4 苦手な相手
「はぁ~あ……」
赤信号で車が停止すると、美紗子はハンドルに額をつけて溜息を吐いた。
携帯端末を操作しながら助手席のアオイは横目で彼女を睨みつける。
「なによ、露骨な溜息なんてして。そんなに嫌なの?」
「嫌ですよぅ」
苦労人の彼女にしては珍しく不満をハッキリ口にする。
「仕方ないわね。次からは管理局員が移動中の信号はすべて青にするよう交通局に依頼しておくわ」
「違います! 研究所に行くのが嫌なんです!」
もちろん冗談だが、そんなに怒らないで欲しい。
彼女はそれだけ本気で研究所に行きたくないのだろう。
「研究所というかアリスでしょう、嫌なのは」
「……そうですけど」
信号が青になった。
美紗子はゆっくりとアクセルを踏む。
「運転手が必要なら他にも誰かいたと思います」
「生憎と手が空いているのが貴女しかいなかったのよ」
「嘘つかないでください」
SHINE研究所の所長であるアリスと美紗子は古くからの知り合いだ。
三十年ほど前にL.N.T.という街で青春時代を過ごした同級生である。
……と、いうことになっている。
「友達なんでしょう。仲良くしなさいよ」
「向こうは私を友だちと思ってくれてないですし」
「昔馴染みならば仲良くするための努力をするべきじゃないかしら」
「でしたらアオイさんもマナさんと仲良くできますか?」
「……発言を撤回するわ」
この世で一番聞きたくない名前を出されて今度はアオイが不愉快になってしまう。
美紗子はもういちど大きなため息を吐いて目的地へ向かって車を加速させた。
※
研究所に着いた。
屋外駐車場に車を止めて正面口から中に入ろうとした、その時。
自動ドアが開いて中から裸の少女が出てきた。
「えっ」
その少女は四つん這いになって獣のように走っている。
彼女はアオイたちに気づくと嬉しそうに駆け寄って来た。
「にゃあ!」
「おっと」
「わあっ!」
少女が跳ね、アオイはそれを避ける。
結果、美紗子が首元に抱き着かれた。
「な、何!? 何なんですか!?」
パニック状態になる美紗子。
そういえば彼女はこれを見るのは初めてか。
少女の外見年齢は十二、三歳くらい。
四つ足で駆けてくる身体能力は普通の人間とは思えない。
そして何よりその少女には……猫のような真っ白な尻尾と耳があった。
尻尾はお尻のやや上あたりから生えている。
頭の左右からぴょこんととび出した猫耳とは別に人間の耳もある。
それと髪の毛の色も不自然なほどの濃いピンク色だ。
「にゃあ~ん♪」
猫耳少女は美紗子の胸元に頬をこすりつけて文字通りの猫なで声を上げる。
「よくわからないけどせめて服くらい着て下さいよ!」
「言っても無駄よ美紗子。その子は研究所の実験の犠牲者なんですから」
「え、じっ、実験体? 犠牲者?」
「人間に猫のパーツを植え付ける実験よ。どこかの特殊な性癖の変態からの依頼で作られたらしいわ。その猫耳少女は実験の副作用で脳に障害を持ってしまったのよ」
「か、可哀想……そんな酷いことを研究所は……」
「違うわよ!」
アオイの捏造を否定したのは研究所の中から出てきた金髪の少女だった。
この娘はクリスタから来た科学者の助手で名前はファルと言う。
「ほらエミル、おいで!」
「にゃぁん♪」
ファルが指をちっちっと鳴らすと、猫耳少女は美紗子から離れて彼女の足元に駆け寄った。
猫耳少女は四つ足で身を縮こまらせてファルの足に体を擦りつける。
「え、え、どういうことですか?」
「脳を破壊して家畜として調教済みというわけよ。さすがは悪逆非道の研究所、悪魔の所業ね」
「だから違うって言ってるでしょ! アオイさん本当は知ってるんだから適当なこと言わないで!」
ばぅん、と気の抜けた音がして猫耳少女の身体が煙に包まれる。
数秒後に煙が晴れた時、そこにいたのは白茶黒毛の三毛猫だった。
「人が猫に変身した!」
「逆だってば。動物を人間に変化させる実験の途中だったの。エミルってばデータを取ろうとした隙に逃げ出しちゃったのよ」
