第十二回 李六が水府にて学び始めること
折を見て太陽道士は六を連れ出し、宮殿の主の元へ伺候した。
その名は永雲龍王。
正体は千尺もの巨大な龍である、と六は聞かされていた。
しかし高座に座る貴人は、挙措に隙なく威厳はあれど人間と変わらない姿をしていた。
姿がそのままの年齢を表しているのならば、歳は四十代後半くらいだろうか。
ただし、相手の気を感じる能力を持つ六は、姿形からでは測れない巨大な力の脈動を感じていた。
――これが龍か。
一言で言えば雄大、である。
威圧感はないが、ただひたすらに大きい。まるでゆったりと流れる大河を見ているようだった。
ただ、もしもその大河が氾濫すれば……。
六の脳裏に武術家として考えが浮かぶ。
もしこの男と戦い、怒れる大河の如き力が自分に向いたらどう凌ぎ、どう攻めるか……。
だが、その思考は太陽道士の声で中断された。
「永雲龍王殿。しばしの間だが、この娘をここに逗留させることを許して欲しい」
「李六と申します」
六が伏せながらそう言うと、龍王は視線をそちらに向けた。
「おう。地上の人間、それもこんな若い娘が我が水府を訪れるとは、まこと珍事よ。ところで、その方は小哪吒と呼ばれておるそうだな」
「はっ。自ら名乗ったことはありませんが、私をそう呼ぶ者はおります」
「ふむ。仇を追っているとか」
「はい」
「もしやその仇は、龍か?」
と、永雲龍王はじっと六を見つめた。
しまった、と六は思った。
哪吒は龍と因縁のある武神である。哪吒は幼少の頃、龍の筋を引き抜き殺害したことから、長らく龍の一族と対立していたのだ。
妙な誤解をされてはたまらないと、六は慌てて否定した。
「ち、違います。私の仇は太號君という名の妖虎です。龍王様の一族と揉めたことはありません!」
動転した六を見て、龍王は破顔した。
「ははは、そう慌てずともよい。我も哪吒と因縁ある龍ではないぞ。それはそうとして太號君、か」
「ご存知ですか」
「近頃地上で勢力を伸ばしている者だな。よりによってそれが仇とは、汝も難儀しているだろう。我ら水府の者はみだりに地上へ干渉することを禁じられておるゆえ、直接の与力は難しいが、辛先生の客ならば我が客だ。ここに居たいだけ居ればよい」
「はっ龍王様のご温情に痛み入ります」
太陽道士と六が再拝し、拝謁を終えようとしたとき、廷臣に混じってその場にいた若い娘が龍王に視線を送った。
それに気付いた龍王が二人を呼び止める。
「おお、そうだ。小哪吒、こちらからも一つ頼みたいことがある」
「なんでしょう?」
「そこにいるのは我の末の娘、子援じゃ」
六が目をやると、先ほど龍王に視線を送った若い娘が小さく手を振る。
「ちょうど汝と同じ年頃だ。たまに、で良い。話し相手になってやってくれ」
「はっ。喜んで」
こうして六はしばらく永雲龍王の宮殿で過ごすことになった。
ここに至り、六は大きく胎息した。
あの悲劇の日以来、初めて息を吸った気がした。
水の司たる龍王の神気が六の怒りの火を和らげたのだろうか。
我を失うほどの激情は少なくとも表面上消えた。
よくもまあ、まだ生きているものだ。いや死んだものの冥府に行かなかっただけか。
人心地がつき、我に返った六は己の無謀を自嘲した。
今回のことは仇を討ちに旅に出た、とはとても言えない。
本当のところは自暴自棄になり、周囲に当たり散らしただけだ。そうであると誰よりも自分が知っている。
兄弟子の洪宣にも酷いことを言ってしまった。また会うことがあれば謝らなければいけない。
六が正気を取り戻すと、その心に本来の性質が再び戻ってきた。
本来の性質とはつまり、真っ直ぐな心で「なぜ?」と問うことである。
太陽道士に師事した六はその性質を遺憾なく発揮した。
そんな好奇心旺盛な六だからこそ、太陽道士の持つ知識の広さには舌を巻いた。
まさに博覧強記という他ない。
龍王の食客というだけでただ者でないことは分かるが、これほど博識な人がいるのか、と驚愕し日を追うごとに尊崇の念を深めた。
太陽道士は特に古代の事柄に詳しく、六に何かを教えるときは故事を引いて答えるのが常だった。
それも数百年も昔の出来事を、まるで昨日見て来たかのように語るのだ。
この方はいったいどういう人物なのだろう?
