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The end to the end

作者: Doctor.P


そこは、ダウンタウンの西の外れに建つ、薄汚ないアパートの一室だった。腐臭が漂い、光は殆ど差し込まず、埃さえもが死の影に覆われ、およそ人間社会の光明の全てから遠ざけられたその部屋のベッドに、少年の影がこびりついていた。影の微かな震えから、かろうじて生きていることがわかった。ベッドの傍らには、干からびたカップ麺の残骸と、大量の薬瓶がぞんざいに放置されていた。


「私を呼んだのはあなた?」


虚ろな影に、天使は問う。


「君は…そうか、君がそうなんだね」


光を失った眼が天使の肢体から頭上にかけてをたどたどしくなぞる。引き攣った笑いを浮かべる少年。その笑いは、さながら悪夢の中で自分の誕生日に迎える死神を見てしまったかのように破滅的なムードを帯びていた。


「あなたは誰をヤりたいの?」


「話が早い…と言いたいとこだけど、そうじゃない」


「じゃあどうして欲しいの」


「側にいて欲しい、今日から三日間...日没から明朝まで」


側にいて欲しい、側にいて欲しい...呪文のように繰り返す声は、どんどんか細くなる。少年の側に腰掛ける天使。


「ねえ、あなたひょっとしてピューリタン(清教徒)なの?」


「いや、ピューリタンなんてもう殆どいないんじゃないかな…でもここはダウンタウンの西の外れだし、そういう前時代の残党がいたっておかしくないかもね」


「確かに、ピューリタンが暮らしてる部屋の隣が露出狂の変態とか、想像に難くない感じね」


「ねえ、本当に今日から三日間ここに来てくれる?別に話に付き合ってくれなくていいんだ。ただ部屋にいるだけでいいから…」


「いいわよ、それがあなたの願いならね。ただ…」


視線を落とし、少しの間言い淀んでいるようなフリをする天使。ただ、そんな演技が自分でも白々しいのか、ため息をつき、愛想なく口火を切る。


「わかってるよね?あと3日経ったら世界がどうなるのか」


通話が切れた後の電話のような、息苦しい沈黙。やがて俯いたままの少年が、口を開く。


「わかってる…わかってる。でも、他にどうしようもないんだ、僕には。世界があと数日で終わるのだとして、今更積年の恨みを晴らしたり、女の子と遊んだりしても、何にもならない。くだらない、何もかもが…僕が残してきたものなんて、取るに足らない。それより、誰かと一緒にいたい。世界が終わるまで…それが、僕の望み」


部屋の窓の外では、青いジェット機がカラフルな飴玉と薬物を振りまいていた。大人も子供も、嬉々としてそれらを口に頬張り、あるいは踏みつけて、何やら騒いでいた。ジェット機が金星の光る方角へ、オレンジレッドと宇宙色の境界へ消えていくのを、少年は神秘的な存在に祈りでもするかのように見つめていた。その一瞬だけ、彼の表情に生気が戻ってきたように見えたが、ジェット機のソニックブームが遠のくと、あっという間に膠着した現実へと舞い戻ってきてしまうのだった。


「わかっていると思うけど…」


先刻と同様の台詞で切り出す天使。


「あなたに時間がないのはわかるけど、それは私も同じなの。私は天使で、世界があと数日で終わろうが、死ぬまで殺し屋の使命を果たすしかない。でもね、今空中散布されてる薬物のおかげで、殺しの依頼が止んで、生まれて初めて手隙になった。あなたが世界の終わりまでこの部屋にいたいのなら、そのことを咎める理由なんて私にはないし、好きすればいい。でも、私は飛び回りたい。この羽がもげるまで...それが私の望み。だから、あなたの相手をしてあげられるのは、日没後の1時間だけ。それでもいいの?」


「構わない」


即答だった。天使は深いため息をついた。


「やっぱり変わってるね、君」


「そうかな…」


「ええ。ここがダウンタウンの西の外れという事実を差し置いてもね」


天使は窓から飛び立ち、ゲームセンターやナイトクラブがひしめくバーボンストリートの方角へ消えていった。それは少年にとって、十分予測可能なことだった。そういえば去り際に初めて笑ったな、あいつ…少年はぼやけた頭の隅で、そんなことを思うでもなく思った。都会の光や音の側の暗がりで、彼は眠りに就いた。



