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久しぶりの投稿です。不定期更新となりますが、よろしくお願いします。
「アカトフ伯爵令嬢 アリーナ様 」
王宮侍従長のよく通る声が、またわたしの名前を呼んでいる。返事をしようにも、カンカン照りの砂漠のように干からびてしまったわたしの喉は、まったく言うことをきいてくれそうにない。よしんば出せたとしても潰れたカエルのような声しか出ないと思う。どうしたらいいの。じっとりと冷や汗が滲む。
「アカトフ伯爵令嬢 アリーナ様! 」
そんなに何度も叫ばなくても聞こえています〜 と叫びかえしたい。助けを求めて見回せば、さっきまで楽しくおしゃべりしていたはずの令嬢たちも、驚きに目を丸くしたまま固まっている。
「アリーナ・アカトフ嬢 」
突如、侍従長の声とはちがう、艶やかな低い声がわたしの名を呼んだ。その途端、サァッと分かれた人垣の先にいたのは、今夜の主役、王太子レオニード殿下だった。
わたしの姿を認めた王太子殿下は、その切れ長な瞳をすっと細めると、さらに近づいてきた。正妃様に生き写しと言われる美貌が、躊躇いもなくわたしの前で止まる。そこで初めて、王太子殿下に名を呼ばれたにも関わらず、王太子殿下が目の前にいらっしゃるにも関わらず、驚きに口を開けたまま礼も取っていない自分に気づいた。慌ててドレスをつまみ、膝を折り、目を伏せる。が、この後どうしたらいいのか皆目見当がつかないでいると、真っ白な絹の手袋に包まれた手が、すっとわたしの顔の前に差し出された。
この手がわたしに差し出されたのは、実は二回目だ。前回はというと三年前のデビュタントの時。
カーティス王国の貴族の令嬢はみな、15歳になる年に社交界にデビューする。その際、デビュタントの少女たちのファーストダンスのお相手を、その時に成人を迎えている王族の男性が務めてくださるという慣習があるのだ。それは王弟殿下であったり王子殿下であったりするのだが、三年前は、18歳になられたばかりのレオニード殿下がその役を果たされた。そのため、国中の娘たちの憧れの的である王太子殿下とのファーストダンスが、未来の王太子妃の選定では!? などという憶測が飛び交う事態となり、本人のみならず、いやむしろ本人よりも大いに熱を挙げた令嬢の親たちが、その噂に食い付き…… 煌びやかな夜会の裏で、いろいろな陰謀が渦巻いたとかなかったとか。
そんな中、アカトフ伯爵家は伯爵に序列されているとはいえ、父の官位もそう高くはなく、ありがたいことなのか、野心がカケラもない両親から、「何がなんでも王太子を射止めろ!」といった期待を押しつけられたこともない。なので、『美貌の王太子殿下と初めての夜会でファーストダンス』という乙女の夢のシチュエーションを心から楽しめたのだ。実際に完璧すぎる殿下の完璧なエスコートでダンスをしたあのひと時は、まさに雲の上で踊っているようにふわふわと夢心地だったし、終わってからは、転ばなかった足を褒めてあげたぐらいだった。遠い未来、孫に自慢しようとひそかに思っていたほどに、現実感がまったくないひと時だったのだ。
ところが、貴族たちのそんな思惑は見事に外れ、レオニード殿下は、どの令嬢にも特別な関心を示されないまま、三年経った今も、未だ妃どころかご婚約者さえいらっしゃらない。お立場としては異例の状態だが、それは現在の宮廷内の勢力関係に起因するらしい。高位貴族のどのご令嬢がその座に立たれても、なんともいえない絶妙さで保たれているバランスが崩れてしまうのを避けるため、というのがもっぱらの噂だ。それならば国内に限らず、他国の王女様の中からお選びになればいいのに、と思ってしまう。
