淡い鎖
明かる二神が臓腑を抉り、双国に掲げしが祖となった。
明光には怒涛を、暗光には静穏を。剥き出しの魂はそれぞれに燦燦煌々と恵みを降らす。
恩恵は地に命根を与え、明光は日人を、暗光は月人を捏ね上げた。明光は熱き力で地を覆い、暗光は深深と冷たき種を染み渡らせて、地中深くに根を張った。
それらは決して交わることなく、今もこうしてここにある。
今宵も蠢く暗光が、神の躯へと戻っていく。
再び抉りて掲げられる半日先のその時まで、月人の国は闇となる。乗じて柵を囲むのは、日人の国の一隊である。螺鈿象嵌甲冑の威風堂々たる美丈夫が、明光の出を背に受けて兵を引き連れて前に立つ。
地平彼方の向こうに続くぬばたまの大壁が彼らを阻む。重なり象る長い杭は、成人男の胴ほどもあった。
「功労者へは砂金袋だ」
褒賞に雑兵達は目を輝かせると、我先にと駆け出した。掘に飛び込んだ者のうち泳ぎが得意な数人が同時に柵へと手を掛けて、あっ、と叫んでひっくり返ると、そのままぶくぶく沈んでいった。その後も柵に触れようものなら、誰もが急に事切れた。
やはりただでは通れぬのかと、甲冑男は思案する。
彼の国には明光届かず、日人は決して住めぬという。こちらが無となる半日は、柵向こうにて光降る。ぬばたまの柵は暗光捕らえ、決してこの地に届かない。
月人と呼ばれる彼らの姿を目にした者は、未だいない。
「ならば俺が最初に越える」
引き車より大弓を出すと、甲冑男は狙いを定め、柵に向かって矢を放つ。一、二、三度と重ね打ち、合わせて七つの鈎針を掛ける。柵の先端に食い込んだ針に長縄七本が繋がった。それらを一つに纏めて持つと、確かめるように引っ張った。
「しっかり離さず持っておけ」
兵士達に命じると、男は重たい甲冑を脱いだ。
……朧に光る白指が、眉間でゆらゆらと揺れている。
瞬時に掴んで身を起こし、喉を押さえて睨みつければ、見開く大きな黒曜石がぱちぱちとしばたたかせながら見上げていた。
首を回して辺りを伺い、他には誰もいないのだと確認してから息をつく。洞窟のような住居の中で自分は寝かされていたらしい。己が身を見下ろせば、武器も持ち荷も見当たらぬ。
僅かに喉から力を緩め、「剣は何処だ」と低く問えば、けほりと小さく相手はむせた。
――お加減は。
鋼の棒を叩いたような、りん、と芯まで澄んだ声。思わずまじまじと見返せば、自国に住まう女達とはつくりが全く違っていた。
白磁。いいや、輝きである。簡素にまとめた髪までもがちりちりと淡く光っており、長い睫毛が瞬く度に星の林が生まれていた。
――お腹の具合はどうですか。粥ならすぐに食べられますが。
闇を模した瞳には、綺羅星が一つ潜んでいる。
暫しそれを見つめた後で、男はゆっくりと手を離した。娘は身を起こして火棚へ向かうと、鍋をくるくる掻き混ぜて椀に注いで持ってきた。
匙ですくって口に運ぶと、男は思わず顔をしかめる。とろりとした粥は冷えていて塩の一粒も入っていない。透き通るように白く、薄く、微かにぼうっと光っている。
気付けば、部屋にあるもの全てが鈍い輝きを放っていた。火棚の下をよくよくよく見れば、そこに燃えるのは火ではなく揺らめく暗光の塊である。
つまりは、ここが彼の国か。
男の口が弧を書いた。
束ねた縄を延々登り、柵に触れる寸前で身を捻らせて内へと跳んだ。
獣の膀胱を膨らませた空気袋をどっさり身につけ、落下しながら伺えば、眼下はゆらゆらと水面が蠢く幅の広い内堀だった。飛沫を上げて飛び込めば、詰まっていたのは水にはあらず瞼を焦がす眩い光。いくら手足を動かせども、ずぶりずぶりと沈むばかりで、鼻と喉に流れ込むのはもったり冷えた重たい香気。
そうして肺が光で満たされ、そのまま意識が途絶えていた。
立ち上がり、男は部屋を探索した。鍋も皿も箒も壺も織り機も、あるもの全てが粗末な造りだ――全てが、光を持つ以外は。
「ここは何処だ」
――機織り場です。
りん、と打ち鐘の音色が返る。
――父様の力を縫いとめたものが、ここに流れて留まります。そこに、あなたが沈んできました。
「お前が俺を助けたか」
――はい。
「ここには一人で住んでいるのか」
――元より、ずっと。
「俺の剣は何処だ。出せ」
