第十回 妖虎、江湖に思うまま跳梁跋扈すること
風箭谷の宮殿にて、妖虎は血を醸した酒に酔っていた。
「太號君様……」
「おう。金華娘か。今日は幾人殺めた?」
そろそろと高座に近寄ったのは金華娘は揖礼すると、僅かに俯いて答えた。
「一人でございます」
「なに。たった一人か」
太號君は俄かにむっとすると顔から赤みが消えた。
「いまの言葉で酔夢が醒めたぞ」
太號君という妖怪は酒に酔っている間は大人しいが、一度酔いが醒め素面となると、執拗に殺戮を求める凶悪な性質を見せる。
毎日のように死を見ねば気が済まないのである。
「では兵をいくつ損なった?」
「二千ほどでございます」
「ではその相手はたった一人で二千を殺したのか」
「はい。どこぞより現れた小哪吒とかいう娘です。太號君様を仇だと申しておりました」
「……それは愉快だ」
太號君は再び血の酒を飲み干し、酔いに浸った。
妖虎は味方の死にさえ満足感を覚えた。それは自ら掲げた優生劣死、という思想による。
「強く正しき者は死なぬ。弱く誤るものは死ぬ。これこそ天地の理よ。死ぬ者は死ぬべくして死ぬ。死ぬべき者をあえて生かすのは悪である。弱き者に死を。誤る者に死を。天に代わりて殺殺殺、殺殺殺!」
「仰せのままに」
いまの太號君は大妖といえど、まだ北方辺土の盟主にすぎない。
が、その野望は、いずれ遍く天地に優生劣死の思想を広めることである。
それがどれほどの死をもたらすか、いまは誰も知る由もない。
ある日血酒を切らした太號君は供の者も連れず、一人宮殿を抜け出した。
主たる太號君が度々このような戯れをするのは、配下の者にとって周知の事実であるため、騒ぐものはいない。
その身を北風に変え、太號君は野を趨走した。
武術集団、月覇門を束ねる掌門(門派の頭領)、慕容及は窓を叩く魔風で目を覚ました。
覚醒と同時に、獣臭が慕容及の鼻腔を突く。
――何が起きた。
慕容及は人並み外れた武術の腕と、ゾッとするような青白い肌を持つことから、絶人白魔(人を超絶した白い魔物)と呼ばれた豪傑だったが、このときばかりは心胆が凍り付いた。
百を下らぬ数の門弟に守られた屋敷の中に居ながら、自分が既に死地にあることを悟ったのである。
慕容及は刺客に襲われることを想定し、常に枕頭には剣を置いていたが、金縛りにあった体では、その剣までが遠い。
のそりのそり、と獣が回廊をのし歩く音が聞こえる。
「おのれ、妖怪」
絶人と呼ばれた男の気位の高さが恐怖を凌駕した。
慕容及は剣を取ると、壁越しに妖怪に斬りかかる。
木製の壁は音もなく切断され、迸る剣気はそのまま三十歩先にある石灯篭を真っ二つにしたが、手応えはない。
「後ろだ」
背後から獣の唸りに似た声がした。
振り向きざま、月さえ穿たんというほどに研ぎ澄まされた突き。
慕容及の神速が、白い肌を月の光に溶けさせた。
刃に鮮血が伝う。
慕容及の月は確かに妖怪に届いた。
しかし、命を奪うのには程遠い。
突けたのは妖怪の掌だった。
「呵呵呵呵。この太號君に血を流させるとはやるではないか。生きるには足らぬが、死ぬにも足らぬ」
雲一つない夜に、霹靂一声。
稲光が轟き、妖怪の全容を映した。
体長二丈余り、具足を身に着け、二本の足で立つ大虎である。
地の底から地震いの如き声は、それだけで常人を失神せしめる。
動き一つに風が従い、雷が供をする。
睚眦(ほんの僅かに睨むこと)の一視で鬼神さえ居竦み立ち尽くす。
それが大妖怪、太號君である。
妖虎が剣の突き刺さったままの掌を握ると、慕容及の剣が小枝の様に割れた。
ここから先に行われたことは、ただひたすらに凄惨である。
太號君は慕容及の生き胆を食らい、その妖力をもって倀鬼として蘇らせた。
以後、彼は太號君の手足となって働くほかに道はない。
その手始めとして、慕容及は徒弟も家族も太號君に差し出した。妖虎は気の向くままにそれを食らい、一夜にして月覇門は滅び去った。
我が身を食らい、さらに妻や我が子を手にかける怪物を、主と仰がねばならぬ悲痛は如何ほどだろう。
それでも倀鬼には声を出すことさえ許されない。
「屋敷の片付けが終わったら我が城に来い」
慕容及の弟子や家人を食い散らかした太號君はそう言いつけた。
このような倀鬼の証拠隠滅により、事件の発覚が遅れ、太號君の痕跡は極めて不明瞭となる。
「それと、お前の妻子は中々美味い。残りは醢にして持ってこい」
そう命ぜられても、倀鬼には涙を流すことさえ許されない。
唯唯諾諾と頷くばかりである。
慕容及は言われた通り淡々と隠蔽工作をこなし、妻子の死体を刻み、醢にして皮に包んだ。
やがて北の彼方にある太號君の城に、慕容及は姿を現した。背には皮に包まれた醢肉を背負っている。
「ご所望の品です」
慕容及が太號君へ醢肉を掲げると、太號君は首を傾げた。
「なんだそれは?」
慕容及にとってかけがえのないものは、太號君にとっては至極どうでもよいものであった。
持って来るよう命じた記憶さえ残っていない。
「捨てて来い」
新たな命を受け、慕容及は醢にした妻子の肉をゴミ捨て場に捨てた。
それでも倀鬼には、手を合わせ祈ることさえ許されない。
全てが終わると、慕容及は太號君に侍る倀鬼の列に加わった。
倀鬼の数は千を超える。
同じ数だけの悲劇があることは言うまでもない。