そうは言っても、王太子殿下が、このまま独身を貫かれるはずもなく…… 年頃の娘を持つ貴族たちは、ここ数年、なんとも落ち着かない年月を過ごしてきた。高位貴族はお互いをさらりと牽制し合い、娘が見初められる可能性を諦めきれない貴族たちが、それに食い込もうとする混沌…… そんな中、国中の適齢期の令嬢宛に、王宮から夜会の招待状が届いたのは三月前のことだった。それが言わずとしれた王太子妃選びの夜会であることは明らかで、その夜会に意気込みを掛ける令嬢たちによって、王都中の仕立屋が不眠不休を強いられることになったのは無理もなかった。
招待状はもちろんわたしにも届いた。王宮で開かれる特別な夜会で恥をかかないように、とドレスも新調してもらった。が、王太子妃の座を狙うような気概も、実家の権力もないわたしにとって、王太子妃選びは、みなさん大変ね〜ぐらい、のほほんとした対岸の出来事でしかなかったのだ。そう。そのはずだった。
「アリーナ嬢? 」
耳を打つ低音の美声の中に、微かな苛立ちを感じ、わたしははっと目を瞬かせた。抗えぬ何かに引き寄せられ、おずおずと顔を上げると、レオニード殿下の黒い瞳が、わたしを射抜くように見つめていた。正解など何もわからないまま、のろのろと持ち上げたわたしの手は、殿下のそれに容易く捕らえられ、気付いた時には、流れるようなエスコートを受け、王宮の大広間から退出するところだった。閉まった扉の向こう側。爆発でもあったかのような騒ぎの音に、たたらを踏んだのも束の間。抱えられるように長い廊下を進み、通された部屋でようやくわたしは、ソファにへたり込むことを許された。
「アリーナ嬢。これから半年後の婚約式に向け、君の教育が始まる。10日ののち迎えをやるので、支度をしておくように」
わたしはきっと頭がどうにかしてしまったに違いない。王太子殿下のお言葉がまったく理解できない。誰と誰が婚約? 教育って? 迎えをやる? 何故わたしはここに? ここはどこ?
「アリーナ嬢? 聞いているのか? 」
王太子殿下の不愉快そうな表情に、自分の顔からみるみる血の気が引くのを感じた。
「殿下。ご令嬢がお気の毒すぎます。些かご説明が足りないかと 」
紅茶を入れてくれた従者が、そっと殿下に進言してくれた。それを聞き入れたのか、王太子殿下がおもむろに紅茶に手を伸ばす。目線で促され、わたしも恐る恐る口をつけた。温かな液体が干からびた喉を潤し、ほんの僅かだが、体から力が抜けるのを感じた。ほっと息をついたのと同時に、口から疑問がこぼれ出る。
「なぜ…… 」
「何故とは何がだ? 今宵の夜会の主旨は周知の事実であると思っていたが? 」
それはもちろん知っている。王太子殿下のお妃選び。でも何故、わたしがここにいて、殿下とお話ししているのか、まったくわからない。
「広間の入口で、名前のプレートを受け取ったはず。君はそれを箱に入れたのだろう? 」
そう。たしかに。大広間前に用意された大きな机に、何枚もの白いプレートが置かれており、その一つ一つに招待された令嬢の名前が流麗な文字で記されていた。招待状と引き換えにそのプレートを受け取った令嬢は、それを自ら小さな入口のついた箱に入れるように促され、わたしもそれに倣ったのだ。
「そして君の名が引かれた。それが君がここにいる理由だ 」
まさか本当にクジ引きで王太子妃を決めるわけがないと、先程まで友人達と笑っていたのだ。言わずと知れたデキレース。公爵家や侯爵家のご令嬢たちの中から選ばれるのだと。けれどその箱の中から殿下が取り出し、渡されたプレートを侍従長が読み上げたのは、わたしの名前だった。
「拒むことは許さない。君はたった今から私の婚約者だ 」
読んでくださってありがとうございました。