娘は立ち上がると、入口へと向かった。扉を開いた瞬間に、眩い長帯がぞろりと伸びる。やがて再び扉が開くと、武器を抱えて戻ってきた。
確認すれば、長剣・短剣、全ての武器が揃っている。
「お前は俺が怖くはないのか」
瞬く星の林の奥にて、綺羅星がじっと男を見上げた。
面映ゆげに頬を掻くと、男はおもむろに手を伸ばす。髪に触れた指先をそのままするりと頬に落とし、薄桃色の唇をなぞる。顔を離したその後で、ようやく娘は驚いたように一歩後ろに身を引いた。させじと手首を掴んで引くと、抱き抱えるようにして押し倒した。
泡沫が幾多の波を築き、揺らぐ水面の花筏に月の暈が広がった。
満ち引きは淡いの奥まで忍び、深淵をも眩く照らす。
解していくに従って、蕾は少しずつ花開き、色持つ香りで満たされた。
褥にて共に陽の国へ行かぬかと誘えば、娘はゆるゆると首を振る。
――機を、織らねば。
立ち上がり、よろめきながら娘は外へと出ていった。後に続いて出てみれば、肌の泡立つ眩さは消え、穏やかな暗光に満ちていた。それでも一歩踏み出せば、もたりと身体が重くなる。息苦しさに口を覆うと、元の部屋へと連れ戻された。
娘は、残した粥椀を出し食べるようにと促した。寒気と不味さを我慢して一口残さず啜りきれば、確かに外でも変わらぬように楽に息がつけている。もたつく重みもすっかり消えて、娘を真似て手足を掻けば、面白いほどに身体が浮いた。
堀に満ちた暗光の中、娘は白魚のように泳ぎながらあちらこちらに留まって、繋がれた袋を調べていく。向きを変えずに戻したり、反対向きに返したり、新たな袋と取り替えたりと、手馴れた様子で作業する。暫く泳いで戻ってくると、自宅の前にて集めた袋をひとまとめにして重ねていった。
石を積んだ竈の中に生木を折って重ねていく。火打石にて火花を出せば、ぼうっと光がまるく宿った。使い込まれた大鍋に網の中身をあけていく。ざらざらと零れるそれらは、指先ほどの繭である。蛍のようにゆっくりと、息づく光を灯している。
水を被せてくつくつと木べらで混ぜる娘の姿に、何をしていると男は尋ねた。中の蚕を殺すのならば天日に干せばよかろうに。
――魂魄を溶かすのです。
「つまりは煮殺すというわけか」
男の言葉に首を傾げ、娘は星の林を生んだ。
半刻ほど煮混ぜてからざるに繭をあけてしまうと、娘は並べた平網に丁寧にそれらを並べていった。乱れることなく置かれた繭は、白く一律に光を放つ。
別所にて、乾いた繭を回収する。男も真似て手伝いつつも、あまりの軽さに驚いた。幾つか摘んで振ってはみたが、どれもがらんどうのようである。
娘は茣蓙にて胡坐をかくと、器用に繭を紡いでいった。平たい丸石に木軸を通し、独楽のように回しながら、くるくると絹を紡いでいく。触れれば切れそうな細糸を器用に撚っていくうちに、輝く絹が紡がれた大きな糸玉が完成した。一つを摘んで調べてみれば、どんなに強く引いたところで少しも切れる様子がない。
全ての繭を紡ぎ終わると、娘はそれらを片付けて次の仕事へと取り掛かる。
大瓶を倒して中身を零す。臭気を放つ濁り液と共に中からずるりと現れたのは、渦巻き腐った葛の茎。とんとんと木槌で叩きながら潰すようにして洗っていけば、後には輝く繊維が残る。洗い清めたその筋を棒にかけて乾燥させ、既に乾かしたそれらの端を目立たぬように結び合わせば、白葛糸の完成となった。
娘は作った二つの糸を洞窟の中にへと運び入れる。紫檀の織り機と長椅子を出し、椅子に織り機を付け終えると、腰当てを付けて端紐を織り機の手前に引っ掛けた。数十本の葛糸を縦糸にしながら張っていく。準備を終えたその後は、ぴんと背筋を伸ばして腰当てを引き、横糸用に光る絹を上・下・上・下とくぐらせながら、延々機を織り続けた。
カラカラと娘の手が動く度に、煌々と輝く長布が織り機の向こうで折り重なり、洞窟部屋の全体が布の地色に明々と眩く染まっていく。
時折、娘は色糸を混ぜた。紅花、茜、葵の花弁に貝内蔵の青紫。それらを薄く重ねた糸は、織り上がりこそは地味ながら壁に映った光を見れば、花の代わりに咲き綻んだ。
半日かけてできたのは、部屋を覆い尽くすほどにどこまでも長い布である。それらをくるくる巻いてしまえば、日人の国でも見かけるものと変わらぬ大きさの反物となった。
