6
また一週間が過ぎた。わたしはいつまでここにいるんだろう。
与えられている部屋のサロンから庭を眺めながら、ぼんやりとそんなことを思った。
「アリーナ様。お加減がよろしくないのでしょうか? 」
おずおずとかけられた言葉にびっくりした。いいえ、体調だけはすこぶる元気です。淹れてもらった紅茶も美味しいし。
「ここ数日、お食事が進んでいないのでは…… と 」
しまった…… この侍女だけでなく、おそらく料理人が気にしているのだろう。自分の料理に粗相があったのではないかと。人に迷惑をかけるような時は、必ずフォローをするようにと、お母さまには口を酸っぱくして言われていたものだ。貴族とはいえ、仕えてくれている人の気持ちもわからないような女性になってはいけない、そんな人は貴婦人ではない、というのがお母さまの持論だ。それなのにすっかりその言葉を忘れてしまっていた自分に、またかなり落ち込む。
「まぁ、ごめんなさい。ちがうのよ。お味もとても美味しくて、不満など何もないの。ただこのところ暑いせいかしら。食欲があまり…… 申し訳ないのだけれど、今夜からもう少し量を減らしてもらえるように、厨房に頼んでもらえるかしら? 」
どうかくれぐれもよろしく伝えてください。心の中で手を合わせたわたしは、音を立てないようにカップを戻しながら、にっこりと微笑み、そう頼んだ。
もしかすると、わたしの存在は、放置…… ではなく、いなかったものとされているんじゃないだろうか。そう思ってしまうほど独りぼっちだった。わたしが夢中で口付けを返してしまったあの日以来、殿下は一度も姿を見せていない。それからというもの、わたしの充実だった毎日は、憂鬱な毎日へとシフト変更した。相変わらず詰め込まれている授業にも些か身が入らず教授に心配されたり、庭を歩く気にもなれず、食欲も沸かないため、先程のような問いをもらったり、といった具合。
疲れた…… なぜわたしはここにいなくてはならないのだろう。家族から離れて。お母さまはどうしてるかしら…… イアン兄さまはきっと相変わらずで、アドリアンは真面目に勉強してるはずね。そしてお父さまは…… 頭の中に家族の顔が順番に浮かんだ途端、涙がポロリと零れ落ちた。みんなに逢いたい。わたしはこんなに逢いたいのに、なぜ迎えに来てくれないのかしら。王宮に来てから一度も会いにさえ来てくれない。わたし自身、帰ってもいいかどうか聞く相手さえいないけど。
お父さまはこのお話に浮かれていたし、お母さまもロマンスが〜と嬉しそうだった…… わたしのことが心配ではないの?
いつか返品されるはずなのだから、それが今でもいいはず。もう帰ろう。わたしが帰ったところで困る人は誰もいないわけだし。いろいろと考えるとさらに落ち込みそう。居ても立っても居られなくなったわたしは、音を立てて立ち上がった。
「アリーナ様? どうなさいましたか? 」
扉前で控えていた侍女は、振り返ったわたしの頬に伝わる涙を認めたためか、はっと目を見張った。
「帰ります 」
短く告げ、扉に向かった。
「アリーナ様! どうかお待ちくださいませ。王太子殿下のお許しを得なくては…… 」
「いいえ。別に必要ないと思います 」
ノブに手が届く前に、侍女がわたしの前に体を滑り込ませた。
「どいてください。そこを通して 」
侍女がふるふると首を振る。
「アリーナ様。どうぞお鎮まりくださいませ 」
「通してください 」
睨み合っていると、扉がコンコンと叩かれる音がした。侍女がわたしから目を離さずに後ろ手で扉を開けると、そこには困惑した表情の近衛騎士が立っていた。
「失礼します。どうかなさいましたか? 何か問題でも? 」
侍女は、正直に言ってもいいのかどうかを考えあぐねるような表情を浮かべた。そして何事もなかったかのように振る舞うことに決めたらしい。
「いいえ、なんでもございません。アリーナ様がお庭の散策をご希望なのですが、空模様があやしいのでお止めしていたのですわ 」
嘘つき。みんな嘘つき。みんな嫌い。もういいわ。わたしは絶対家族の待つ家へ帰る。でもここで強行突破できると勘違いするほどお馬鹿さんでもありませんからね。一度引こうじゃないの。
「ごめんなさい。もういいの。煩わせてしまったわね 」
萎らしいフリをして、先ほどまで座っていたソファに戻った。背後から探るような視線を感じるけれどそんなの知らないわ。背を向けたままハンカチで頬をそっと拭い、図書館から借りていた本に手を伸ばした。
まったく内容に集中できないまま、ページをめくっているうちに、探るような雰囲気は消え、室内にはいつもの空気が流れ始めた。頃合いを見計らって頼み事を口にする。
「喉が乾いてしまったわ。申し訳ないけれど、お茶をいただける? 」
目を向けるとほっとしたような顔をした侍女が、近づいてきた。
「かしこまりました。新しくご用意させていただきます。なにか、お好みはございますか? 」
