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「アリーナ様。今の文法と発音をお忘れになりませんように。それでは3日後までにこちらにも目を通しておいてください 」
席を立ち礼を返すと、教授が図書室を出て行く。集中していたせいか、時間の経つのが早かった。これで今日の午後の授業は、残すところ歴史だけだ。
王宮に連れてこられて2週間が経つ。
あの運命の夜会の日からぴったり10日後のこと。アカトフ伯爵家に王家の紋章付きの馬車とともにわたしを迎えに来たのは、やはりというかなんというか…… レオニード殿下ご自身だった。わたしがやっぱり辞めますと言い出すのを防ぐためなのか、毎日毎日やってきては、一緒にお茶を飲み、短時間で帰っていく。来るたびに、チョコレートやレースのハンカチ、画集など、こちらに負担を感じさせないようなちょっとしたプレゼントを置いていくのだ。3日も経つ頃には、すっかり殿下の訪問に慣れ、いちいち動揺することはなくなっていた。明日もいらっしゃるのかしら…… 出発の前日に、うっかり漏らしてしまったつぶやきをお母さまに聞かれ…… にんまりと笑うお母さまを睨もうとしたのに、わたしの顔はただ赤らんで口よりも雄弁に語ってしまっただけだった。
ところが、そんなちょっと流されつつあったわたしの顔色は、王宮に着いた翌日から、待ってましたとばかりの教授たちの群れに放り込まれたまま、殿下から放置されているうちに、普通の顔色に戻っていた。
登城してすぐに、国王陛下と王后陛下に拝謁を賜ったものの、なんとか挨拶の口上を述べたあとは両陛下とも頷くのみで、特にお言葉を賜ることなどはなかった。クジで決まった伯爵家の娘への対応などそんなものだと、自分を納得させたけれど、半分は諦めだったような気もする。
殿下に促され退出し、部屋に案内されたあとは晩餐まで放置。その晩餐では、長いテーブルの端と端に向かい合って座り、会話もなく食事を頂いて終了。与えられた部屋まで再びエスコートしてくださったが、わたしを部屋に押し込むなり、さっさと踵を返して消えて行った。その後も、気まぐれに晩餐を共にしたり、授業中にふらりと図書室に来たかと思うと、気づくといなかったりと、正直拍子抜けだ。おそらくわたしを妃に、というご自身の言葉を後悔されているのだと思うと、それもまた納得だった。
一時の気の迷いを通り越しはしたものの、意外にも王宮に来て以来、わたしの毎日はとても充実していた。伯爵家のお父さまとお母さまは、3人の子供それぞれに、最も必要だと思われる教育を与えてくださっていた。兄には跡取りとしての教育。弟にはいずれ家を出るための教育。そして娘のわたしには、マナーや音楽、社交や裁縫といった貴婦人になるための教育を、といった具合だ。なのでお兄さまやアドリアンが学んでいた歴史や数学に興味はあったものの、学んだことがなかった。
令嬢としての勉強は得意なほうだったし、お母さまに教わるお裁縫は楽しかった。けれど、この国の歴史や、周辺諸国の地理、領地経営に必要な数学などを学んでみたいという気持ちは子供の頃からずっと持ち続けていた。たとえ期間限定だとしても、それが王宮では当然とばかりに受けることを許され、嬉しい驚きだったのだ。
というわけで、殿下には放置されているし、直に伯爵家に戻されるのだろうとは思うものの、ずっと興味のあった勉強を優秀な教授について学ぶことができ、わたしの毎日はとても充実しているのだ。
そのはずなのに、ふとした瞬間、胸の奥が微かに痛む時がある。その理由がなんなのか…… きっとわたしは知っている。知っているのに知らないふりをするのと、知っていることを認めて諦めるのと、王宮を去る時に、どちらが傷つかないでいられるか、わたしにはまだわからない。
「…… あぁ、もうダメ…… もう一文字も出てこないし、入ってこない 」
