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「なめんなガキがアアアァァァ!」
六条先輩は獣のごとき咆哮を上げた。
その大声はもはや謝ろうが先生を呼ばれようが構わない。
血の雨を見るまでは決して止まらないぞと周囲に宣言するかのようであった。
「ろ、六条クン! やべえよ!」
「うがあーっ!」
取り巻きの制止も聞かず、後先も考えずに猛り狂う六畳先輩。
彼は無礼な後輩を叩きのめそうと紅葉に飛びかかった。
ただ感情のまま暴力を振るうために。
背後の脅威に気付いて紅葉が振り返るが、もう遅い。
六条先輩は小柄な紅葉の身体に覆い被さるように迫っていた。
体格差を考えれば、そのまま地面に引きずり倒されるのは明白だ。
翠は今度こそ起こるはずの惨劇を予感して顔をしかめつつも見守った。
そして、見た。
「え……?」
六条先輩の巨体が不自然な軌道を描き、紅葉の身体を越えて飛んでいくのを。
「オゴォ!?」
背中からコンクリートの地面に叩きつけられる。
紅葉は六条先輩の制服の右袖を握っていた。
勢い余って飛び越してしまったって感じじゃない。
というか、普通の人間があんな二段ジャンプみたいな動きをするはずがない。
紅葉が六条先輩を掴んで投げ飛ばしたのだ。
しかし、あの体格、あの細腕で?
他の野次馬たちも現実に起こったことが理解できないらしい。
周囲は水を打ったように静まりかえってしまった。
最初に静寂を破ったのは六条先輩である。
「テ、テメエェェェ!」
地面を蹴り飛ばすような勢いで先輩は起き上がる。
そして拳を振り上げ、自転車置き場のトタン屋根を支えるパイプを殴りつけた。
「いっ!?」
殴られたパイプが思いっきりひしゃげる。
屋根も少し斜めに傾いていた。
なんつー馬鹿力だ。
っていうか先輩の拳は大丈夫なのか?
「死ねやダボがアアアァァァ!」
六条先輩は再び紅葉に向かい、振り上げた拳で殴りかかった。
あんなのを顔面に食らったら本気で死んでしまうんじゃ――と、心配する暇もなかった。
一秒後には六条先輩は再び地面に倒れていたのだから。
「あ……へ?」
紅葉がわずかに身体を傾けたところまではわかった。
自分から拳に当たり行ったようにも見えたが、どうやら先輩のパンチをすり抜けて懐に飛び込んだらしい。
そこで紅葉は何か反撃をした。
そして先輩は膝から崩れ落ちた。
六条先輩は完全に意識を失っているらしい。
もろに顔面からアスファルトの地面に倒れ、尻だけを浮かした惨めな格好のまま気絶していた。
誰も何も言わなかった。
暴力行為に対する悲鳴も、嫌な先輩が倒されたことに対する歓声も。
ただひたすら状況が飲み込めない。
一つだけ確実なのは、あのイケメン転校生が暴君を退治したということ。
それもまともなケンカにすらならないほど一方的に、あっさりと。
「あの」
紅葉が六条先輩の取り巻きに何かを言った。
内容は聞き取れなかったが、取り巻きの「は、はぃい!」という引きつった返事が辺りに響いた。
取り巻きが二人がかりで六条先輩の肩を支えて引きずって行く。
紅葉は不快そうにしかめっ面を浮かべったまま立ち去ってしまう。
どちらにも声をかける人はいなかった。
しばらく間をおいて、呆然としていた野次馬たちが騒ぎ始める。
「マジかよ、あの六条先輩が……」
「何やったんだか全然わかんなかったぜ」
「っていうか、そもそもあいつは誰なんだ?」
数分後に体育教師が現場に駆け付けたときにすでに当事者たちの姿はなく、野次馬たちの無責任な感想が余計に場を混乱させた。
「すっげぇ……」
翠はそれだけ感想を口にすると、あの不思議な転校生のことを考えながら教室へと向かった。
※
登校前は昨日の告白を断った件で何か変な噂が立ってるかもしれないと少し心配をしていたが、当然ながら今朝の教室の話題は駐輪場前のケンカの話一色になっていた。
「なあ、見たかよあの転校生!」
「見てねえよ、いったい何があったんだ?」
「ばっか、転校生が六条先輩をワンパンでのしちまったんだよ!」
「あんなにカッコイイのにケンカも強いなんて、素敵……」
よく見れば昨日翠に告白してきた少女まで頬を赤らめて話題に参加している。
翠がやって来ても見向きもせずにうっとりとしていた。
まあいいけど。
「おっす。お前らも今朝の見たのか?」
「いや、直接見てはないけど。翠は見たのか」
「まさにな」
翠は翠で友人たちと噂話に花を咲かせる。
誰も昨日の話なんて気にもしていない。
中学生の流行なんてそんなもんだ。
いつだって興味ある方が常に上書きされる。
結局、一限目の授業が始まるまで今朝の話題はクラス中で持ちきりだった。
やれ紅葉は前の学校をケンカでクビになっただの、実は古流武術を伝承する家の末裔だの、誰かの思いつきが根も葉もない噂となって駆け巡る。
「ほーら、ホームルーム始めるわよ!」
担任教師の倉掛聡美二十八歳が教室にやってくるまで、噂好きの中学生たちのお喋りは止むことはなかった。
※
「間違いない、あいつだな……」
狭い路地裏に声が響く。
どことなく海外訛りのある若い少女の声だった。
ビルとビルの間、心ない人がゴミを捨て、掃除もされない汚れた区画。
近道にもならない誰も通らないような町の隙間。
「ん?」
通りがかった青年が声に気付いて興味本位で隙間をのぞき込む。
しかし、そこには誰の姿もなかった。
「気のせいか……」
青年はすぐに興味を失って立ち去る。
その直後、ゴミの山が動いた。
「ふう、危ない危ない。独り言のクセは直さないとな」
人が隠れる隙間などはなく、子どもが伏せたとしても通行するのは不可能。
それなのに声だけが不思議な響きを持って裏路地にこだまする。
「どうやって話を切り出すかな……ま、ちょっと探りを入れてみるか」
ガサリとまた物音がする。
「うわっと!」
路地裏から茶色い経路の猫が飛び出し、別の通行人が驚いて足を止める。
もう路地からは何の音も聞こえなかった。




