけがあった。別に死んでも、それならそれでいいと思ってた。いまの私は、あのときの自分には及ばない。ははっ」
一瞬乾いた笑いを漏らし、六は自分の弱音を吐露していた。
この場に他の者がいたら決して見せないであろう、二人の師兄だけに見せる顔である。
「太號君に関ってからの私は酷いもんよ。関係のない妖怪の上に怒りを移して、暴れるだけ暴れた。その後、私は賄賂を用いて道理を枉げ、死から逃げた。自分の復讐のために他者を扇動し、挙句立ち向かってきた忠義の士を殺した。腥い汚泥に首まで浸かっているわ! こんな醜い生き方をしながら、それでも死にたくないと思っている。太號君を殺すまでは」
いつしか六の眼には涙が浮かび、体を震わせていた。
妄執さえ捨て精神の純度を増した六にとって、自らの行動はより一層穢れたものと映ったのだろう。
――気高い懊悩よ。
劉与は、妹弟子の精神性の高さに圧倒された。
「……腥風に慣れ、鈍感になったことを強くなったと勘違いしている奴は多い。だが真の強さとは、心に痛みを感じつつ、なお耐えることだと俺は思っている。六、正しきを求め流したお前の涙は、千金に優る。その涙は、朱堂鏢局の誇りだぜ」
「劉兄……」
「へへっお前には仲間がいるだろ。一人で苦しむことはねえ。お前と一緒なら地獄にだって一緒に落ちてやるぜ」
と劉与は破顔した。
洪宣も続けて妹を励ます。
「蓮華は泥の中で芽を吹くが、そのことは花の美しさを損なわん。お前もそうあれ、小哪吒」
「おやこれは、蓮華と来たか。久々に女扱いされた気がするな」
「そんなことはない。屠虎の同志の紅一点だとみんな思っている」
ようやく凄然とした雰囲気が和らいだ。
六が微かに笑う。
「それホント?」
「勿論だ」
「でも、地獄に一緒に落ちてくれるというのは嘘でしょう」
「それも本当だ」
劉与は力を込めていった。
「ありがとう、兄者。おかげで楽になった」
――この二人となら地獄に落ちるのも悪くない、か。
そう思うと余計な力が抜ける。
いつの間にか山頂に朝日が差していた。
ふーーー、と六は胎息し、顔を出した太陽に向って叫んだ。
「天よ聞け! 私を邪悪と思うのなら、いつでも地獄に落とすがいい! だが、そうでないと思うのなら、我が願いを遂げさせてくれ!」
六の声に、天は何も答えない。
天はただそこに在るのみだ。
「……帰るか。大声出したらすっきりした」
「ああ、今日からまた忙しいぞ」




