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どうぞよろしくお願いします。
殿下は掴んでいたわたしの肩から手を滑らせ、そのまま優雅な仕草でわたしをソファーに座らせて下さった。侍女もいなくなってしまった今、殿下を接待する役目はわたししかいない。が、お茶を淹れようと腰をあげかけたわたしをやんわりと制した殿下は、驚くことに手ずから紅茶を淹れてくださった。その手慣れた仕草に目を丸くしていると、殿下が甘やかに目元を緩ませた。
「君は紅茶が好きだろう? イアンから聞いて、いつか君に私の淹れたお茶を飲んでもらいたい、と思ってね。母上から習ったのだ 」
きっちり分量と時間を測って淹れられた紅茶からは、温かな湯気と芳しい香りが立ち昇っていた。先ほどの衝撃的な出来事もそうだし、今のお話からも、お兄さまと殿下の仲が、ただの近衛と仕える相手ではないらしいことに驚きしかない。お兄さまからは一度もそんなお話を聞いたことがなかったから。
「だが、いざ君が同じ王宮内に、私の手の届くところにいるかと思うと、どうしようもなく心が浮き立ち、それどころではなくなってしまった。君に逢いに行きたいのに、逢えば君に手を伸ばしてしまう。君を怖がらせたくなくて君から距離を取ったり、リュドミラに君のことを相談するために二人で会ったりと、少し考えれば、君の不安を煽るようなことばかりをしてしまっていた 」
待って。ちょっと待って? これは一体…… 殿下はなにを仰っておいでなの? リュドミラ様とお会いになっていたのはわたしのことを相談するため? わたしに手を伸ばしてしまうって…… これではまるで熱烈な告白を受けているような気持ちになってしまうわ。でも…… まさかそんなことあるはずが…… ない。
「君を手に入れるために、何年もかけて父上の条件をクリアし、君のご家族の理解を得てきたはずなのに、結局、私は君を怖がらせ、君を泣かせてしまった 」
父上…… 国王陛下の条件って…… それにわたしの家族の理解って…… みんな、なにもかも知っていたの? だから籤引きで選ばれたのに、ラッキーとばかりに満面の笑顔で送り出されたわけではないの?
「君が泣きながら出て行ってしまったとき、私は自分の過ちを知った。いかに策を弄し、外堀を埋めようとも、私自身の気持ちを、アリーナ、君に一言も伝えていなかったことを 」
いきなりあたりの空気が濃くなった。うまく息が吸えない。顔に血液が上ってくるのがわかった。
「私たちが出逢ったときのことは思い出してくれたのだろう? 君が泉に落ちてしまったときのことを…… 私はあの日、私の唯一の運命、アリーナ、君と出会ったのだ 」
「ま、待ってください! いきなりそんなことを仰られても! だって、わたしはただ籤で選ばれただけの仮初の婚約者で、そして殿下はリュドミラ様と…… 」
焦りすぎて自分でも何を言っているのかわからなくなる。髪を触ったり、口元に当てたり…… そわそわと動いてしまう手が、信じられない気持ちよりも、この先の殿下のお言葉に期待しているかのようで恥ずかしいのにとめられない。
「あっ…… 」
落ち着かないわたしの手が、さっと伸ばされた殿下の大きな両手に絡めとられた。そのまま殿下はわたしの前に片膝をつかれる。
「アリーナ。先ほどイアンと君が話しているのを聞いていた。兄上との個人的な会話を盗み聞くような無礼な真似をし、申し訳なく思う。だが、おかげで私の言葉が足りないばかりに君にあらぬ誤解をさせていたことを知った。そのために君を苦しめ、悲しませ…… 何度謝ろうと消えぬ罪を犯した。しかし、二度と君を泣かせないと誓う。どうか不徳の私を赦してくれないだろうか 」
