第十六回 小哪吒、妖狐と語らうこと
六、洪宣、彭幹は忙しなく山塞と霊狐の白泉洞を往復し、絶えず連絡するようになった。
求めたのは一にも二にも情報である。
屠虎の同志には北方妖界の情勢についてあまりにも無知だった。
しかし霊狐はその地に古くから根を下ろした一族だけあって、双方の動きを良く把握していた。
また本質的に霊狐は武闘より知略に向いた性格であったことも関係している。
そのことは対黒風、対太號君の戦略を練るうえで大いに役立った。
「公と比べて黒風の器量はどれくらいでしょうか」
六は曲言を交えずに霊狐に尋ねた。言い回しに気を遣う時間はない。
「孤より武威は上ですな」
霊狐は自ら劣るの部分を認めつつ、プライドを見せた。
その他の部分では負けていないと言っているのである。
「黒風は力で他者を脅し従わせる。孤はそのようなことしなくとも、孤を慕う者に囲まれている。些か孤が上と見ています」
これは霊狐の本音だろう。
また黒風はそういう妖怪であることは霊狐だけでなく他の者も繰り返し述べていた。
その中にはかつて黒風方に居た妖怪もいる。
というか近くにいた妖怪の方が実際に被害を被っている分、辛口であった。
恫喝に次いで多く聞かれる黒風の悪癖は吝嗇である。とにかく恩賞、俸禄を渋る、と黒風の元部下たちは言った。
また諫言を聞かず、それどころかしばしば逆上し、諫言した者を罰することもよくあるという。
ただし霊狐はそれよりも冷静に黒風を観ていた。
怨みは目を曇らせる。
――事実のみを見ねば、こちらが誤る。
そう戒めつつ、霊狐は黒風の長と短を測った。
「あれは驕っています。他人の言葉を聞く器量はない。だが一方で、黒風はそのやり方でも成功するほどに有能であることも確かです。まともにぶつかれば我が方が不利、と言わざるをえませんな。それに奴の配下には荊棘兵もいる」
「荊棘兵? なんですかそれは」
「一兵がそれぞれ十兵の力を持つという黒風方の精鋭。戦になれば我らにとって最大の障壁になる。荊棘姫の置き土産よ」
そう答えたのは霊狐ではない。
その下にいる蓮香という謀臣である。
霊狐と同じ妖狐の親戚筋に当たり、血の巡りが良く肝も据わった なかなかの女丈夫である。
霊狐はこの一族きっての秀才に絶大な信を置き、諜候の総覧者、つまり間諜の取りまとめる役を任せていた。スパイの親玉だと思えばよい。
間諜の頭たる妖狐。
言葉だけ聞けば、淫靡さが匂い立つような妲己の如き美女を想像するが、蓮香は好色ではあったものの、傾国の美女といった雰囲気ではなく、気風の良い姉御肌の妖狐である。
そもそもが戦争自体も乗り気ではなく、こんなことの為に学問したんじゃないんだが……とぼやくのが常だった。
余談だが人界に科挙試験があるように、妖狐にもそれに似た試験がある、という話が清代の奇談集、子不語に見える。
それに限らず中華の民間伝承は、妖怪の社会も、死者の社会も、天の神々でさえ、本質的には人間の社会とあまり変わらない、という考えが濃い。
どの世界にも府や衙(役所)があり、そこには歴とした官僚組織があり、立身出世を望むなら試験を受けて登第しなければならないのだ。
妖怪だから勉強しなくてよい、と考えるのは大間違い。試験も学校もあるのだ。
話を戻す。
六はさらに尋ねた。
「その荊棘姫というのは?」
「かつて黒風方の将を務めていた女妖だよ」
蓮香は自身が知りうる限りの敵情を話した。
荊棘姫は将としても戦士としても、一流の武辺者だった。
彼女は自ら剣をとって部下を鍛え上げ、ついに精兵たる荊棘兵を作り上げた。荊棘姫による軍事改革により、黒風は北方妖界の一角を占めるまでになったと言える。
ところが、である。
徐々に黒風と荊棘姫の間には溝ができた。
勢力を広げるにつれて黒風の驕慢に拍車がかかり、ついにその態度に辟易した荊棘姫が黒風の元を去り、そのまま隠棲したという。
「つまり黒風はみすみす名将を逃したってわけ。あたしらにとっては幸いだけど」
「ふーん。そんな人がいるのか……会いたいな、その荊棘姫に」
「それは難しいな。荊棘姫の隠棲した山はここから黒風の領土を渡った先にある」
「丁度良い。偵探の話を聞くのもいいが、そろそろ自分の目で敵情を視たいと思っていたところです。あとで黒風の領地に詳しい者を貸して欲しい」
「それは構わないけど……」
「ありがとうございます。それと話は変わりますが太號君に何か動きはありませんか?」
蓮香は首を振った。
「ない。不気味なほど静かだ」
