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「アリーナ?! 」
殿下が鋭い視線をわたしの全身に走らせた。その隣では、空色の目を見開いたリュドミラ様が扇で口元を隠されている。煌びやかなお二人に対してわたしはドレスも髪もぐしょ濡れで、まさに濡れネズミのみっともない姿…… いたたまれなくてたまらない。逃げ出したかったけれど、自分よりも高位の方々に対してできることではなかった。焦ってドレスを摘もうとしたが、水を吸って重たくなった生地は言うことを聞いてくれない。
と、殿下が長い足で生垣を軽々と飛び越え、こちらに駆け寄ってくるのが見えた。羞恥よりも恐怖で反射的に踵を返そうとしたわたしの両肩が大きな手で掴まれる。
「アリーナ! なぜこんなところにいる! その姿は一体どうした!? 全身がひどく濡れている。 付けてあった近衛はどうした?侍女は? 」
矢継ぎ早の殿下の激しい叱責に身が縮こまった。目が熱くなり、涙が迫り上がってくるのがわかる。こんなところで泣いてしまってはダメなのにどうしようもない心細さに頬を伝わる涙を止めることができない。と、そこに慌てた様子で駆け込んできた者があった。
「失礼致します、殿下!奥宮からの急な知らせです! 」
「許す。報告せよ」
殿下に掴まれている肩が熱い。
「はっ。アカトフ伯爵令嬢のお姿が部屋から消えました。奥宮及び奥庭に捜索を出しておりますが、未だ見つかっておりません 」
ギリギリと肩に指が食い込む。
「そうか。アカトフ伯爵令嬢はここにいる。捜索は中止してかまわない…… ところで、その知らせは今来たのか? 」
殿下の静かな声の中に抑えきれない怒りを感じたためか、使いの近衛兵が、その場にざっと膝をつく音が聞こえた。
「はっ! 」
「そうか…… よい…… とりあえず部屋付きの近衛と侍女を捕縛せよ」
「…… はっ! 」
あたりの空気が張り詰めるのを感じ、顔を上げた。殿下の黒い瞳がわたしの瞳を射抜くように見つめていた。
「ほ、捕縛? な、なぜですか? 」
殿下の口元が嘲るように歪む。
「私の命を遂行できなかったからだ 」
「め、命令? 」
「そなたを見張り、閉じ込めておくよう命じている 」
わたしを見張る? 閉じ込める? なぜ?! あぁ、でもわたしが考えなしに逃げ出したから、あの二人は罪に問われてしまうの? なぜ?どうして?頭の中がぐるぐるまわって身体が震える。
わたしのせいで人が捕らえられるなんて間違っている。
「あの二人は悪くありません。わたしが嘘をついて勝手に逃げ出したのです。ば、罰するならわたしになさってください! 」
身体が燃えるように熱い。
「逃げただと? 」
掴まれた肩から熱が身体中に伝わっていく。その熱とは反対に殿下の全身から冷たい空気が押し寄せ、あたりの空気をビリビリと震わせる。刺すような視線が怖かった…… 人からこんな怒りをぶつけられたことなど今までなかった。でも、なぜわたしがそこまで怒られなければならないの? わたしだってあの籤引きなんかのせいで、来たくもない場所に連れてこられて、勝手に放置されて、閉じ込められて! 溢れるように出てくる言葉で頭がパンクしそう!
「に、逃げました! わたし、もうここには居たくないんです。帰りたいんです。帰りたい。わたしを家に帰して! 」
少しでも逃れようと首を振りながら後ずさる。なのに両肩を掴む殿下の手は、まるで万力のようで、少しも逃れることができなかった。なによ。人の気も知らないで! 最初から無理だって何度も言ったじゃない。結局自分だってわたしじゃ物足りないから恋人とデートだってしてるんじゃない。
言いたいことはそれだけじゃないのに、これではまるで駄々っ子のよう。でも頭の中でぐるぐるまわる言葉は、さらさら落ちる砂のようで捉えることができなかった。
「レオ様 」
柔らかな声が耳を打ち、ほのかに香る花のような香りがした。見るとリュドミラ様が、わたしの肩を掴む殿下の腕にそっと白い手を添えていらした。なぜかずきりと胸が痛む。
「ミーリャ…… 」
わたしの名前を呼ぶときとは大違いなその声音。愛しい人を愛称で呼ぶ柔らかな声。その声に熱く火照っていた身体が、氷水をかけられたように冷めていく。
「レオ様。そのように問い詰められなくともよろしいではありませんか。それよりアリーナ様のお顔の色が…… あっ!」
突然世界がぐるりと回った。足がぐにゃりと曲がり、腰から落ちていく。
「アリーナ!? 」
慌てたような殿下の顔とリュドミラ様の顔とがブレて見える……
「アリーナ!! 」
薄れていく意識の中で感じたのは、ふわりとした浮遊感。抱き上げられたのだと悟った瞬間、胸の奥がツキリと痛んだ。
気持ちがいいわ。ひんやりと心地よい冷たさが顔に触れている。
花のような香りがするわ。これはなんの花だったかしら。
パチリと目を開いた。
「まぁ。起こしてしまいましたわね。お加減はどうかしら」
青い瞳の美姫がわたしを覗き込んでいる。ちょっと目尻を下げている表情が同性同士でもどきっとするほど色っぽい。手にされているのはハンカチ?