翌朝わたしは、ため息をつきながら、机に広げた貴族年鑑の上に突っ伏していた。わたしだって一応は伯爵家の令嬢として18年生きてきて、社交もそれなりにやってきている。所謂上流と言われる公爵家や侯爵家、我が家と同じ中流階級の貴族関係や、その姻戚関係などは大体のところは頭に入っている。問題は、もっと数の多い、子爵家や男爵家の相関図。その領地の場所や主産業にとどまらず、個々人の性格や好みまで網羅するなど神業以外の何物でもない。わたしはこの社交の要というべき、貴族たちの情報整理が、どうにも苦手だった。ロマンスの噂だったら別なのに。諦めたわたしは、誰も来ないことをいいことに、広げた本の上に片頬をぴったりとつけ、授業の時間になるまでしばらく目を瞑ることにした。
誰かにゆっくりと頭を撫でられている。時折指が遊ぶかのように髪を梳く。毛づくろいされている猫が、なぜあんなにも満足そうに喉を鳴らすのかがわかるような気がした。指は遊びながらゆっくりと移動し頬を撫でる。と、僅かにかさついた指とは違う、柔らかい何かが頬に触れたのを感じた。チュッというリップ音に、微睡んでいた意識が急速に上っていく。
パチリ、と目を開ける。飛び込んできたのはレオニード殿下の美貌。慣れる日など絶対に来ないだろう…… その男らしい美貌が、ありえないほどの近さにあった。
「っ! きゃぁっ! 」
「アリーナっ! 」
飛び退くように仰け反って、椅子ごと倒れそうになったわたしの腰を殿下が攫う。
「大丈夫か? 」
ぐいっと引き寄せられて広い胸の中に閉じ込められる。咄嗟のことで仕方なかったとしても、それはまるで抱きしめられているかのようで、顔に熱が集まるのを感じた。
「申し訳ありません…… もう大丈夫です 」
そう言って殿下の胸に手をつき、身を起こそうとしたが、殿下はわたしの腰を離さないどころか、もう片方の手で自分の胸元にあったわたしの手首を緩く握ってきた。
「気に入らないな 」
一拍遅れて、言われた言葉が心に届く。はっとして顔を上げたわたしに、殿下が苛立ちを含む声音で続けた。
「なぜ私を見て悲鳴をあげる? 」
…… 仰る意味がわかりません。
「なぜって…… その、驚いたからです 」
当たり前だと思うのだが、殿下にとっては気に入らない返事だったのか、滑らかな眉間に皺が寄った。
「それにしては随分と気持ちよさそうに寝ていたようだが? 」
授業までは時間があるし、図書室に来るような人は誰もいないと思っていたからです。殿下がいらしゃると知っていれば、きちんとしていたはず……
「猫のように、私の手に顔を擦り寄せていたように見えたが? 」
あれは夢ではなかった? ……
「それは…… その…… 」
夢でなかったとすると、さっき目覚める瞬間、頬に感じたのは手ではない?…… 気づいた瞬間、ぶわっと音を立てて顔が真っ赤になった。恥ずかしくてうっすらと涙目になりながら殿下を見上げると、わたしを抱く腕に力がこもった。
「…… 口付けしてもいいか? 」
言われたことがわからない。なのに、答えるまもなく唇が塞がれた。突然すぎて開いたままのわたしの目に、殿下の伏せられた長い睫毛がくっきりと映る。そんなわたしに気づいたのか、殿下がふっと微笑んだような気がした。
一旦離れた唇が、すぐに両瞼に落とされる。反射的に目を閉じれば、鼻腔に感じる殿下の香り。わたしの顔中に口付けを降らせた殿下は、再びしっとりと唇を合わせた。角度を変えて幾度も幾度も啄ばみながら、わたしの髪に指を差し入れる。その手がぱちりと髪留めを外すと、緩く纏められていた髪がさらさらとこぼれ落ちた。
気づいたときにはなぜか、つま先立ちになったわたしは両腕を殿下の首にまわし、夢中でその形の良い唇を追いかけていた。その黒髪を指先に感じながら、恥じらいもなく殿下の逞しい体にぴったりと寄りかかりながら。自分が何者なのかを忘れたわたしはひと時、その瞬間に酔わされていた。
「あぁ…… アリーナ…… 」
わたしを呼ぶ殿下の掠れた声が、耳に吹き込まれる。ぞくり、と震える背筋を、殿下が宥めるように撫で下ろした。仰け反って差し出した首に殿下が唇を寄せると、ちくりと痛みが走った。
「アリーナ。君をどうしたらいいのか…… いっそ…… 」
わたしのひと時の夢は、殿下のやるせない吐息によってあっけなく打ち砕かれ、あまりにも脆い自分の立場を思い出させた。殿下自身が持て余すそれは、最初からなかったことを。わかっていたにもかかわらず、流されて息を切らし、はしたなく乱れた自分をどこかに消し去ってしまいたかった。
ありがとうございました。