「……蓮香さんは太號君が動かない理由をどう見ますか」
「血の酒を飲んで酔っぱらいながら、あたしらが殺し合うさまを楽しんでいるんだろう。太號君はあたしらのことを、自分を喜ばせる闘犬……いや闘蟋(コオロギを戦わせる遊戯)の虫けらくらいにしか思ってない」
蓮香は不快そうに吐き捨てた。
「多分、太號君が動くのはあたしらと黒風がぶつかった直後だろうね。怒涛の如く雪崩れ込んで来るだろうよ」
「私も同じ考えです。疲弊した両者を一気に併呑するための静観と見ました。ただし状況はいつも同じとは限りません。睨み合いが長引けば太號君が痺れを切らし動く可能性もあります。常に偵察を怠ることがないよう」
「分っているよ」
と蓮香。
「安心なされよ。香に粗略はない」
霊狐も太鼓判を押す。
だがその上で六は念を押した。
蓮香を疑っているわけではない。戦況は流動的であり、不測の事態が起きるのは常である。
最も悪いのは不測の事態に遭遇することではない。それに対し必要以上に動揺し、判断を誤ることだ。
六は不意の衝撃に動揺することを戒めていた。
「ふふ」
自らもあれこれと動き回り、遥か年上の妖怪たちにも物怖じせず対等に語り合う六の横顔を見て、霊狐が俄かに微笑した。
ほんの一月前は青白かった六の顔は、既に褐色を帯び始めている。
常に自ら山野を駆け回っている証拠である。
良く動く。そして聡い子だ。言動に嫌味がない。
無論六があれこれと忌憚なく意見を述べられるのは、霊狐自身がそれを許すだけの度量があるからでもある。
賢者を招き、諫言を容れ、信任する。それがいつの世も変わらぬ君子の資質であり、霊狐はそれを備えていた。
だが、英主であるがゆえに霊狐は自分の慧眼を誇らず、代わりに六に光明を見た。
この子ならば――。
霊狐は未来を夢想する。
「以前黒風を倒したあと、の話をしましたな」
「はい。初めてお会いしたときに」
「そのとき次は太號君とも戦うと孤らは誓い合った」
「はい」
「では黒風を倒し、太號君をも倒したあと、六殿はどうする?」
「それは――」
六は言葉に詰まった。
考えたこともない、というのが正直なところである。
太號君は強い。
倒そうと知恵を絞れば絞るほど、その強大さに慄然する。遠目には小さく見えた山が、近づくにつれ巨大に見えるが如しだ。
立ち塞がる巨峰を前に、それを越えた後のことに思い巡らす余裕などない。
「さて、どうしましょう。師兄らと一緒に故郷に戻り、再び鏢客でもやるのではないでしょうか」
他人事のように六は言った。
「それは困る」
と、霊狐。
「良かれ悪しかれ太號君は北方妖界の支配者だ。それが消えれば地から涌く様に梟雄が現れ、北方は荒れる。そうなれば我らの界隈だけでなく、人界も迷惑するのではないかな」
至極当然の見通しである。
王朝が倒れ大乱が起きるのは珍しい話ではない。
「では霊狐公が治めればよいでしょう」
「そのとき小哪吒は孤の隣にいるかな?」
「さて……太號君どころか黒風さえいまだ健在。そこまで先のことは私にはとても分かりません」
話の雲行きが怪しくなってきた。
嫌な雰囲気を察した六は逃げようとした。
「六殿は孤と艱難辛苦を共にすると申されたではないか。是非、太號君を倒したあとのことも頼みたい」
「そのときまだ私が役に立つのならば、霊狐公の巡撫に力添えしましょう」
やはり他人事のように六は言った。
――太號君を倒すことさえ蟻が象を倒すようなものなのに、もうその先の話をするとは。
と、内心六は霊狐に対してやや落胆している。
その後に割拠する群雄を纏め覇者になるなど、現状からすれば夢のまた夢。
小哪吒という、ほんの少しの武力を手に入れただけでそのような醜悪な妄想をするとは、結局霊狐公もこの程度の男か、と霊狐の底を見た思いだった。
だが、霊狐は笑いながらとんでもないことを言いだした。
「孤の巡撫? ははは、とんでもない。孤は白泉洞を治めるだけで手一杯。とても太號君の後釜は無理だ。器量が足りぬ」
「はあ」
六は気の抜けた返事をした。話が見えてこない。
「六殿、あなたがやるのだ」
「はあ?」
「太號君を倒したのち、あなたがその後釜に座るのだ。北方に君臨する魔姫となって欲しい」
流石の六も唖然とした。
霊狐は笑ってはいるが眉宇に力がある。半ば本気で言っている。
「……それは天が決めることであって、個々が決めることではありませんね。もし天からお前がそれをやれ、という徴が垂れてきたらやりましょう」
六は天に責任を押し付けて、やはり逃げた。