1 月面都市
そこは岩と砂の景色がどこまでも続く白い大地だった。
上を見れば大気のない空と輝く満点の星々がある。
中でもひときわ鮮やかなのは青と緑の惑星だ。
月の表側は何億年も変わらぬ静寂の中にあった。
隣にある青と緑の惑星では知性を持った生命が誕生し宇宙に飛び出した。
そして二十世紀から二十一世紀にかけて、彼らは幾度かこの白い大地の表面に足跡を残した。
しかし十数年前、地球人は電気の力を封じられ宇宙へ昇る術を失った。
ただひとつ残った高度な技術を持つ国家は塔の中に閉じこもり宇宙への興味はない。
青と緑の惑星とその衛星は384,400kmという長大な距離と空間によって再び分かたれたのだ。
だが。
なにかがいる。
音もなく月面上空に浮かぶのは人工物だ。
その機械は先端の天体望遠レンズを地球の方へと向けている。
やがて謎の機体は望遠レンズを機体に収納。
代わりに側面から翼を出し、煙の尾を引きながら飛び立った。
長い時間をかけて飛行を続ける。
やがて青き母なる星は地平線の彼方へ消えた。
空を飛ぶ機械は地球の表面からは決して見る事のできない月の裏側へ。
そこにあるのは表面と変わらぬ白の大地と無数のクレーター。
半円状に配置された太陽光エネルギー収集用ルナリング。
いくつかのクレーター内部には青白いドームがある。
機械がドーム外縁に接近すると開いた小さな窓から内部に入り込んだ。
窓はすぐに閉じ、飛翔機械は幾つかの多層的な扉を越えてゆく。
ドームの中には都市があった。
宇宙放射線や太陽風を遮り酸素と重力を保持するための防護ドーム。
その内部では限られたスペースを有効活用するように高いビル群が聳え立つ。
内側から空を見上げてみれば、ドームの境界越しの空は地球と変わりない青空に見える。
飛行中の機械の挙動が微妙に変化した。
重力が地球と同様の1Gに増加したからだ。
ここは月の裏側に作られた月面都市ネオワシントン。
いくつかの建物には星条旗が棚引いている。
それは二〇〇八年クリスタカルテルへの禅定によって一度は地球上から消えた国家。
だが、自由と正義と探求の超大国は月の裏側でひっそりと命脈を保っていた。
一九七三年より極秘で進行していた月面及びL2コロニー群開発植民計画の中心地。
E3ハザードの影響を免れ二十一世紀の電気文明を継承する都市連合国家。
正式名称はMoon City state of Under the Sky dome AMERICA.
アメリカ月面都市州である。
※
ネオワシントン都市部の外れ。
とある高層ビルの裏手には広大な軍基地が拡がっている。
滑走路には銀色のテントウムシのような宇宙機がずらりと並んでいるのが見えた。
「いよいよですわね」
ビルの三十五階の一室にて。
将校用軍服姿の女性が窓際に立ち、眼下の兵器群を眺めて呟いた。
髪色は金に染めているが顔立ちは明らかに日系である。
胸元の階級章が示す階級は空軍少将だ。
「それで、今回の政府の決定に対するメーカー側の見解は?」
「我が社の技術を信頼して存分に戦ってください……としか言いようがないですよ。もちろん可能な限りの事前対処は行いますがね。なにせ大気圏内でのインセクトの挙動テストすら満足にできていないのですから」
部屋の中央でデスクに向かう初老の男性は大袈裟に肩をすくめた。
月世界最大の重工企業であるセレーネ・インダストリー社。
その経営責任者であるライル=ウォーレンドルフ氏は技術畑の出身である。
データの上では完璧であっても実機稼働時に不具合はまず間違いなく発生するだろうことは誰よりも知悉している。
「時期尚早という見解は軍と一致しているということですね」
「まあ、議会の決定なら文句は言えませんよ。我らが祖国は地球時代から続く最も誇り高き民主主義国家ですから。大多数の国民の自由意思には逆らえません」
「現実利益を見据えた企業のロビー活動は旧合衆国の政治作法と聞いていましたが?」