いつしか六は、太號君を滅す方法だけでなく、太陽道士辛その人にも強い興味を抱いた。
まず六は龍王の娘である子援に太陽道士のことを訊いてみた。
箱入り娘の永子援と、腕っぷし一つで鏢客となった六。
全く来歴の違う二人だが、それがかえってお互いの好奇心を刺激し、二人はすぐに打ち解けていた。
「辛先生はどういう縁で龍王様の客となったか知っていますか?」
「あの方と父上が出会ったのは、私が生まれるよりずっと前のことなので、私も詳しくは……。ただ、六ちゃんと似たような状況で父上と出会ったらしいですよ」
「私と似たとは?」
「死にかけて水府に沈んでいたところを、父上が助けたそうです」
「えっ」
意外だった。
太陽道士という全てを達観したかのように見る人で、争いごとに関わるような人ではない。
むしろ「君子危うきに近寄らず」とでも言って、冷めた目で他人の争いを遠くから見ている姿が目に浮かぶようだ。
それともそのような人でも、若い頃は無謀に走ることがあったのだろうか。
「辛先生はあのように博識な方なので、それ以降父上はときどき先生を招いて火経について論じあっているのです」
「……火経とは?」
また知らぬ言葉が出てきた。
そのようなことは辛先生から教わっていない。
「火業についての大経です。我々龍は水の業に長じておりますが、火の霊妙なる働きについてはあまり詳しくありません。だから辛先生から学んでいるのです」
「なるほど。太陽道士と呼ばれるからには、火について一家言あるということですか」
「それはもう。あの方は火の大家ですよ」
しばらくの間、六は子援に聞いた情報で満足していた。
しかし。すぐに好奇心がムクムクと湧き上がり、どうにも我慢できなくなった六は結局、太陽道士本人に来歴をそれとなく尋ねた。
「太號君は辛先生の仇でもあるのですか?」
「否」
「それではなぜ、辛先生は太號君の打倒を望んでいるのです?」
「太號君は残忍さと貪欲に果てがない妖虎だ。そんな者が覇を唱えればどれだけ無辜の者が死ぬか見当もつかぬ。太號君を除くことは義挙である」
太陽道士の言葉にはよどみがない。
が、そこで太陽道士は何かを噛み締める様に一瞬目を閉じた。
「……と、言いたいところだが、それも理由の半分に過ぎぬ」
「ではもう半分は?」
太陽道士は口を閉ざし、長い沈黙があった。
余計なことを聞いてしまった、と慌てた六はすぐさま謝った。
「差し出がましいことを聞いてしまいました。どうかご放念ください」
「いや……怒っているわけではない。なぜ我は太號君を討とうとしているのか、今一度自身の心を整理していただけだ。なぜ……そう、そうよな」
太陽道士はうむ、うむ、と一人頷くと、少しづつ語り始めた。
それはただ事でない話だった。
「かつて我と我の一族は天理を覆さんと欲した」
「て……天理を覆す?」
六は仰天した。
話の尺度の桁が違う。相手が太陽道士でなければ一笑に付しているところだろう。
だが、太陽道士の凄味が笑うことを許さない。
「その驕慢の報いがこれだ」
太陽道士は体を揺らした。すると欠けた左腕の袖がヒラヒラと舞う。
「我が一族も滅んだ。生き残りは我ともう一人だけよ。だが、そのことについて遺恨はない。我は滅んで当然のことをした――ただそれでも、我は未だに、あのときの過ちに囚われている。あれは本当に不可能なことだったのか、我にもっと知恵があれば、成功していたのではないか、とな」
「興味深い話ですが、それが太號君とどう関わりがあるのです?」
「分からぬか。我はその後も天理を覆しうる術をずっと探し続けた」
六はハッとして目を見開いた。
「そうして生まれたのが、紅衣神功ですか」
「左様。くっくっく」
太陽道士は自分自身の愚かさを嗤った。愚かと分かっていても、止められない自分自身を嗤った。
「我は知りたい。そうして作り上げた紅衣神功が、本当に天理を覆しうるのか。何人も抗えぬような、あの強大な妖虎とその軍団を使って、我は試してみたい。それがもう半分の理由だ。ああ、大愚、大愚よ」
太陽道士の語ったあまりにも壮大な話に、六は圧倒された。
この人は狂っているのかもしれない。
この人はあの太號君を、試し切りの材木のように思っている。
だが、その話に乗った私もまた狂、か。
六は表向き嘆息して見せたが、本当は天理をも覆しうるという紅衣神功の極意にときめいていた。