翌日から日没後の1時間、天使が少年の部屋に訪ねてくることになった。


「シャワー借りていい?」


「いいけど…薬瓶が転がってるから気をつけて」


天使はシャワーを流した。水道が未だ開通してるのが何とも不思議だった。バスタブに浸かりながら、天使はPCゲームに張り付く少年を見ていた。電脳空間のパルナッソス山の頂から、うさぎのような格好の少女が次々と生まれ、此の世の憎悪を圧縮したような巨大な影に飲み込まれていく。それでも、少女は山の頂から誕生し続けるので、ゲーム内の少女が絶える事はない。


「ねえ、それ楽しい?」


「うーん、どうだろう...楽しいかどうかなんて、もう考えなくなってるな。このゲームでは2つのレイヤーで転生が起こっていてね…一つの転生はこの影に突進していく女の子たちの転生で、もう一つはこのゲームの世界そのものの転生…つまりこの空間をクリアできれば別の次元にクラスチェンジできるということ。別の空間に移ったあとも、この女の子たちは転生し続ける…そうやってあっけない死に隣接しながら、何度でも生に向かっていくひたむきな感じが愛おしくて止められないんだ」


「ふーん…」


天使は、幾夜も過ぎ行く仕事の日々を思い返した。1日1日が永遠で、一つの人生のような…地獄のようだし、天国のような夜もあった。毎日死んで、毎日生まれ変わる自分の姿…果たして自分は今どこにいるのか、自分は何者なのか。もはや天使としてのアイデンティティーは、背中に生える、この煤けた翼ぐらいにしか残っていなのかもしれない。


「何か、私たちみたいね。その子たち」


「ごめん。何か言った?」


「...何でもない」


天使は浴槽に浸かる自分の両足を見つめた。何も感じなかったし、何も考えたくなかった。時間が来そうだったので浴槽を出て、タオルで体を拭き、天使の標準装備である黒いフード付きコートを頭から被った。


「それじゃあ私、行くから」


少年は何も言わなかった。天使はバーボンストリートの方角へ消えていった。


そうして2日目が過ぎ、契約の最終日である3日目、世界が終わる日がやってきた。


少年の前に、天使は現れなかった。



その日、少年はいつものように明朝からPCを起動し、ゲームに耽っていた。約束の時刻に天使が現れなくても、感情が動くことはなかった。きっとストリップバーか何処かでナンパでもされてるんだろう。夜更け迄にはここに現れるさ…そう自分に言い聞かせて、タバコを吸った。


思わぬ来客がやって来たのは、15時を少し過ぎた頃だった。セピア色の空向いから、軽やかに翼をはためかせ、そいつはやって来た。薄汚れた黒いフードに、灰色の翼。天使だ。一目であいつと別の天使だとわかったのは、世界に漂白されながらも、未だ魂の底にこびりついている重たい何かが、今目の前にいる天使からは微塵も感じられなかったからだろうか。完璧に適応したものだけが持つ、不安を煽る軽やかさ...


「ねえ!あんたにいいこと教えてあげる」


嘲笑を抑えきれない、といった様子が、その声からは感じられた。


「あの子、ハンナは今日、ここへは来ないわよ」


ハンナ…?それがあいつの名前なのか。そういえばお互いに名前を教えあうこともなかったのだ。っていうか誰だこいつは…?あいつの何なんだ?


「あの子、受け身で何事も躊躇わず受け入れそうに見えるでしょう?でも、一度こうと決めたことは絶対に曲げないの。それこそ、たとえ世界があと数日で傾くような状況でもね。あんたがそうやっていつまでも頑なもんだから、あの子に見捨てられたのよ…! 」


その天使は、おそらく少年が動揺して、涙ながらに救いを乞う様を見物したかったのだろう。しかし少年が何も言わないでいると、退屈そうに目を細め、大げさにため息をついた。


「つまんないのねえ...ま、あんたには1ミリも同情できないけど、わたしは親切だから教えてあげるのよ」


それじゃあね。去り際にそう言い残して彼女が消えたあとも、少年の視線は空の一点に張り付いたままだった。彼には自分が捨てられたという実感が湧いてこなかった。捨てられるようなことをした覚えがないからだ。セピア色の世界が映るその目は、先ほどの天使が消えた方角を、いつまでも見ていた。



38番街中央ビルの屋上で、天使は足をぶらつかせながら、ジャンクフードを貪っていた。空はヘドロを煮詰めたように濃密な灰色一色で、遠い街では、エンパイアステートビルディングと並ぶ大きさの怪物が、火花を撒き散らしていた。中東のどこかの国が秘密裏に開発していた生物兵器だと、誰かが言っていた。


速やかに与えられたプログラムを実行する生物兵器は、どこかしら勇壮めいていた。遥か上空ではミサイルが飛び交い、爆音が彼方此方で聞こえていた。世界は化学兵器の万博博覧会と化しつつあった。使うあてのない兵器の在庫一掃セールみたいなものだろう。天使は思う。何てスリリングな出し物かしら、まるでパーティーね…。こうして見ていると、世界は終わるのではなく、けたたましく、思い切り無粋なやり方で、新たな始まりを祝福するかのようだった...



