第十八回 荊棘花、蓮華を試すこと
気を以て剣の駆動と制動を御す。
それが御剣術である。
剣を振る際の速度の底上げから始まり、やがて剣を飛ばして敵を斬る飛剣の術を経て、剣に乗り飛行する高等技に至る。
六自身問題なく使えると判断していたのは飛剣の術までであって、剣に乗る技術は非常に怪しいものだった。
大空を飛んだ六は、茨に覆われた山を眼下に望み、荊棘姫の住処を探しながら、足元の剣にも気を配る。
履の下では刀身がギシギシと軋んだ。
少し気を抜けば剣がバラバラになりそうだった。
半刻もそうして捜索していたところ、ついに六は目当ての物を見つけた。
茨がその場所だけを避けるようにしている一角があり、そこに草廬(質素な造りの家)が一棟見える。
「あれか!」
歓喜して思わず叫んだ。
そして気を緩めた瞬間、乗っていた剣が砕けた。
「あっ」
落ちていく六は瞬時に自分の落下地点を見定めた。
そこには無数の棘が密集しているが、六は安全な道筋を見極め棘を躱しながら、六は荊棘の中を転がり落ちる。
ダン、と地に足が着いた時、服は少し破けていたが、体に傷はなかった。
ほっとしながら、六は空で見た草廬へと向かった。
「もし――」
「なんだ貴様は。黒風の使いか」
六が門の外から一言声を掛けたところ、たちどころに鋭い声が帰ってきた。
現れたのは鋭気を纏った妙齢の女である。
触れれば棘が刺さりそうな雰囲気があり、一目でこれが荊棘姫だと分かった。
「いえ、その敵の使いです」
「ほう太號君の手の者か」
「そのまた敵の使いです」
荊棘姫は少し考えてから、軽く驚いたように目を見張った。
「霊狐の使いだと。しかもお前、人間か」
「はい。食客として霊狐公の下に居る李六と申します」
「ふむ」
珍客に興味を引かれた荊棘姫は、家の中に来るように身振りで促した。
敷物の上に座るよう示された六は、荊棘姫と膝を突き合わせる。
「で、霊狐の使いが私に何の用じゃ」
「霊狐公は高名な荊棘姫殿と友誼を結びたく願い、私を遣わしました」
「友誼だと」
「はい。お近づきの印にと、霊狐公から預かってきた品があります」
六は嚢から一着の裘を取り出して広げた。新雪のように白い、見事な毛皮の衣である。
「狐白裘か」
「はい。荊棘姫殿のために拵えました」
狐白裘は裘の中でも最上の物である。
狐のわきの下の白毛のみを用いて作るため、一着の狐白裘を拵えるのに百匹の狐が必要とされていた。
かつて薛の孟嘗君が狐白裘を一着所有しており、秦の昭王に献じた故事が伝わっている。それほどの宝である。
「お納めください」
「貰う理由がない。それに富んではおらぬとて、衣服に困るほど貧してもいない」
「荊棘姫殿に受け取っていただかないと私が困ります」
「見え透いた芝居はやめろ」
荊棘姫は不機嫌さを露わにした。
「何の理由もなく茨棘の道を通り、遥々ここに来たわけがないだろう。曲言は好かん。霊狐の真意をはっきり申せ」
カッと目を剥いて荊棘姫は六を観た。
人が人を見る観方は十人十色と言ってよい。何を以て善とするか悪とするかは、各人の考え方による。
文人ならば野暮を悪として雅を善とするだろう。商人ならば商利の厚薄が判断基準となろう。
荊棘姫は武人である。曲邪を厭い、義と勇を好む侠女だった。
そして六もまさにそうだった。似たもの同士の二人には、どこか通じ合うものがある。
それゆえだろうか。
六は荊棘姫に視られたとき、荊棘姫の目を通して自分自身を見たような気がした。
途端に、彼女が自分を家の中に導いた理由と、狐白裘を前に横を向いた理由を悟った。
荊棘姫は、単身茨の道を越えて来た自分に一目を置いてくれたのだ。
その思いを自分は汲めなかった。
賄賂を渡して媚びることなどせず、最初から堂々と頼むべきだった、と六は自分を恥じた。
もっとも今更言い訳のしようがない。
腹を据えて六は言った。
「では、申し上げる。荊棘姫殿に是非我が方の将になっていただきたい」
「衣一つで私を釣るつもりだったか。この荊棘姫も見くびられたものだな」
と、荊棘姫は六を詰った。
「荊棘姫殿のご心眼に恐れ入るばかり。だが、無理を承知でお頼みしたい」
荊棘姫はしばらく考えていたが、やがて「駄目だな」と漏らした。
「黒風はいけ好かない男だが、それでもかつての主君だ。理由もなく刃を向ければ義を欠く。私が横道者と謗られよう」
「確かに仰る通り。しかし戦う相手が太號君ならばどうでしょうか」
六は粘った。
ここまで来て簡単には引けない。
「奴こそ邪悪の根源です。そもそも黒風公が霊狐公を狙うのも、太號君に追われた末の窮余の一手。奴の往く所に常に死と破壊が齎される。その性質は酷薄、欲望は留まることを知りません。これを放置することこそ、義を欠くとは言えませんか」
「思ったより口先が達者だな。しかし舌鋒だけでは太號君には勝てんぞ。奴は途方もなく強い。私やお前よりも強いだろう。その声は雷を呼び、疾駆すれば凄風を従え、牙は天を裂き、爪は地を割る。それを知ってなお太號君と戦うつもりか」
「これは勇名を馳せた荊棘姫殿の言葉とは思えない! あなたは相手の正邪ではなく強弱が戦いを選ぶ理由になると言われますか! 相手が邪悪でも強ければ逃げると? 正義でも弱ければ叩くと言われるのか? 私は違う。虎の息を窺いながら生きるなど御免だ。断固として太號君を討つ」
