3 遊戯
隣の部屋には真っ黒な箱があった。
人間が余裕で入れる高さの幅一メートル奥行き二メートルほどの巨大ボックス。
後部には入口となるドアがあって「起動中立ち入り禁止」と日本語で書かれた札が掛かっている。
リシアが箱に手を伸ばすと、部屋の隅からしわがれた声が聞こえた。
「バジラ、か……?」
なまりのある日本語である。
リシアはドアに手をかけたまま振り向いた。
「アタシだよ、おじいちゃん」
「ああ、三丁目のおトメさんか」
「誰だよそれ。リシアだよ、シミュレーター使わしてもらうからね」
リシアが視線を逸らすと、くっくっくと笑う声が聞こえてくる。
老人は別にボケているわけではない。
くだらないジャパニーズオヤジジョークってやつだ。
適当に聞き流してリシアは箱のドアを開けた。
箱の中は真っ暗である。
外からの明かりを頼りにスイッチを入れる。
すると機械の駆動音と共に箱の内側が青く照らされた。
中央部には大きな二輪車の筐体がある。
地下都市では決して見られることのない旧式のバイクを模したものだ。
扉を閉めてバイクの筐体に跨る。
機体に備え付けられたキーを回すと青一色だったモニターが荒野の風景に変わった。
よく見るとコンピューターグラフィックスの映像だということがわかるが、気分的には突然広大な空間に放り込まれたような感じになる。
アクセルを捻ると筐体が振動してエンジン音が鳴り響く。
クラッチを引きながら足でギアを一速に入れる。
リシアは顔を上げてにやりと笑った。
「さ、行きますか」
ゆっくりクラッチを繋ぎながらアクセルを開ける。
それに合わせて周りの映像が後ろへ流れていく。
筐体を傾けると挙動に応じて映像も変化する。
加速。
ギアを上げる。
さらにスピードが増す。
これは旧世代のリアルなバイクシミュレーター。
もちろん見える景色はすべて作り物である。
リアルな仮想ゲームのようなものだ。
擬似的とはいえ周囲に見えるのはどこまでも続く青空と広大な大地。
太陽の下を走る感覚はリシアに他では決して味わえない開放感を与えてくれた。
耳を打つエンジン音と心地良い振動。
リシアは作り物の風景の中をどこまでも進んだ。
現実の世界は低い天井と狭い通路と圧迫されるようなむき出しのコンクリートの壁面ばかり。
このシミュレーターに乗っている時だけは地下世界の閉塞感を忘れることができる。
「うわっと!」
気分よく走っていると、大きな岩に乗り上げてしまった。
筐体が激しく揺れ画面の前部に人とバイクが吹き飛んでいく映像が流れる。
クラッシュだ。
画面右側からやり直すか否かの選択肢が流れる。
リトライをしようとした時、入口のドアが開いて画面に光が差し込んだ。
「クックック。そんな運転技術じゃ峠は攻められんて」
「なんだよじいちゃん。稼働中は危ないから入るなって自分で言ったろ」
「まったく、この足さえどうにかなれば手本を見せてやれるものを……」
相変わらず人の話を聞かない老人である。
リシアはシミュレーターを中断して電源を落とした。
面倒な人であるがシミュレーターを使わせてもらうためには邪険にできない。
この機械は老人の所有物であり、へそを曲げさせるととキーを隠されてしまうからだ。
「はいはい。おじいちゃんは身体を治すためにもゆっくりと療養してましょうね」
「年寄り扱いするな、たわけが!」
文句を言いながらも老人はリシアの肩を借りてベッドにまで戻っていく。
老人には左足の膝から先がなかった。
「まったく、最近の若いモンは……」
「失礼します。博士、いらっしゃいますか?」
ブツブツと呟く文句を聞きながらベッドに腰掛けさせた所でバジラが部屋に入ってきた。
彼の背中からちょこんと顔を出すようにファルの姿も一緒である。
「歩いて大丈夫なんですか?」
「平気じゃと言うとろうに、どいつもこいつも!」
「老い先短いんだから無理しないのよ。カリカリしないで落ち着いた余生を過ごしなさい」
「こら、ファル!」
ファルの不謹慎な発言をバジラが咎めるが老人は気にした風もなく寝っ転がった。
どうもリシアにはこの老人の怒りのツボが理解できない。
「見てもらいたい部分があるのですが、整備所までご足労願えませんでしょうか?」
「よかろう」
バジラが控えめに尋ねると、老人は素早く起き上がって杖をとる。
「ちょっとおじいちゃん。そんな急に立ち上がったら危ないよ」
「うるさい! 儂を年寄り扱いするな!」
支えようとしたリシアの手を振り払って老人はバジラと共に部屋を出て行く。
後にはリシアとファルが残された。
「やれやれ、難儀な人だよまったく」
「偉大なる大発明家も耄碌しちゃおしまいねー」
少女二人はそろって面倒な爺さんに対する悪態を吐いた。
リシアの場合はバジラが老人を尊敬しているのでより複雑な気持ちになる。
ああ見えてあの老人はかつて希代の天才科学者と呼ばれた人物だったらしい。
日系人ゆえ暴動に巻き込まれて身体を壊すまでは軍で兵器の開発をしていたと聞く。
バジラはそんな老人に惚れこんで彼に弟子入りし、様々な知識と技術を学んでいるのだ。
「ま、あの人のおかげであたしたちも希望が持てるんだけどね」
「ははっ」
ファルは散々文句を言った後にフォローを忘れない。
本人の前では絶対に言わないくせに。
「なによ」
「お前の言う通りだなって」
馬鹿にされたと思ったのかファルは不機嫌そうに鼻を鳴らた。
そして今度は彼女がバイクシミュレーターの中に入っていく。
「おいおい、アタシがやってたんだぞ」
「順番よ。あんたは後ろであたしの華麗な操縦テクを見てなさい」
二人は一緒にボックスの中に籠もり、お腹が空くまで仮想の荒野を堪能した。