「今の月面都市州の政治家は潔癖症なんですよ。拝金主義者共に無条件降伏同然に北米大陸を明け渡した苦い過去がありますので」
「なるほどね」
女性はくすりと笑って壁際にあるコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
黒い液体がカップに注がれる様子を眺めながら会話を続ける。
「もちろん今回の政府の決定は軍としても望むところではありません。とはいえ開戦すると決まった以上、我々には最小限の損害で最大限の戦果を上げる義務があります。可能ならあの忌々しい塔をこの手でへし折ってやりたいところですね」
女性軍人はコーヒーで満たされたカップを取る。
直後、ドアを外からノックする音が室内に響いた。
「どうぞ」
「失礼するよ」
入って来たのは金髪の壮年男性。
傍らには黒服のボディーガードが控えている。
ボディーガードは無言でドアの横に立ち、男性は気さくな挨拶をした。
「どうも社長、ご無沙汰しております」
「これはこれは大統領。ようこそお越しくださいました」
「和代さ……失礼、メイジャージェネラル・カンダもお久しぶりです」
「ええ。お元気そうでなによりですわ、マーク」
男性の名はマーク=シグー。
現在のアメリカ月面都市州の大統領である。
実態は州知事というべき立場だが、現状唯一のアメリカ指導者の慣例として市民からは敬愛を込めて大統領と呼ばれている。
そして日系の女性軍人はアメリカ月面都市州空軍少将カズヨ=カンダ。
出身国における表記は神田和代と書く。
かつての美隷女学院生徒会長にして反ラバース組織のサブリーダーを務めていた女性である。
マーク、ライル、和代の三人はデスクを囲んで着席した。
「お互いに忙しい立場です。単刀直入に尋ねますよ」
今日は三人とも無理に時間を作ってこの非公式会談に望んでいる。
知人関係ではあるが世間話をする暇もなく、マークは即座に本題を切り出した。
「お二方もご存じの通り、先日『国土恢復のため紅武凰国に対する軍事力行使を大統領に求める法案』……通称戦争準備法案が両院で決議されました。さて、僕は市民にこの首を差し出してでも拒否権を発動して戦争を回避するべきなのでしょうか? ご両人の率直な見解をお聞きしたい」
文明を破壊し、今や地球のすべてを意のままに操っている『大悪国家』紅武凰国。
その打倒はネオワシントンだけではなく、他のMC:USA所属の月面都市やL2コロニー小国家群すべての悲願である。
すでに予算編成を含むあらゆる準備も整った。
後はマークの署名があれば軍は即座に攻撃を開始できる。
もちろん大統領であるマークには今回の法案を拒否する権限がある。
とはいえ、開戦への流れに水を差せば弾劾は免れないだろう。
「月面都市州に住む民の我慢は極限に達しています。政治家はもちろん、市民たちも反撃の時を今かと待ち侘びている様子です。今日もここに来るまでに『大悪国家に天罰を下せ! 国家としての矜持を示せ! 正義を果たせ!』と叫ぶデモ隊を見かけましたよ」
月世界にかつての覇権国家は未だ健在なりと大悪国家に知らしめる。
そんな市井の願望を代弁するマークのセリフを和代は一言で切り捨てた。
「まずハッキリと言わせてもらいますが、ミサイルによる先制攻撃と、宇宙機での地球降下による正攻法では紅武凰国を打倒するのは絶対に不可能です」
「……続けて下さい」
「理由はもちろん紅武凰国に『天使』がいるからです。奴らがその気になればいつでも盤面をひっくり返される。これを排除しない限り地球上での戦闘はワンサイドゲームにしかなり得ません」
「PN兵器は天使に対する有用性はないと?」
アメリカ月面都市州は既存の電気文明に限らずSHINEの研究も精力的に行っている。
その過程で生み出された数々の新兵器が今回の開戦に向けた潮流を生み出したのは間違いない。
だが、それが逆に多くの人々の目を曇らせてもいる。
「ウォーレンドルフ氏。紅武凰国がPN兵器そのものを無効化、あるいは弾頭を積んだミサイルや宇宙機を迎撃するシステムを持っている可能性はどれくらいでしょう?」
