13
大変遅くなりすみませんでした。
よろしくお願いします。
「そこまで私が嫌か…… 」
絞り出すような苦しい声が耳に蘇る。はっとして目を向けると、さっと逸らされた瞳。そこに浮かんでいたのは頑ななわたしへの呆れだろうか。緩んだ腕の中から逃げ出し、殿下の部屋からも逃げ出したわたし。殿下が追ってくることはなかった……
「アリーナ。具合はどう? 」
ノックの音に応えを返すと、イアンお兄さまがそっと顔を出した。
「紅茶を入れてもらったんだ。一緒に飲もうと思って 」
お兄さまの後ろからメイドがワゴンを押して入ってくる。瞬く間にテーブルの上に、紅茶とともに一口サイズのケーキや焼菓子、カットフルーツが並べられる。
「可愛い…… 」
「そりゃあそうだろうね 」
「お兄さま? 」
「いや、こちらの話。ほら。食べてごらん。美味しいはずだよ。どうせ厳選された最高級の材料を使って、最高級の腕の料理人が作っているんだろうし。アリーナの好きなものばかりのはずだよ。帰ってきてからちゃんと食べていないだろう? 」
言われるがまま、近くにあったベリーのタルトをお皿に取り一口齧る。お兄さまが言われる通りあまり食欲がなかったけれど、口の中に広がるさっぱりした甘酸っぱさにほんの少し口角があがる。
「ほら。紅茶もお飲み 」
促されるまま、一口お茶を口に含む。これは……
「お兄さま、これって…… 」
「ん? あぁ。気づいた? 全部王宮から届けられたものだよ。アリーナが好きなものばかりだって言っただろう? 」
王宮から? 何故? どうして? 最後に見た苦しそうな殿下の横顔が脳裏に浮かぶ。カップとソーサーが手の中でぶつかり合って、かちゃかちゃと音を鳴らした。
「アリーナ。何が怖いの? 帰ってきて何も話さない君のことを私も父上も母上もアドリアンもどんなに心配してるかわからない君じゃないだろう? 」
紅茶は、王宮で殿下とリュドミラ様とのお茶会で、わたしが好きだと言ったものと同じものだった。
「どうして……? 」
「アリーナ? 」
「だって、わたし、逃げ出したのに…… あの時、殿下はとても苦しそうなお顔をされていた。わたしに呆れられていたはずだわ…… 殿下はひどいわ。殿下にはリュドミラ様がいらっしゃるのに。なのにどうしてわたしなんかの好きなものをわざわざ送ってくださるの? 」
「アリーナ? 」
差し出されたお兄さまの手をギュッと掴んだ。
「お兄さま。リュドミラ様はとても素晴らしい淑女だわ。お美しいだけでなくとてもお優しくって。わたしなんかにもとても気を使って下さっていたわ。ご本人だけでなく家柄も素晴らしくて、この国の誰よりも王太子殿下のお隣に立たれるべき方だわ。それをリュドミラ様もそして殿下もご承知なのに、なぜわたしなの? わたしならお飾りで側に置かれても誰も困らないから? アカトフ家の娘なんか、どんな扱いをしてもいいと思われているから? だからっ 」
お兄さまがわたしの両肩をぐっと掴んだ。
「アリーナ。落ち着きなさい。バランコフ公爵令嬢と殿下がどうされたって? 」
「殿下とリュドミラ様はお互いに…… 想いあっていらっしゃって…… でもバランコフ公爵令嬢ではバランスが悪いから…… っ 」
涙が止めようもなく溢れ出てきた。
「それで? そんなふうに殿下とリュドミラ嬢が言ったのか? 」
ふるふると首を振るのに合わせて涙が飛んだ。
「いいえ、違います。お二人はそんなこと仰らないわ。でもわかるんですもの。お二人の間に流れる空気は、とても…… とても穏やかで、お互いを信用されていて…… それに、わたしには全然逢いにきてくださらないのに、リュドミラ様とは仲良くお二人でお茶をされているし。それにみんなそう言っているのも知っているわ。それなのに…… 」
「それなのに? 」
お兄さまがわたしの顔を覗き込んで先を促す。
「それなのに、殿下は…… 想う方がいらっしゃるのに、わたしに…… 」
ふと、肩を掴むイアンお兄さまの手に力が入った。
「もしかして、殿下は君になにか…… 無理矢理に君を傷つけるようなことをしたの? 」
お兄さまの雰囲気が変わった。あわてて首を振った。
「違います。無理矢理ではないの…… 」
お兄さまが鋭く息を飲んだ。
「アリーナ、まさか君!…… 」
「ごめんなさい、お兄さま。でもわたし、殿下に口づけされて…… 嬉しかったの。とても…… でもあの方にはリュドミラ様がいらっしゃって…… わたしに口づけたのは、仲良しのふりをしなければならないからってわかっているのに、嬉しい気持ちが止められなくて 」
お兄さまが下を向く。はらりと落ちた前髪でその表情は見えなかった。わたしはお兄さまにも呆れられてしまった?
