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婚約者は籤引きで  作者: AHIKA
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遅くなってしまいましたが、よろしくお願いします。

「アリーナ? 」


 いつのまにか緩められていた殿下の腕の中を抜け、ふらり、立ち上がったわたしは、目の前の泉の縁にそっと立った。あぁ、わたし、あの日ここでこの泉に落ちてしまったんだわ……


「危ない! 」


 右足を一歩引く。途端、溝にヒールが取られた。ぐらりと傾いた身体は…… 今回は水に落ちなかった。固い胸板に押しつけられるように抱きしめられる。


「ここは危ない。少し下がるんだ」


「レオニー様…… なのですか? 」


 吐息と一緒に漏れたような声だったのに、優秀な殿下の耳はそれを逃さなかった。


「そうだ。思い出したのか」


 思い出したというか、今知りました。あのものすごい美少女がまさか男性だったなんて。レオニー様なんてものすごいわかりやすい名前でも全く気付かなかったなんて。そしてリュドミラ様で、ミラ様……


「…… まったくわかりませんでした。申し訳ありません。わたし、ここに落ちてしまったんですね…… しかも…… 」


「君が泉に落ちてしまったのは私のせいだ。私ももちろんすぐに飛び込んだのだが…… 普段と違う格好(女装)をしていたせいか水が纏わりついて身動きできず、結局君を助けられなかった」


「えっ!? 」


 王子様がわたしのせいで泉に落ちてしまったということ? 我が家はなぜお取り潰しになっていないの? 子供の頃のこととはいえ、自分のやってしまったことに目眩がしてくる。


「何度かアカトフ家には、謝罪の手紙を送ったんだが、君のご両親は恐縮されるばかりで、君に直接謝罪をすることが叶わなかった 」


 そんなことがあったなんてまったく知らなかった。王太子殿下から直々に謝罪のお手紙が送られてきたなんて、両親にとってはものすごい大事件だったはず。


「なぜ、忘れてしまっていたのかしら…… 」


 こんなに衝撃的な出来事を忘れていたなんてあり得ない。


「…… 君は帰ったあと、高熱を出し肺炎になってしまったんだ。一週間も意識がなかった。目覚めたときには泉に落ちたことは忘れてしまっていたらしい」


 一週間も? お母さまからもお父さまからも一度も聞いたことがなかったわ。


「回復した君は、静養のため、ご両親によって伯爵領にうつされた。私は後でそれを知ったのだ。追いかけようにも許可がおりず…… 」


 なぜ殿下はそんなに苦しそうな顔をされているのかしら。形の良い眉が寄せられ、眉間にシワがよる。見ているうちに、ふ、とそのシワを伸ばして差し上げたくなった。衝動的に手をあげる。


「アリーナ? 」


 持ち上げた手が、殿下の大きな手に捕らえられた。


「あっ…… 」


 私を見つめていた殿下は、ふと目を伏せ、捕らえていたわたしの手に唇を寄せられる。柔らかで少し湿ったそれが触れたとたん、わたしの背筋がぞくりと震えた。


「アリーナ…… 」


 どうしてそんな切なげにわたしの名を呼ぶの? 肌を辿るように唇が滑っていく。触れられたところがじんじんと熱を持った。手首の内側に口付けられた瞬間、わたしの足ががくりと力を無くす。くずれ落ちる前に膝裏に腕が差し込まれ、掬い上げられるように抱き上げられた。


「アリーナ、私の首に腕をまわせ」


 疑問も拒絶も遠慮も…… 何もかもをどこかに置き忘れたように、命じられるまま、殿下の首にするりと腕を回した。逞しい胸の中に捕らえられ、心臓が激しい音を奏でる。綺麗な首筋のラインを目で追いながら、殿下の顔を見上げた。


「っ……! 」


 心臓がどくりと跳ねた。口元に緩やかな弧を描き、艶やかな美貌の主がその涼やかな目元を綻ばせていた。至近距離でそれを目にしたわたしは、もうダメだとわかった。どんなに否定しても、どんなに報われない想いだとしても、もう自分の心を止める術がないことを。決して知られてはいけない想いが自分の中にあることを。


「重いです。どうか降ろして下さい」


 触れている部分から、溢れるような想いが伝わってしまいそうで怖い。


「いや…… 君は羽のように軽い 」


「ひっ! 」


 吐息とともに何かが耳に触れた。


「そして熟れたリンゴのように色づいている…… ここも 」


 ぱくり、と耳を喰まれた。


「いやっ! 」


「私を誘っているのか? 」


 誘う? そんなことするはずもないし、できない。殿下の視線を感じるけれど、いたたまれなくて顔はあげられない。抱き上げられたまま、少しでも遠ざかろうと殿下の首筋に顔を埋めた。


「っ!…… 」


 殿下の喉元がごくりと音を立てた。


「君は…… それはわざとやっているのか? 」


 わざと? その質問の答えを求めることなく、殿下は足早に庭園を進んだ。風にのって鼻に届く花の香りに、花のような香りの女性(ひと)のことが頭をよぎった。こんなところを知られてしまったら、わたしの想いに気付かれてしまったら。あんなにも親身になってくださったあの方をわたしは裏切っているんだわ。そう思うと罪の意識で体が強張った。


