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柔らかすぎず、固すぎず…… ちょうどいい固さのシートに座っているはずなのに、少しもリラックスができない。目線は伏せているものの、文字通り背筋に板を入れているかのように固まっていると、殿下が長い沈黙を破った。
「アカトフ伯爵家を訪ねたら、君は供も連れずに外出したという。教会内だけだとは聞いたものの心配でね。後を追ってきた。まぁ、そんな私の気も知らない君は随分と呑気に過ごしていたようだが 」
殿下から流れてくるブリザードに、今にも凍え死にそうです。しかし何故、殿下は今日もまた我が家においでになったのだろう。
「いつも教会まで送ってもらった後は、一旦帰ってもらい、また迎えに来てもらっているのです。侍女たちには他にも仕事がありますから…… それにここには、母とも何度も来ておりますし、今まで何もありませんでした…… 」
何故言い訳をしないといけないのかと思いながらも、そうしたほうがいいような気がして、しどろもどろに言い訳をしていると、殿下がイライラとその長い足を組み替えた。
「…… いつも、か。いつもあの男、ワシリーとかいったか? 彼と示し合わせて逢い引きしていたということか? 」
逢い引き? 逢い引きって好き合う男女が待ち合わせをしてデートをする、という意味の逢い引き? まさか。ワシリーは単なる知り合いだ。思いもよらない言葉にびっくりして首を振った。
「まぁ、君はそうでなくてもあちらは違うな。そうでなくばボージン商会の息子が、わざわざ使用人の真似事などするわけがない 」
寄付や援助を細々としてはいるけれど、別に教会運営を行なっているわけではないので、出入りの商会の名前もわたしはまったく知らなかった。ワシリー が、そのボージン商会の息子さんだということも、殿下がそう言ったから今日知っただけ。初めて会ったときも、ワシリーです、どうぞよろしくといった当たり障りのないものだったし。彼とは会えば話もするけれど、二人きりになったことすらない。いつも誰かしらはいた。一応貴族令嬢として、そのぐらいは弁えているつもりだ。殿下はなぜそんな嫌な見方をされるのだろう。
「アリーナ。私は君に私の妃になることへの覚悟を決めるように告げた筈だ。王族の一員になるという自覚を持つために、だ。それにも関わらず、無防備にも君は供も連れずに、たった一人で外出し、あまつさえ訪れた先で若い男からの贈り物を嬉々として手にするところだった 」
わたしはさっと顔を上げた。ひどい侮辱だった。曲がりなりにも伯爵令嬢ではあるのだ。そんなことを言われるなんて自分の耳が信じられない。
「君が私の婚約者になったことは、既に全ての貴族たちが知っている。これから先、君のあらゆる言動は、良くも悪くも皆の注目の的になる。そんな中、今日の君の行動は、君の瑕疵を手ぐすね引いてあげつらおうと待つ奴らにとって、格好のネタになるとは少しも考えなかったのか? 」
容赦ない殿下の言葉がわたしを打った。
ひどい…… そんなの…… そんなの知らない。わたしはそんなつもりじゃなかった。そんなこと考えもしなかった。
美しい王太子殿下に見初められて幸せな花嫁になる…… そんな夢を普通に見ていた。国中の多くの娘たちと同じように。貴族の娘だからといって、わたしには手の届かない存在であることは、彼女たちと同じだったから。あまりにも遠く、あまりにもかけ離れた雲の上の存在だったから。だから夢でしかないと知っていた。現実には決して起こりえないと知っていた。夜会の度に友人たちと、もし選ばれたら…… そんなことをうっとり想像しあいながら楽しんでいられた。まさかこんなことになるなんて思いもしなかったから。
やっぱりわたしには無理。できない。わたしは王太子殿下の婚約者になんてなれない。ふるふると首を振ると、いつのまにか溢れていた涙が零れ落ちた。
「殿下。やっぱりわたしには…… できません…… そんなこと考えもしませんでした。申し訳ありません…… 今ならまだ間違いだったと言えるはずです…… どうか考え直してください 」
本当はきっぱりと顔を上げて言いたかったのに、下を向いたまま蚊の鳴くような声でしか言えなかった自分が情けなかった。馬車の中に重い沈黙が広がった。
と、身を乗り出した殿下がわたしの腕を掴んだ。両方の二の腕を掴まれ、ぐいっと引かれる。いきなりのことで体勢を崩したわたしは、勢いよく殿下の硬い胸に顔をぶつけた。慌てて起き上がろうとしたのに、強い腕にしっかりと腰を押さえられ、さらに強く引き寄せられた。頬に手が当てられ、上を向かされる。視界いっぱいに飛び込んできた殿下の苛立ったような瞳の色が恐ろしく、喉の奥が微かな音を立てた。
「アリーナ。すまない。そんな顔をさせるつもりではなかった 」
いい加減にしろ、甘ったれるなと揺さぶられ強く詰られる、そう思っていたのに、間近に聞こえてきた声は驚いたことに途方にくれたような声音を含んでいた。
殿下の指がわたしの頬に伝わる涙をそっと拭う。腰を抱く腕は抗えないほどに強いのに、頬に触れる指は震えるほどに優しかった。
「それでも私は君を解放してはやれない。君が泣こうと苦しもうと。アリーナ。君は私の妃になるんだ 」
そう言うと、殿下はその美貌を近づけ、おもむろに顔を傾けてわたしに口付けた。殿下の柔らかい唇がしっとりとわたしを覆う。当たり前だが、わたしにとって、はじめての口付けだった。
角度を変え、何度も落とされる口付け。拒みたいのに、拒まなくてはならないのに、わたしの両手は縋るように殿下の胸元をぎゅっと握りしめて離さない。
啄ばむように、なぞるように、殿下は自身の唇でわたしのそれを探り続けた。どのくらいたっただろう。わたしの全身からは力が抜け、広い胸にぐったりとして身体を預けてしまっていた。
息が整い、ふと気づけば、殿下の膝の上に横抱きにされている自分に気づく。身じろぎした弾みで、広がったドレスの裾が座面から何かを床に落とした。目をやった先には可憐な花束。
「あ…… 」
拾おうと指を伸ばした途端、きつく抱き寄せられた。
「アリーナ。それに触るな 」
耳に熱い息がかかった。
「っ! でも…… 初めていただいたお祝いのお花です 」
無理なのに、嫌なのに、触れ合いを拒めない。わたしはただ偶然にクジで当たっただけの相手なのに、触れてくる手は温かかった。心地よいほどに。
「祝い…… あぁ、私が言ったことか…… アリーナ。それは、祝われる気になったという意味に捉えるが、構わないな? 」
そうでなくても逃がしはしないが…… 続く言葉がそう聞こえたような気がした。
祝われてもいい、なぜそう思ったのか今でも不思議だ。中流貴族の令嬢には到底務まらない役目であることに変わりはないのだから。けれど、わたしは知りたかった。何故殿下が気まぐれに落としたあの口付けを拒めなかったのか、自分の中のその理由を。
ありがとうございました。