「…… リュドミラさま?…… こほっ」
ひりつくような喉の渇きに咳き込んだわたしの前に、グラスが差し出された。中の 水をコクコクと飲み干し、ふうーっとため息をつく。
「落ち着かれたかしら。アリーナ様、高熱を出されてしまって倒れられたのよ? 覚えていらっしゃる? 医師によると雨に濡れてしまわれたから…… とのことでしたわ」
熱? あぁ、そうか。わたし倒れてしまったのか。今までずっと健康優良児だったはずなのに。ふうっともう一度ため息をつくわたしの額を、リュドミラ様が手に持っていたハンカチでそっと拭って下さった。
そっと見回すと、そこはわたしにあてがわれている、ここ一月ほどで慣れてしまった部屋だった。午後の柔らかな光が窓から差し込んでいる。午後? わたしどれだけ寝てしまっていたの?
「失礼しますわね。アリーナ様」
柔らかな声がかけられたと同時に、額に白い手が当てられた。もう一方の手はご自身の額に。
「だいぶお熱は下がりましたわね。けれど今日はこのままベッドで過ごされたほうがよろしいわ。それにできればなにかお腹に入れたほうがいいのだけれど」
なぜリュドミラ様がわたしの世話をしてくださっているの? と、唐突に自分がどんなに失礼なことをしているかに思い至った。
「リュ、リュドミラ様! あの、わたし大変失礼なことを! 」
飛び起きて、ベッドから立ち上がろうとした途端、聞こえてきたもう一つの声にぎくりと身体が強張った。
「待て。アリーナ。病み上がりでそんなにいきなり動くな 」
ガタンという音とともに立ち上がったレオニード殿下が、部屋の隅から大股で近づいてくる。いつからいらしたのだろう。信じられない思いで目をやれば、大きな手が伸ばされてきた。反射的に身体が逃げ、ふらりとバランスを崩す。倒れるっ、と思った瞬間、優しい花の香りがふわりとわたしを取り巻いた。上半身に感じるのは、柔らかな感触。見れば豪奢な金の髪がわたしの腕にさらさらとこぼれていた。
リュドミラ様が抱き留めて下さったのだ、ということに気付いた時には、その嫋やかな手によってもう一度ベッドの中に戻されたときだった。背中にクッションを当て、座りやすいように調整して下さっている。
「そんなに急に立ち上がられてはダメよ。レオ様もアリーナ様を怖がらせないで頂戴? 」
その言葉に、意図してではないけれど、殿下の手を拒んでしまったことに気付く。ハッとして目を向けると、わたしに伸ばされていたはずの右手をぐっと握りしめ、顔を逸らした殿下の姿が映った。なにかを耐えるようなその横顔に怒りを感じ、恐ろしくて俯くことしかできない。きっとリュドミラ様の手を煩わせたことにお怒りなんだと思う。
「アリーナ様」
気付くと、リュドミラ様がわたしの枕元にそっと腰を下されていた。そのまま流れるような仕草で、投げ出していたわたしの手を握られ、もう片方の手が宥めるように、柔らかく重ねられる。その仕草は、不思議と騒めいていたわたしの心を落ち着かせてくれた。
「アリーナ様。少しお話しできるかしら。昨日はあんな高熱を出されたのだし、本当ならこんなお話はもっと体調が回復されてからのほうがよろしいとは思うのだけれど、このままではゆっくりと休めないようにもおもいますの。どうかしら」
お話…… お二人が揃われて、仮初の婚約者へのお話と言えば、聞かなくても内容は窺い知れるもの。元はと言えば、バランコフ公爵家と他家とのパワーバランスがお二人の障害だったはず。そのバランスをうまく取ることができるまで、いろいろな勢力に属していないアカトフ家のわたしをとりあえずの婚約者とし、他の候補の方を退けられるとか…… そういうことなのだろう。
籤引きで王太子殿下の婚約者に選ばれるなどという荒唐無稽な話より、そちらのほうがよっぽど理解できる。その考えに至った途端、渦巻いていた何かが消えた。それはもしかすると咲き始める前の蕾。芽生えかける前の想い。芽生えたところで、花咲かせたところで、人知れず枯れていく運命のもの。まだだれにも、わたし自身にも知られていないそれ。わたしの中で、それは、わたしにも悟らせないまま、心の奥底に自ら逃げ込んだ。
「はい。どうかお話ください。いろいろなお考えがあることを知りもせず、逃げ出した上に、このようにご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。わたしでよければ、どうぞお二人のお役に立たせてくださいませ」
お読みいただきありがとうございます。ここでストックが切れてしまいました。週末の自粛の嵐を、時間の確保と捉えて頑張ります。