研究所は未だに謎の多いSHINEというエネルギーについて調査をしている機関である。
魔法のごときエネルギーとも言われるこの新エネルギーは、応用次第で動物を人に変えることすらできてしまうらしい。
例のクロスディスターも肉体の組み換えという意味では同じ技術が使われている。
「ああ、アオイさん。ようこそいらっしゃいました」
さらに建物の中から青年が姿を現した。
白衣を着こんだ金髪の優男である。
彼こそがクロスディスターを生みだした『博士』の助手であり、名前はバジラ=シグー。
SHINEの秘密を求めてクリムゾンアゼリアに侵入したクリスタ人である。
現在は互いの利益のため契約に基づいて研究所で働いている。
アオイもよく知っている彼の父親、マーク=シグーの若い頃にそっくりだ。
「最近よくいらっしゃいますね」
「今日は貴方に用があるの」
「とうとうSHINE精製の方法について教えてくれる気になったんですか?」
「それはファーム計画が終わってからという約束でしょう」
バジラの目的は紅武凰国が独占するSHINEの精製方法をクリスタ共和国に持ち帰ること。
管理局はプロジェクト協力の見返りとしてそれを与えるという約束で彼を研究所で働かせている。
もちろん最終的に管理局はその約束を反故にする……つもりはない。
彼が望む形とは違うが後々はSHINEを世界中に公表する計画もあるのだ。
アオイ個人としては働かせるだけ働かせたら始末してしまえばいいと思っているが。
「速海駿也が貴方に依頼していた新兵器があったでしょう。あれを管理局に譲って欲しいのよ」
「ああ、彼は罪を犯して追放されたって聞いたけど本当だったんですか」
厳密には追放ではないが、世間的にはそう思われているので訂正するつもりはない。
クリムゾンアゼリアでの地位は低いとはいえウォーリアの反逆など醜聞でしかないからだ。
速海駿也は計画的な反抗のために自前の戦力拡充を目論んでいた。
その際に白羽の矢を立てた一つがこのバジラ=シグーの頭脳である。
研究所は伝統的に管理局と対立しており、味方にするには都合が良いと考えたのだろう。
奴は自分の権限を使って懐柔したバジラを利用しようと考えていたようだ。
しかし、少し前から管理局と研究所はとある計画のために協力関係を強めている。
当然ながら速海の浅はかな考えはバジラを通して管理局の耳にもしっかりと届いていた。
放置しても問題ないレベルと思っていたが、せっかくなので有効活用させてもらうことにする。
「お譲りするのは構いませんが、使えないと思いますよ?」
「すでに完成していると聞いたけど」
「扱える人間がいないんです。理論上可能なSHINE集約数値を限界まで突き詰めているので、それこそ『天使』クラスじゃなきゃ使用者の身体が耐えられないんですよ」
「逸脱者では無理かしら。例えば美紗子とか」
「えっ」
「使える可能性がないとは言いませんけど、非常に大きな死亡リスクがありますよ」
「大丈夫かもしれないみたいよ。やってくれるわよね?」
「嫌ですよ!」
もちろん冗談である。
戦力拡充が目的なのに貴重な逸脱者を危険に晒すのは本末転倒だ。
どうやらクロスディスターのように一般人を手軽に強化できるような便利アイテムではないようだ。
「仕方ないわね、それじゃ別の手段を……」
「あてがあるよ」
アオイが期待外れと知って帰ろうと考えた時、彼女たちに声をかける人物がいた。
「っ!」
美紗子は素早くアオイの背中に隠れた。
白衣を着た小柄な女が足音も立てずに近づいて来る。
「アリスさん、ごきげんよう」
「天使に近いくらいのSHINE耐性のある一般人。失敗して死んでも惜しくない人」
普段なら挨拶も返さない彼女の方から話しかけてくるとは非常に珍しい。
しかも自分の研究とは関係ない提案をしてくるとは、一体どういう風の吹き回しだ?
「私のお気に入り。試しに使ってみるといい」