和代が質問を投げかけると、ライルは手元の資料を眺めながら答えた。
「あくまで推測ですが……前者に関しては七十%。後者に関してはほぼ間違いなく持っているでしょう。そもそも大気圏内に降りた時点でミサイルの誘導が不可能になります」
月からでは紅武凰国内部の情報をすべて知り得るのは不可能である。
開戦前に偵察機を送る必要があるが、そうすると敵はこちらの動きを察する。
本格的な戦争準備体勢を整えられたら敵首都を狙い撃つようなことはまず不可能だ。
「奇襲は通用しない、ということですか」
「そもそも地球降下は奇襲になりません。天使は月面都市州の存在に気づいていますので」
建国過程で当初の指導者を失ったせいなのか、紅武凰国はアメリカ月面都市州やL2コロニー小国家群の存在を無視し続けている。
しかし近年になって『天使』のうちの一匹が地平線付近に出没したのが観測されていた。
その際は何もせずに撤退したが、こちらの動きをある程度把握しているのは間違いないだろう。
「MC:USAが未だ天使から攻撃を受けていないのはPN兵器による相互確証破壊のためという見解については?」
「それは半分正解で半分誤りです。こちらから有効打を与えることは難しいですが、迎撃準備の整った現状、天使が都市に近づけば迎撃することも可能でしょう」
「では作戦が失敗しても即座に逆撃を受けて滅ぼされる心配はないと」
いくつかの実験データの結果、PN兵器は直撃さえすれば天使にも致命的なダメージを与えられることがほぼ確実視されている。
とにかく問題となるのは月と地球との莫大な距離。
そして地球を今も汚染しているE3ハザードの影響だ。
天使はたった一体でも地球を滅ぼせるほどの脅威的な存在である。
しかしPN兵器の直撃を受ければ決して無事では済まない。
大気圏外ならばミサイルによる正確な誘導も可能である。
「運が良ければ天使を倒せる可能性も微小ながら存在し、最低でも地球の情報は手に入る。ならばやってみてもいいかもしれないな……」
「従軍する兵士たちの生命価値を度外視するのならね」
和代は一応くぎを刺しておく。
結局、攻め側が圧倒的に不利になるという話なのだ。
このままひっそりと宇宙空間を隔てた場所で住み分けていくならば問題はない。
軍の人間としては最終的な失敗が確実であり、兵士の命を無駄に消耗するだけの結果が見えている無謀な作戦に賛同できないのは当然である。
「とはいえ、軍にとっての良き理解者であるマークさんがレームダック化する事態も我々は望みません。ここはひとつ損害を最小限に抑えつつ最大限利益を取れる作戦を提案します」
戦争準備法案には実際の作戦内容は軍と最高司令官である大統領に一任するとある。
政治家の無策への生贄のために兵を死地へ投入する愚挙はまだ避けられるはずだ。
「具体的に良い方針があるんですか?」
「奴らが想像もしていない方面から攻撃を行います。ただし現状、参謀本部はどうやら降下作戦を行うつもりなので、説得のため政府と企業の全面的な協力が必要になりますが」
「なるほど、それが我々を招集した理由ですか」
和代はあくまで空軍の一将校に過ぎない。
しかもMC:USAにおいては非常に立場の弱い日系人である。
個人的な意見で軍の作戦を左右できる地位にはなく、有力者の支援が必要なのだ。
渡月時の後援者であった鷹川元総理はすでに亡い。
今の和代にとって最大の味方となり得るのがマークとライル氏なのである。
「もちろん僕は全面的な協力を約束しますよ」
「私もです。メイジャージェネラルの作戦を聞かせてください」
「ありがとうございます。では僭越ながら私の考えている作戦の内容ですが――」
和代は不敵な笑みを浮かべて立ち上がる。
そして若い頃そのままの、大仰に片手を振る仕草で宣言をした。
「ふたつの異世界を経由してのクリムゾンアゼリアへの直接攻撃! これ以外にはありませんわ!」




