第十一回 蓮華は水底に沈み、太陽に出会うこと
北部地域を横断する「永江」という名の大河がある。
六が落下したのも、永江の支流の一つであった。
荒々しい浪が立つ急流は「一度呑んだものは、決して吐き出さぬ」と言わんばかりに、自然の持つ強大な力で、六を水底へと引き込んだ。
もっとも金華娘の毒に冒された六は、河に落ちた時点で既に意識はない。
為す術もなく、ただただ深みに沈んでいくばかりである。
ついに六の体は水底に達した。
「かはっ」
水を吐き出すのと同時に、六の呼吸も再開した。
むせながらさらに二度、水を吐き出す。
「あ?」
少し落ち着くと、六は自分が意識を取り戻したことに気付いた。
が、そんなことはどうでもよい。
――敗れた。
己の大望が道半ばで挫けたことを思えば、恥じ入るほかない。
強く自分自身を責めた。責める相手が己しかいなかった。
身の程知らずの大馬鹿者。なんと愚かなことだったか。
必ずや師と仲間の仇を討つと天地神明に誓ったはず。
しかし結果は仇である太號君どころか、その手下に手も足も出ず敗死である。
無様、としか言いようがない。
王進師匠や章兄は不忠不孝の私をなんと言うだろうか。
こうなれば冥府にて二人を探しだし、叩頭して許しを乞う他ない。
六はそう考えた。
それにしても……と六の意識は初めて周囲の様子に向かった。
冥府とは案外美しい所だな、と六は思った。
まるで雅な宮室のようで、窓はなく陽光は入ってこないが、代わりに火の如き明るさを放つ不思議な照明があり、それが室内を照らしている。
「目覚めたか」
不意に、近くで声がした。
「死んだ気分はどうだ」
振り向くと異様な風体の男が一人、部屋の隅に佇んでいた。
道服を身に纏っているが、左の腕が欠け、肌は炭のように黒く、縮れた髪をしている。かつて六は遥か西方の彼方から来たという人を見たことがあったが、その人に似ていた。
だが、もっとも印象的だったのは、全てを見透かしているような物憂げな瞳であった。
「恥ずかしながら、未熟な私はまだ現世への未練を断ち切れていません。無念です」
六は身を起こして男に揖礼した。
「あなたは鬼卒の方ですか」
男は首を振った。
「我は鬼卒ではない。名は辛、他の者からは太陽道士と呼ばれている」
「太陽道士……?」
「汝が死んだのは確かだ。先ほど本物の鬼卒が汝の魂魄を捕えに来たが、我が便宜を計ってやった。それゆえ汝は息を吹き返したのだ。我に感謝するがいい」
太陽道士、辛と名乗る男は薄く笑った。
いま一つ状況に理解が追い付かないが、鏢客であった六には便宜を図るという言い回しには馴染みがあった。
鬼卒とは死んだ者の魂を捕え、あの世に送る冥府の兵卒である。
本邦において、冥府に仕える鬼の兵卒となれば、頭に角を生やし、虎の履き物を履き、金棒などを持った巨躯の者どもが想像される。
が、中華において「鬼」とは死者の世界の者という意味でしかなく、死者の姿も生者とさほど変わりないとされている。
妖虎に食い殺された倀鬼も鬼の一種であり、操られているとはいえ生前と同じ姿と能力を持っていた。
余談だが鬼卒の中には「走無常」などと呼ばれるものもいる。
これはまだ生きてる人間が、代理として冥府から鬼卒の仕事を与えられたものである。生者と死者はそれほど近いしいのだ。
死者も生者も変わらないということはつまり、賄賂が利くということである。
太陽道士の言葉を信じるなら、鬼卒に賄賂を払って死を目溢ししてもらったことになる。
法螺であれば大した大法螺吹きだが、なぜだか嘘であるようには聞こえなかった。
まるで朧のような人だ、六は感じた。
太陽道士は独特の存在感を放ち、その気配は大きいとみれば小さく見え、小さいと見れば大きく見る。
捉えがたい。
「ここは冥府ではないのですか?」
「そうだ。ここを冥府などと言ったら叱られるぞ」
太陽道士は右手を軽く振ると、壁の一角が突然硝子のように透き通り、外の景色が見えるようになった。
六は目を見張った。
壮麗な楼閣が入り乱れる様に連なり、道は掃き清められ、路端の装飾にさえ見たこともないような美しい宝石が惜しげもなく使われている。
始皇帝の阿房宮さえ、これに比べたら庶人が寝起きする舎にすぎないだろう。
唖然とする六に太陽道士が補足した。
「ここは永江を治める永雲龍王の宮殿だ。我は客として龍王に招かれていて、先日龍王の国を逍遥していたところ、お前を拾ったのだ」
「お、御見それ致しました」
この光景を見せられては、もはや太陽道士の言うことに疑念を挟む余地はない。
自分はこの男に救われたのだ。
「先生は命の恩人だ。なんとかその恩に報いたいけれど、どうすればよいのでしょうか?」
「気にするな。お前を助けたのは我に魂胆があるからだ」
「それは?」
「小哪吒の李六よ」
と、太陽道士は言った。
太陽道士が告げてもいない自分の名を知っていることに少し驚いたが、龍王の客分となる人物なら神知を備えていてもおかしくないと納得した。
「太號君を、討つべし」
「先生、それは……」
呆気にとられた六は続く言葉が出なかった。
生唾を呑みこみ、やっとのことで声を絞り出す。
「何故か、とは言いません。それは私の望みでもあります。一度死んだ身、もはや失うものはない。再び太號君の陣に斬り込み、妖虎の首を切り落として見せましょう」
「馬鹿!」
太陽道士は強く六を叱責した。
「自ら二の舞を演じるつもりか。太號君は北方妖怪の大首領だ。五十万を超える妖魅を従え、その左右には虎の爪牙と呼ばれる常勝無敗の妖将、金華娘と三光人がいる。お前など、近寄ることもできず討ち死にするわ」
「それでも、やりようはあります。太號君とて常に軍団に守られているわけではないでしょう。刺客となりて太號君の居に忍び込み、その胸に刃を突き立てましょう。」
「子供の浅知恵よ! 太號君が暗殺者程度のことを予期していないと思うか。太號君はお前の義兄のように腕の立つ武術家を幾百と食らい、倀鬼として侍らせている。決して主を裏切らず、休むこともない近衛だ。また、それだけの倀鬼を操る太號君自身の魔力も神通広大。やはりお前は為す術もなく死ぬ」
「では……」
太號君を討つのは無理だ、と口から洩れそうになるのを六は喉の中で押し留めた。
それだけは言うことを許されない。
代わりに、どうすれば太號君を討てるか尋ねた。
「どうすればよいのですか。私のような庸器ではこれ以上の手は打てません。
「いや、手はある。それを、行うのはお前でなければならぬ」
「私でなければならない……?」
「お前には天祐がある。我には、無い。ゆえに小哪吒の李六よ、我に代わり太號君を討て」
太號君を討つ。
その難しさは骨身に染みて分かっている。
手下の一人にさえ手も足も出なかったのだ。
天祐があれば討てるというのは、楽観を越え狂人の戯言のように聞こえる。
しかし、藁にも縋る想いの六は食いついた。
「本当にそんなことが可能なのですか。五十万もの妖怪が敷く陣を破り、不撓不屈の近衛に守られた妖虎に刃を届かせる。そんな方法があるのですか!」
「無論だ。お前が我が奥義を身に着けたならば、必ずや事は為る」
「その奥義とは!?」
「これを名付けて、紅衣神功という」
第二部 地にはためく紅衣 に続く。