「アリーナ、どうした? 」


 低音の美声が耳を擽る。自分の中に息づいていた想いに気づいてしまった今、殿下の逞しい腕も、その中で感じる温かさも、耳に入るその声も、吐息さえもが…… 何もかもがわたしを惹きつけてやまない。そんな立場ではないのに。許されるはずがないのに。それなのにずっと触れ合っていたいと心が焼けそうになる。


 今のわたしの立場は、令嬢たち(ともだち)と王太子殿下の麗しさについて語っていたつい先日までとは違ってしまっている。王太子殿下とその想い人に請われ、果たすべき役目がある。貴族に生まれたものとして果たすべき義務がある。それなのに、わたし自身の想いがそれを果たすことを邪魔するのだ。


 あたりの空気が変わった。殿下の体を通して伝わるのは、敷き詰められた上等の絨毯を歩く感触。抱き上げられたまま、庭園から表宮に入り、奥宮に向かう足取り。その間に周囲から発せられるざわめきに自分の愚かさを痛感した。リュドミラ様はどれだけ傷つかれるだろう…… それでもわたしは、殿下の腕の中から逃げ出すための努力を一つもできないでいた。


 殿下の背中越しにいくつもの扉の閉まる音が聞こえる。最後に聞こえたのは重たそうな扉の音。殿下の足取りが止まり、わたしはぎゅっと瞑っていた目を開けた。見ればそこは入ったことのない部屋だった。パールグレーの床に白い革張りのソファー。濃紺のカーテンが天井から吊り下がり、背の高い窓にドレープを作っている。青い差し色は他にも所々にちりばめられ、華やかな中に落ち着きを与え、使われている極上の素材が重厚さを感じさせた。きっと奥宮の中でも高貴な身分の人が使う部屋…… もしかすると……


「…… 王太子殿下のお部屋? 」


「…… 」


 白いソファーの上にそっと下された。


「…… アリーナ。腕を…… 」


 言われて気付く。殿下の首に腕を回していたままだったことを。離れようと慌てて飛び退いた途端、両方の二の腕がぐいっと掴まれた。見上げると殿下が、片方の膝をソファーに乗せ、わたしの上に身をかがめていた。黒い瞳が真っ直ぐにわたしを見つめている。吐息が触れそうな距離。


「殿下…… どうぞ手を離してください 」


「なぜ? 」


 薄い口元がふっと綻ぶ。


「なぜって…… 皆が見ています」


「ここは私の私室だ。皆下がらせた。誰も見ていないし、誰にも見せるつもりはない。色づいた君を目にできるのは私だけだ」


 でもここまでくる間にどれだけの人の目に触れてしまったことか……


「リュドミラ様がお聞きになったら…… とても傷つかれると…… 思います」


 このままじゃいけない。わたしがしっかりと自分を保たなくては。そう思い、恥ずかしさを堪え、殿下の瞳をしっかりと見返した。視線が合ったその瞬間、唇に触れた熱い感触。しっとりと押しつけられたそれは、瞬く間に離れていった。


「リュドミラ? 彼女が耳にしたところで、こんなことを気にするはずがないだろう? 」


「っ!…… 」


 気にするはずがない?…… とるに足らないわたしとの口付けなどお二人にとってもどうでもいいことだと仰っているの? わたしのことなどどうでもいいから、伸ばせば届くところにいたわたしに手を出されただけということ? 殿下の容赦ない言葉はわたしの胸を激しく抉った。どうしようもないほどの胸の痛みに目頭が熱くなる。呆然とするわたしの唇に再び殿下の熱いそれが重なった。


「アリーナ。君が欲しい…… 」


 その毒のような囁きが耳にはいった瞬間、わたしは無我夢中で殿下の腕を振り払った。体の奥底から震えがせり上がってくる。ガタガタと震えそうになる体を自由になった両腕で抱きしめた。


「いや…… 」


「アリーナ?! 」


「いやっ! 」


 驚いた殿下が、わたしに手を伸ばすのが見えた。反射的にその手を振り払ってしまってから、やってしまったことに愕然とする。


「んんっ!…… 」


 大きな手が頭の後ろに回り、ぐいっと引き寄せられる。もう片方の手はわたしの両手首を一纏めにし、ギリギリと締め上げた。顔を上げさせられた途端、噛み付くような口付けが降ってきた。


「く…… ふっ…… や、いやぁ…… 」


「拒絶することは許さないと言ったはずだ! 」


 涙が溢れて頬を伝う。嫌だった。人の気持ちを弄ぶ殿下が。大事な人がいるのに、どうでもいいわたしに口付けする殿下が。なんて傲慢なのだろう。なんてひどい。必死で抵抗していると、唐突に殿下が口付けをやめた。コツンとわたしの額に自身のそれをつけた殿下の荒い息が頬にかかる。涙の向こうに苦しそうな殿下の瞳が見えた。


「そこまで私が嫌か…… 」




ありがとうございました。

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