「まさか口づけだけ? それだけ? ってどういうこと? いやそれだけって言うのもおかしな話ではあるけど…… まぁ、そうか…… なんと言ってもアリーナは箱入りだからな…… あ、アリーナ。ごめん。それで? えーと、口づけられて嬉しい気持ちが止められなかったんだよね? 」
お兄さまが下を向いたままぶつぶつと呟いている。最初のほうが良く聞こえなかったけれど、後半耳に入った恥ずかしい言葉の羅列に、堪らなくなったわたしは、お兄さまの視線から逃げるように両手で顔を覆った。
「えぇ。でも身の程を弁えなくてはならないでしょう? いずれこの婚約は解消されてしまうのだし。なので必死に与えられた役目を果たさないと、と思っていたのに、殿下はそんなことお構いなしに…… あ、もちろん王太子殿下のなされることに異議を唱えてはいけないこともわかっているわ。でももう一度口づけされたとき、どうしようもなく苦しくなってしまって。殿下を詰ってしまったの 」
「そして飛び出してきたわけか 」
こくり、頷いた途端にまた涙がこぼれ落ちる。
「えぇ。殿下にはもうほとほと呆れられてしまっているはずなの 」
なのに、どうしてわたしなんかのために、わたしの好きなものを送ってくださったのかしら。大々的に発表してしまった仮初の婚約者の役目を、今更他の令嬢に変えることができないから? 引き続きわたしにその役目をさせるため? 胸の奥がぎゅっと痛んだ。でもわたしにはきっともうできない。仮初の婚約者の役など。分不相応にも本物になりたいと願ってしまうから。わたしだけを見て欲しいと縋ってしまうから。でも待って。もし、わたしがこの仮初の地位を放り投げたとしたら…… 殿下の隣には新たな令嬢が立つということ? その方はわたしと同じように殿下に抱きしめられ、く、口づけを受けるの? そんな…… そんなことになったらわたしはどうしたらいいの?
「はぁーっ…… 」
切ない想いがぐるぐると頭の中をめぐる。そんなわたしをよそに、イアンお兄さまが大きくため息をつくと前髪をかき上げた。
「ふぅ…… さて、アリーナ。少し整理していいかな 」
冷静なお兄さまに促され、目尻に溜まった涙を指先で拭い、丸まってしまっていた背筋を伸ばす。
「はい。お兄さま。わたしなんかのために本当にごめんなさい 」
「謝るのは後でいいから。というか、アリーナに非がある話でもないから。思い込みが激しすぎるというのはあるけど。あ、そうだ。アリーナ。さっきから気になっていたんだけど、『わたしなんか』はやめなさい。そんな卑屈な物言いをする君じゃなかったはずだよ 」
はっとし、口元に手を当てた。たしかにそんな言い方、今までしたことがなかった。心のダメージの大きさが、殿下への想いの裏腹なのかしら。
「さて、アリーナ。君は、レオニード殿下とバランコフ公爵令嬢とが相愛の関係でありながら、社交界のパワーバランスが崩れることを懸念され、どこの派閥にも属していない我アカトフ家の令嬢を偽りの婚約者に仕立て上げ、いずれバランスがうまく取れるようになれば、偽りの婚約を解消し、晴れて結ばれる…… と思っているんだね? 」
簡潔にまとめられると、厳しい現実にまたもや涙腺が緩みそうになった。
「…… というわけだそうだが? 」
「お兄さま? 」
かちゃり、扉が開く音がし、そちらに顔をむけた。そこにいたのは三日ぶりに目にする怜悧な美貌の主。艶やかな黒髪を後ろに撫でつけ、切れ長の黒い瞳を眇めてわたしを射抜くレオニード殿下の姿だった。
「レオ…… 今回の件、君がぜーんぶ悪いと思う。その暑苦しいほど重たい君の想いは、私の大事な妹にまったく伝わっていなかったようだよ。なにがどうしたらこんなに拗れるわけ? 」
ここにいるはずもない人の登場と、不敬にも程があるほどのお兄さまの発言、どちらに驚いていいのかわからない。
「イアン、そう言われても仕方あるまい。済まなかった…… しばらくアリーナと二人にしてもらえるか? 」
すっと立ち上がったお兄さまは、わたしの頭に大きな手を乗せると、なだめるようにポンポンと叩いた。そのまま歩き出し殿下の前で立ち止まる。と、おもむろに、お兄さまは拳を握ると、殿下の肩に打ち込んだ。ガツンという音にその衝撃の大きさが知れる。
「お兄さまっ! 」
悲鳴をあげながら立ちがったわたしの声など耳にも入らないような様子で、お二人は身動き一つとらずお互いから視線を逸らさない。先に視線を外したのはお兄さまだった。わたしにやったように、殿下の肩をポンポンと叩く。
「けっこう本気でやったんだけどな。顔色一つ変えない、か…… レオ。いいか。妹にあんな顔をさせたら二度と許さない 」
「あぁ。わかっている 」
扉の向こうにお兄さまの背が消えていった。
扉が締まる音と同時に、レオニード殿下が大股でこちらに歩み寄ってきた。逃げようとした時にはすでに肩が掴まれ、覗き込むように秀麗な美貌が近づいてくる。ぎゅっと目を瞑り身を縮こませる。
「っ! アリーナ。済まない。離れるからそんなに怯えないでくれ。久しぶりに君に会えて嬉しくてつい…… 」
三日ぶりに会う殿下は、三日前とはまるでちがう雰囲気を纏っていた。
ありがとうございました。