少年は過去、よく一緒にいた女の子のことを思い返す。女の子の名はクロエ。小さな体を薄いピンクのダッフルコートに包んだクロエ。苦しい家計を支える母親と二人暮らしだったクロエ...


「神様はいると思う」


クロエがそう言ったのは、4年前の秋、バーボンストリートを歩いていた時だった。少年はポケットに手を突っ込んで、クロエが過去に何度も口にした台詞を黙って聞いていた。


「神様はいるの。こんな、何もかも間違いだらけな世界がずっと続くはずない。私は絶対に肯定しない。こんな世界...救いも祈りも愛も、生きていくのに絶対必要なものなのに、人がそれを担うのは酷だわ。だから神様がいるのに…どうして求めるものが溢れている世界で、与えるものだけがいないの?こんな不合理がいつまで続くのかしら。ねえ、君はどう思う?」


何度目だろうか。もう数えることも諦めたぐらい、答えの台詞も言い古したものだ。まるで演劇みたいだ、と少年は薄暗い笑いを浮かべる。


「神様がいるかどうかはわからない。でも、もしいるとしたら、首根っこ掴んで引きずり出してやるだろうな。今まで散々怠けてきた報いを受けてもらうさ」


少年は思う。どんな悪行も善行も時が経てば洗い流されてしまうこの世界の無常を。また、そんな世界の汚れに塗れながら、夜の街を飛び交う天使たちを...


「もしこの世界の終わりに、神様が私を連れ去らなかったら…」


クロエはそこで歩みを止め、少年の方を振り向く。薄青い瞳。もう、感情の何もかもが洗い流されてしまったかのような...


「君が私のことを迎えに来てね。ねえ、約束してくれる?」


少年は硬直する。まるで1年後と宣告されていた死亡予定日が何かの間違いで今日になってしまったかのような、唐突で核心めいたクロエの問いに、動揺することしかできなかった。


「僕が、君を…?な、何で僕が…?」


慌てふためく少年を見て、見透かしたように笑うクロエ。その笑いは赦しであるかのように、少年の眼には映る。


「まあ、無理だよね。君には...わたし、知ってるよ?君が、わたしのこと何とも思っていないってこと。ううん、わたしだけじゃない。他の誰のことも…わたしにはわかる。あなたの中にはどんな神様もいない。概念にしても、偶像にしても…全てが、ガラスで出来た綿のように、数え切れないぐらいあなたを傷つけながら、通り過ぎるだけなの...だから、わたしの最後の日にも、きっと心のどこかで言い訳しながら、自分を騙しながら、コーヒーを飲んでため息をつくでしょうね…そんな光景が目に浮かぶ」


それから、少年は彼女に反論してみせたのか、いや、ただ口をつぐんでいるしかなかったのか…事実は曖昧な、セピア色の記憶の中で遠くなり、朽ち果てた闇の中で、誰にも語られることなく彷徨い続ける。



ここは、ダウンタウン西外れにあるアパートの一室。先ほどのおしゃべり屋の天使が去った後で、懺悔室の老人のように、椅子に腰掛けてうなだれる少年が独り...


クロエ、あの時君があんなことを言ったのは、全部こうなることを見透かしてのことだったのか…?こうして、誰の後ろ姿を追うこともなく、自分を騙し続けて惨めに生き永らえた後は、独り自室で…


それは、僕が望んだことじゃない。そんな結末、僕は認めない。クロエ、君は正しかったんだね...神様はいるって、君は言ったよね?なら、今僕に囁くこの声が神だ。何もかもが間違いだらけの人生に、僕は今ケリをつける。なあクロエ、どうやら人生は死ぬまでバカ騒ぎみたいだよ...