彼女はとても親切。いつもこうやって好みを聞いてくれるし、言わずともこちらを気遣って心地よく過ごせるように骨を折ってくれる。だから今だってきっと最高のものを用意してくれるはず…… 多少時間がかかっても、彼女ならそうするはず。あなたの丁寧な仕事がわたしに時間をくれるわ。
「そうね。少し暑いし、さっぱりしたい気持ちなの。フルーツを絞ったジュースがいいわ。それと何か軽く摘めるものを用意してもらえるかしら? 」
「かしこまりました。旬の果物をご用意させていただきます。少しお時間をいただいてしまいますので、なにかございましたら、扉前の近衛にお声をおかけくださいませ 」
「わかりました。ありがとう 」
わたしも嘘つきになったわ。
静かに閉められたドアにそっと近づき、そっと耳を押し当てる。
ー「先ほどは大丈夫でしたか? 何かありましたか? 」
ー「ええ。何かをずっと考え込んでいらっしゃいましたが、突然お帰りになると仰られて 」
扉越しにもピンと空気が張ったような気がした。
ー「今は落ち着かれていますので大丈夫かとは思います。お飲み物をお望みですので、戻るまでよろしくお願いいたします 」
ー「承知しました 」
近衛の腰の剣帯がカチャリと音を立てた。
そっと扉から離れると寝室へ入った。与えられている部屋は、居間と寝室に分かれており、寝室にも中庭へ出る窓扉があるから。その窓扉をそっと押し開けると、わたしはするりと外へ出た。
中庭は目の前こそ花壇や芝生が整えられているけど、少し進むと涼しげな木立に入る。レンガで縁取った小道が敷かれ、ずっと奥まで続いている。ドレスを蹴り上げるように足を運んでいたけど、清涼な風を送ってくれる木々の下、熱くなっていた心と身体が少しずつ鎮まってきた。日課となっていた散策では踏み入れたことがないほど奥に進む。
けれど、このまま小道を進んでいても、侍女が部屋に戻ってわたしがいないことに気づけば、すぐに見つかってしまう。そう思ったわたしは、道から外れて進むことにした。『姉上!一体何を考えているんですか!』アドリアンがそう言いながら怒るところが目に浮かぶわね。でももう姉さまは我慢の限界なの。許してね。
小道から外れてなおも進むと、下生えの緑が濃くなり、背の高い木が増えていく。曲がりなりにも貴族の令嬢をやっているわたしにとって、こんなところは初めてだし、こんなに歩いたのも初めてだった。
柔らかな緑の下生えを踏みしめつつすすんでいくと、ぽつり。頬にあたった滴に上を向く。ぽつりぽつりと増える滴に、先程の侍女の言葉を思い出した。空模様が……怪しいと言っていた……慌てて、雨を凌げるような場所を探したが見つからない。とりあえず元来た道を、と思って振り返ると、すでにどちらからきたのかさえ、わからなくなっていた。
雨を含んで重たくなったドレスを引きずるように足を進める。長い髪もぐっしょり濡れ、肌に張り付いて気持ち悪い。ここは王宮のどのあたりなのだろう。表庭に出られさえすればなんとかなると思っていたけど、ここがどこの庭なのかもわからない。戻りたくないけど、戻る道がわからない。『だから言わんこっちゃないんですよ、姉上は! 』アドリアン…… またあなたに会えるかしら。姉さまが考えなしだったのはわかっている。でも、さっきはほんとに我慢ができなくて飛び出しちゃったの…… どうしよう。アドリアン。姉さま帰れるかしら。
ふ、と右のほうに何かを感じた。向こうに見えるあれは生垣じゃないかしら。よかった。ようやく道が分かったかもしれない。ほっとしてそちらに向かった。
「本日はとても楽しく興味深いひと時を過ごさせていただきましたわ。長年ご一緒させていただいて参りましたが、レオ様のあんなお顔を拝見できるなんて、まるで夢のようですわ」
「まいったな。ミーリャ。揶揄うのはやめてくれ。気心知れている女性は君ぐらいしかいないのはわかっているだろう? 」
「ほほほ。かしこまりました。それにしても恋とは不思議なものですわね。レオ様をここまで変えられるとは 」
「っ!ミーリャ!」
「ほほほ。揶揄ってなどおりませんわ。わたくしこれでも喜んでおりますのよ。では迎えも参りましたので、本日はわたくし、これで下がらせていただきますわ。」
バランコフ公爵令嬢リュドミラ様。その美しさ、気高き立ち居振る舞い、全てがこの国の娘たちのお手本のような方。誰よりもレオニード殿下の隣に相応しい方。わたしもずっとそう思ってきた。少し前のわたしなら、眼福なシーンを目撃してしまったわ!と友人たちとキャッキャ言い合っていただろう。でも、今のわたしは胸の真ん中に大きな穴を無理やり開けられたような、そんな痛みに襲われていた。心臓のあたりを手でぎゅっと押さえながら、ぎこちなく強張った足を一歩動かす。ここから逃げたい。これ以上あの二人の姿を見ていたら…… きっと死んでしまう。
と、そのとき、レオニード殿下がこちらに視線を向けた。驚愕に見開かれた黒い瞳がわたしの姿を捉える。
「アリーナっ?!」
ありがとうございました。