「この荊棘姫を前にほざいたな小娘が!」
ここぞとばかりに六が捲し立てると、荊棘姫は嚇と色めき、表面上は慍色を見せた。
「面白い面白い、よくぞほざいたものよ! 貴様が太號君に食われるか、あるいは無様に逃げ出すか――どちらにせよ、特等席で見たくなったぞ! いいだろう、貴様の話に乗ってやる。ただし、やはり黒風を相手には戦えぬ。私が戦うのは太號君だけだ」
「もちろん、荊棘姫殿の名を汚すような事を無理強いはしません」
「それともう一つ。先に要らぬと言ったが、話を請けた以上、進物は貰う」
「ご随意に」
六が再び狐白裘を差し出すと、荊棘姫は首を振った。
「そんなものは要らん。私が欲しいのは、これだ」
ひゅっと荊棘姫の腕が伸びたかと思うと、その手は六の服の中に滑り込み、懐中をまさぐる。
「あっ――」
胸に蔦が這うような不快な感触を覚え、六はうなじの毛筋をそばだてた。
荊棘姫は構わず、六の懐にあった短剣を乱暴に奪った。
「これを貰うぞ」
「待った!」
六は思わず荊棘姫の腕ごと短剣を握って、動きを掣した。
この短剣は最愛の人といってよい章元の形見である。
四基武功皆伝の証であり、倀鬼となった章元を屠った夜、その灰の中から拾い上げたものだ。
六は掌にある短剣が、熱く脈打っているのを感じた。そこには章元の息遣いが宿っている。
「なんだ。これはダメか。荊棘姫の戦働きは短剣一つに劣ると申すか。違うというなら手を離せ」
そういう荊棘姫の顔には不遜さがある。
無言のまま荊棘姫の腕を握っていると、じれったそうに荊棘姫が吼えた。
「ええい、離さんか!」
――なんと言われても、これだけは渡せぬ。それにしても、荊棘姫ともあろうものが、なんと醜く浅ましいのだ。
六は内心そう思ったが、それを口に出すわけにもいかない。
言葉に窮して沈黙した。
だが……なぜだ?
追い詰められたとき、六の精神のある部分は、虚空に問いかけた。問うことこそ、六の思考の根本である。
なぜ荊棘姫はこの剣が欲しがる?
これは章元に所縁のある人間以外にとって、何の意味もないものだ。
それなのに、なぜ醜態を晒してまでこの短剣に拘る?
そう考え始めると、六の心が幾分落ち着き、狭まりかけていた視界が広がった。
冷静を取り戻した六の目には、荊棘姫はたった一本の短剣に拘る小人と映る。
あっ――。
胸の内で六は仰け反った。
一瞬のうちに、荊棘姫の真意を悟った。
たかが一本の短剣に拘り、浅ましい姿を見せているのは荊棘姫ではない。
またもや自分は荊棘姫を通して自分自身を見ていたのだ。
それは私だ。醜いのは私だ。
太號君を討つというのは大業である。
そのような大業を私怨にて為せるだろうか。
怨みの力で多くの者を動かし、多くの者と共に事業を為せるだろうか。
不可能である。
そのような壮挙を為すには、なにをおいても大義をもって行い、それを天下に示し続ける必要がある。
そうでなければ人は付いて来ない。
復讐心すら捨て去り、義だけを心に残せるか。
荊棘姫は、自分にそれができるのかどうか試しているのだ。
その考えに想い至ったとき、六は章元の短剣を手放した。
そのとき、六の精神は一段純化したと言える。
章元を想う心は六にとって何よりも強い。
愛、と呼ばれる感情である。
それ自体は悪いことではないが、強すぎる愛は妄執となり、人に軽重の順序を誤らせる。これがよくない。
常に胸に抱いていた短剣はその象徴であった。
六はそのこだわりを手放した。
荊棘姫は、己の心に突き刺さった妄執という名の棘を抜いてくれたのだ、と六は思った。
今なら言える。
太號君を倒すのは、仇討ちのみが理由に非ず。
この地に生きる全ての者のために、正義を示すためだ。
「取り乱してしまい申し訳ありません。たかが短剣一つ。どうぞご随意に」
「謝謝、李六。お前の懐剣、確かに受け取った。この荊棘姫、お前の厚意に必ずや報いよう」
そういう荊棘姫の顔は澄み切っていた。
荊棘姫は相手の心を映す。
ならばそれはつまり、六自身の心が澄んでいた、と言えるだろう。
六は一晩荊棘姫の草廬に宿り、荊棘姫と今後について話し合った。
荊棘姫はいくつかの用事があり、それを済ませたらすぐに霊狐の元に向かう、と約束してくれた。
時期は明言していない。が、六もあえて尋ねることはしなかった。荊棘姫ならば適切な時期に現れるだろう、という信頼が六にある。
翌朝、外には出ると霧の如き細雨が降り、草廬を囲む茨棘を濡らしていた。
それが朝日に照らされてキラキラと輝く。
美しい光景だった。
まるで情念を手放したことを、章元がよくやったと褒めているように思われた。
――章兄よ、六はまだ武の道を歩いています。
あなたが教えてくれた歩み方で。
おかげで茨棘の道を往くことも苦ではありません。
「あっ」
ふと六は思い出した。そう言えばここへは飛んで来た。
来るときに乗ってきた剣が砕けたのだった。帰る方法がない。
それを察した荊棘姫が茨棘に向って手をかざすと、複雑に絡みついていた茨棘が蠢き、山を下りる道を出現させた。
「助かりました」
「礼には及ばない。友の往来を妨げるわけがなかろう」
二人は互いに拱手して、六は山を下りた。