まるで夜逃げでもするように、勢いよく部屋を飛び出す少年。身支度はしなかった。部屋の中で、いつもコートを羽織って靴を履いていたからだ。


少年の足は得体の知れない磁力に誘導されるが如く、バーボンストリートを目指した。自分の体が彼女の行き先を知っている気がした。だから、崩壊しかけた廃ビルの屋上に佇む天使を視認した時、驚きは感じなかった。間に合った、とだけ思った。もう何もかも終わるのに、まだ「安堵する」なんて感情の余地があったのだと知った。


少年がビルの屋上に到達し、昇降口の前に立った時もまだ天使はそこにいた。つまり、そういうことなのだろう。彼女はここを自らの墓に定めたのだ。長い運動不足から弱った体で、高層ビルの非常階段を一気に駆け上がった為に、全身汗だくで息を切らし、立ち眩みでまともに前を向くことも出来ない哀れな少年を、天使は退屈そうに、今やはっきりと軽蔑の現れた視線を投げた。


「それで?」


それで…?ああ、こいつの言いたいことは分かる。つまりこういう事だ。


 それで、あんたは、今頃ここへ、何をしに来たの?


僕は...一体どうしてここへ来たのだろう?きっと、自分の醜ささえ一人で抱えきれない僕は、孤独を共にする誰かと世界の終わりの数日を静かに過ごしたかっただけなのに、それすら叶わないから、こうして最後の最後までみっともなく醜態を晒しているのだ...だとしたら、このまま終わるなんてあんまりじゃないか?もっと早くに君と出会っていたなら、僕は、僕は…


「ねえ、あなたって本当につまらないのね。」


「え…」


「自覚、ある?」


「自覚…そうだね。あると思うよ。僕はつまらない人間だよね。何も持ってないし、ダンスも踊れないし、けんかも弱いし、僕が話してるとみんな腹立てるみたいだしさ。だから…」


そういう話じゃないんだけど、と天使。それから少年の方を振り向き、口を開く。


「消えてくんない?目障りだから」


少年はバーボンストリートを歩いている。彼が後にした38番街中央ビルの屋上に、既に天使の姿はない。事態はもはや収束のつきようもなく、水素爆弾が四方八方から襲い掛かってくる。上空は化学薬品の悪趣味な反応色に染まり、有毒ガスの臭気が立ち込めてくる。水素爆弾の一つが少年の後頭部に命中する。頭蓋は吹き飛び、脳漿はピーナッツクリームのように溶け、四方に飛び散る。誰もそれを見咎めることはない。パーティーのような狂騒の中、崩壊する街のガラクタに紛れて、もともと少年の形をしていた肉片は灰塵に帰すだろう。破壊と混沌の中、調子っ外れな救急車のサイレン音が皮肉に鳴り渡る...


カメラが徐々にズームアウトし、街の全景を映し出す...と言っても画面は白い煙と電光に覆い尽くされて何が何だかわからない。6畳半の居間で、僕はコーラを飲みながらそれを見ている。ショートフィルムが終わり、画面がCMに切り替わる。人工知能のナレーションが流れる(結月ゆかりの声だ)。


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耳障りなのでテレビの電源を切る。電源を切るのと同時に、恋人が部屋に入ってくる。タバコを買いに行っていたらしい。キャスターを手にしている。僕の恋人は身なりというものを全く気にしない。灰色のジーンズに、紫色の着古したキャミソール。肌は荒れ、目は淀み、脱色した髪はボロボロで、人工の芝生を思わせる。


「何見てたの?」


恋人は目を合わせず、タバコに着火しながら早口で尋ねる。


「昔のSF特番みたいなやつ。アメリカのどこかの街で、世界があと数日で終わるって時に、僕ぐらいのガキが天使に振られて、そのあとすぐに死ぬ。ゴミみたいにね...端折って言えばそんな話かな」


「ふーん…」


薄い煙の膜が狭い六畳間を覆い始める。さきほど画面で見た爆煙がフラッシュバックする。


「ちょっと、どうしたの?」


「え?いや、わからない...どうしてだろう」


熱のない涙が頬を伝って落ちていた。最近ずっとこの調子だ。世の中のことや、自分のこれからのこと...そんな現実的な物事がどうでもよくなるのと同時に、妙に脆くなってしまった。


「なんだってのよ…」


恋人は煙を吐きながら、虚空を見つめる。死んだ深海魚のような、色褪せて濁った目。やがてうわごとみたいに、しかしはっきりと聞き取れる声で言う。


「つまらないわね」




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