殿下の黒い瞳が、熱情を持ってわたしの瞳を覗き込む。あぁ、この方のことをなにも知らなかったのはわたしだ。知ろうとしなかったのもわたし。籤で選ばれた後も、驚きと不安とに囚われただけ。恋を知ったときも悲しむばかりで、最初から諦め、この方のことを知ろうとしなかった。冷たい方だとばかり思っていた。こんなに熱い想いをぶつけてくださっていたことに気づかなかったのは、恐れと不安と悲しみで、わたし自身がこの方に向き合わなかったから。わたしの目を曇らせていたのはわたし自身。
やんわりと握られた手が熱い。殿下の黒い瞳の中に、頬を染め、ぼうっと殿下に見惚れるわたしが映り込んでいた。つ、と握られたままだった手が持ち上げられる。殿下は目をそらさぬまま、大きな両手で大切な宝物を扱うような恭しい仕草でわたしの手の甲に唇を寄せられた。ふせられた長い睫毛が、殿下の滑らかな頬に影を作った。手に触れる柔らかな感触。そしてそれがもう片方の手にも。
殿下に口付けされたのは初めてではない。それも手などではなく、何度も…… 唇に…… だった。その都度心臓が破れそうになった。でもその感触に、その温度に、その視線に、その香りに…… こんなにも心が締め付けられたのは初めてだった。あぁ。わたしはこの方が好きなのだ。この方の想いがわからないうちに受けた口付けは、喜びよりも不安、そして疑問ばかりだった。でもいま、わたしを好ましいと言ってくださった殿下からの口付けに、わたしは心が震えるほどの悦びに襲われた。熱を帯びた殿下の瞳に囚われたまま、溢れ出したそれは涙となって頬を転がり落ちる。目を見張った殿下が、片方の手をわたしの頬に伸ばす。しかしその手は、頬に触れる直前でピタリと止まった。
「アリーナ。これ以上、君を傷つけたくない。私はこれ以上、君の想いを差し置くようなことはしたくない 」
ふ、と殿下の瞳が苦しげに揺れた。
「だから聞く…… 君は、私のことが嫌いか? …… 私に触れられるのは嫌か? 」
はっと、殿下の顔を見上げた。王妃様譲りの美貌に浮かんでいたのは苦しい色。そして触れる直前にぴたりと止まったままの手が僅かに震えていることに気づいた。美貌も才能も地位も名誉も、なにもかもをお持ちの完璧な王太子殿下。恐れることなどなにもないはずなのに、わたしの前に片膝をつかれたこの方は、わたしの返事を不安な気持ちで待たれている…… そう気づいた途端、わたしが殿下に対して作っていた壁が崩れる音を聞いた。弾けるように飛びついたわたしを、殿下は驚きながらもなんなく受け止めてくださった。
「アリーナっ! 君を愛している。初めて会ったあの日から君だけを愛しているんだ 」
温かい広い胸にわたしを抱きしめながら、殿下がわたしの耳に声を直接注ぎ込む。胸を甘く震わせるその声には、先ほどまでの苦しみの色はなかった。両方の肩を掴まれ、そっと身体を離される。見上げると蕩けるようにわたしを見つめる殿下の瞳と出会う。
「わたしも、好きです…… 殿下。ごめんなさい。貴方を知ろうともしないで、勝手に誤解をし、勝手に不安になり、勝手に好きになって、勝手に逃げ出しました 」
ほろほろと涙が流れる。じっとわたしを見つめていた殿下が、わたしの頬に顔を寄せられた。やわらかな唇が頬を伝う。わたしの涙を唇で受けたのだ、と気づいたときには、わたしの身体はすっかり力が抜けていた。わたしを抱え直した殿下は、わたしを横抱きにしたままソファーに深く腰を下ろす。
「可愛いアリーナ。なぜ泣く? 想いが通じた今、私は君の笑顔が見たい。笑ってくれ。私の腕の中で 」
泣き笑いのみっともないだろう頬に大きな手が添えられ、そっと上を向かされる。きっと身体中の血液が顔に集まってしまっているに違いない……
「アリーナ、アリーナ。ずっと君とこうしたかった 」
想いが通じ合って初めての口付けは、啄むように優しいものだった。
二人のお話はここで完結ですが、あと1話、アリーナの知らない裏話を重臣視点で語ります。
ありがとうございました。