抱えた娘が歩き出すのを、扉の前にて男が防ぐ。反物を取り上げ、後ろ手に持ち、再び覆い被さった。
元より男盛りの美丈夫である。常人外れの体力と咄嗟の機転が効くことにより、数々の武勲を誇っている。故に、傲慢であり欲深で、野心を持つ男でもあった。
無垢な娘に時間をかけて、玉響の蜜を教え込む。
二日、三日と断られたものの、四日目には揺らぎだし、五日目には陥落した。
温もりを知らぬ月の娘は、熱を知り、愛を教わり、身を委ねる悦びを刻み込まれて、信じ込む。
――沈む頃、です。
褥にて、甘やかなひと時の中で、娘は男にそう教える。
あの柵を共に越え、陽の輝く地で生きていこう。
美しいお前に相応しい、豪奢な衣装や装飾品を与えよう。
芳しい果実を味わせ、小鳥の声を聞かせたい。
温もりつつの睦言に、いつしか夢を抱いていた。
一人で紡ぎ、一人で織る。
以外を知らず、知ろうともせず。
延々それを繰り返し、機を織るだけの幾百年。
なんとつまらぬ日々であったか。一度知ってしまったならば、もう抜け出したくてたまらない。
小鳥。愛らしい姿でぱたぱたと飛び、歌うように鳴くという。一体どのような生き物なのか。
――柵は光と魂魄を吸います。
娘は続けて教えていく。
――父の心臓が出ている間は、国より外へと漏らさぬ為に、それを吸うのが先となります。姿が見えてしまわぬように、光の入りに出て行きましょう。柵には、私の織った布を吸わせながら登りましょう。
男は娘の頬を撫で甘い褒美を与えてやった。
そうして、時はやってくる。
薄墨が被さる頃合に、七つの反物を背負う娘を男が背負い、柵前に立つ。
男は娘が解きだした最初の反物を咥えると、闇にざくりと短刀を刺す。
ざくり。ざくり。
地に置かれていた反物が、するすると長く伸びだして、闇壁と彼らの間に光る細道を作っていく。男が柵に足先をつければ、途端に布から光が消えた。
歴戦を勝ち得た男である。汗を流し全ての重みを引き上げながら、ざくり、ざくりと刃物を刺しつつ、あっという間に登っていった。一反目が途切れる前に、二反目が解かれて足場を作る。
ざくり、ざくり。
三反。四反。
ざくり、ざくり。
五反。六反。
ようやく頂上が見えだす頃には、残るは反物一反となった。
――これで最後。
女の声に目をやれば七反目に手を掛けている。
「待て! 一反は残せ! そのままだ!」
――ですが、もう。
六反目の最後の光が闇に吸われて消えていく。くそっ、と呻いた男を見つめ、
――では、私が。
娘は光る指先をぬばたまの柵へと押し付けた。
煌々と輝く長い髪から、白磁の澄んだ柔らかな肌から、星を生み出す瞳から、ずるずると光が抜けていく。
――今、の、うち。さあ、早、く。
娘の光が消えるのと同時に、二人はようやく天辺に着いた。
――まあ。あれが、日の照る
弾む声はそこまでだった。
あ、と一声残したきり、女の姿は奈落へと消えた。
奪った反物を背紐に挟むと、男は跳ぶ。陽光の国へ。
水面への衝撃を防ぐため、両腰より短剣を取り出し柵に刺す。身体が付く前に手を離すのを、右手、左手と繰り返し、最後に長剣を突き立ててから手を離して落下した。
月人の女を連れ帰れば大昇進を果たせたろうに、あともう少しというところでその殆どを失った。
残った宝は、たったの一反。
それでも、無いよりはましだろう。たとえ一反であろうとも、これにて俺は英雄だ。
疲弊した身体で堀から上がると、男は闇の訪れた柵向こうを振り返る。
歩き出し、明けの様子に目を細めつつ、ああ、久しぶりの陽光だと気分良く眺めていれば、ぢりり、と鋭い痛みが走った。
見下ろせば、肌が細かく震えている。ぼこぼこと滾る油のように、皮の象りが崩れだす。痛痒さに顔を擦れば、どろりと視界が片方消えた。
「……ひ、ぁ」
焼けつく痛みにもがき苦しみ、男は地面をのたうち回った。
思いつき、反物を解いて震えながら頭の上から被ってみる。溶け崩れた肉の痛みが、冷えた光で楽になった。
ほっとして、再び歩みだそうとしてから男は気付く。足が無い。
動転して布を振り解こうとすれば、腕も無い。
悲鳴を上げようとした頃には、既に喉すら失っていた。
――闇闇闇闇……溶
け
ていく。
やがて淡い光の筋が、するすると流れて柵へと消えた。