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9 ツルツル ―夢と現実の狭間

 隔離村にやって来て、三度目の朝日が昇っていた。

窓から部屋に差し込む、暖かな日の光に、彼女の肌が真っ白に輝く。

「お兄ちゃん」

 そう呼びかける。

だが、反応は、ない。

 部屋の扉が開き、ステンカとドミトリーが顔を出していた。

「オルガちゃん、ハゲは、まだ目覚めないのですか?」

「はい……」

 その言葉に、彼女は力なく答えた。

「女の子に、こんなに心配させるなんて、ハゲも罪な男だな」

 寝台で眠る、ハールィチに、ステンカはそう話しかけた。

「お兄ちゃん」

 彼の手を握り、オルガは優しく声をかけた。

「私、待ってるから、ずっと待ってるから。だから……」

 彼女の目が、潤んでいた。


 暗闇の中を、ハールィチは歩いていた。

――オルガは、助かったのだろうか。

 そんなことを、ぼんやりと考えながら、彼はただ、ひたすらに歩き続ける。

 歩くといっても、足の裏には固い地面の感覚がない。

ふわふわと、真綿を踏むような感覚だけが、彼の足に伝わっていた。

――あの男の転移魔法で、オルガの傷は私に移した。

 彼の胸元に、チクリと痛みが差した。

――助かってくれ、オルガ。

 その思いは、暗闇の中に、消えていった。

『……誰か』

 遠くから、人の声がする。

どこか懐かしく、そして聞き覚えのある、その声は、彼をひどく切ない思いにさせていた。

『……誰か、助けて』

 声のする方へと、彼の足が向く。

いつの間にか、彼は走り出していた。


 粗末な木造の家。

彼の意識は、そこにあった。

 そこといっても、現実に彼が存在しているわけではない。

過去にあったことを、彼は思い出し、見ているに過ぎなかった。

 寝台の上で、荒い息の子供が、一人横たわっている。

いびつな膨らみを、その小さな身体に宿らせて、子供は今にも死にそうな顔をしていた。

――あれは、私だ。

 死の淵にある子供を見て、彼は気づいていた。

「ハールィチ、しっかりしておくれ」

 寝台の傍らで、女が泣いている。

仕事に追われ、あかぎれだらけになった、その手で、彼女は子供の手を握る。

「お前を死なせたら、私はクニャージ様に顔向けができないよ」

――母さん。

 黒髪に、白髪が少し混じる彼女を、彼はそう呼んだ。

「ハールィチ、お前は、公様の息子なんだ。こんな病気で死んではいけないんだよ」

 その言葉に、彼の心臓が、ひどく痛む。

――そうだ、母さんは、いつも言っていた、私は、公の息子なのだと。

 彼の脳裏に、母の話した記憶が、蘇ってくる。

 その昔、母は、公の住まう城に、小間使いとして勤めていた。

まだまだ国として、小さかったその頃、公の城は、近くの村々の者が奉公しに来ていた。

 そんなある日、母が城の掃除をしていた時に、彼女は、何者かにその身を捕らわれていた。

 抵抗するも、人気のない部屋に連れ込まれ、母はその花を無惨に散らされた。

殴られ、蹴られ、抗いの気を無くした母が見たものは、身体の上で蠢く、この国を率いる、若き公の姿だった。

 それから程なくして、母は身籠もった。

これが公の妃に知られた途端に、妃は烈火の如く怒りだし、母を雪の舞う雪原へと追い払った。

その時の妃には、子がなかったからである。

 凍える身体で、村に戻った母は、しばらくして男の子を産み落とした。

 それが、彼であった。

これを知った公は、極秘に使節を送り、その子に公として、父として、名を賜った。

『ハールィチ』と。

 やむを得ず、捨て子イズゴイとしてしまったが、お前は息子なのだと認める名だった。

 名を与えられた子供は、すくすくと成長した。

 野山を駆け回り、川に泳ぎ、そして勉学にも熱心に励む姿は、子供ながら、聡明な才能を周囲に見せつつあった。

 だが、そんな彼が、病に倒れた。

医者は、風土病だと言い、母に諦めるように説得した。

 彼の身体を蝕む腹のそれは、日に日に大きくなり、ついには、その腹の半分以上を占めるようになっていた。

 母は方々を訪ね歩き、息子を助けてくれと哀願した。

だが、息子を助けようという人は居なかった。

 町々の医者や、教会、役人に、まじない師、魔法使いと呼ばれる人など、その誰も救いの手は差し伸べなかった。

 そんな時、ある人が、こう言った。

「呪われし禿山に、魔法使いの老人がいる、その人であれば助けられるかも」と。

 母はその言葉に、すがるような気持ちで望みを掛けた。

 そこは、人の立ち入りを拒む、呪われた場所だった。

迂闊に入り込むと、呪いで血を吐き死ぬ、という曰く付きの場所だ。

 そんなところに、人がいるのかすら分からない。ただ、伝承だけが残されていた。

「ハールィチ、母さんと、一緒に行こう」

 弱い息を吐く彼を、母はしっかりと抱きしめた。

「神様が、お前を守ってくれる」

 寝台から、その身を抱き上げ、母は表へと出て行った。


 岩だらけの山肌を、母は子を抱えて歩き続ける。

息子の息は、弱々しく、鼓動は今にも止まりそうなほどに、微かにしか感じられない。

「ハールィチ」

 母の声だった。

「お前を死なせはしない、母さんの、公様の、大事な息子だ」

 その場所に、辿り着いた。

周囲の石が、熱を持った冷たさで、母子の身体を鋭く突き刺す。

 山腹に設けられた、質素な祭壇が、ここをどういう場所なのか、物語っていた。

「どうか、どうか、願いを聞いてください」

 息子を抱き、母は膝をついた。

「偉大なる、魔法使い様、この子をお助けください」

 腕の中の子供は動かない、呼吸は、既に止まっていた。

「私は、どうなっても、構わない。だから、この子を、ハールィチを、助けてください!」

 母は、泣いていた。

殺風景な山に、母の声だけが、響いていた。


『お前は、どうしたい?』

 その声に、彼は振り向くと、暗闇の中に、幼い自分と、老人の姿があった。

杖を持った白髪頭の髭の老人は、幼い彼に、聞かせるように、ゆっくりと語った。

『このまま、死ぬか。それとも、生き返るか』

 幼い彼は、母の声を聞き、悩んでいた。

『母さん、泣いている』

 そう言って、彼は悲しそうな顔をした。

『ああ、そうだ、お前が死んでしまうからな』

 老人の言葉に、彼は小さな頭を傾げていた。

『死ぬって、何?』

 あどけない質問に、老人は少し困った顔をしていた。

『何も無かったことになる。痛さも苦しみも、何も無くなる、楽しいことも、だ』

 彼は少し考え、ぽつりとつぶやいた。

『母さんは、どうなるの?』

 遠くで、母の泣く声がする。

『お前が死んだことで、嘆き、悲しむだろう』

 その指摘に、母の声を聞いていた彼は、老人に向き直った。

『母さんを、悲しませたくない。ぼくは生きる』

 決断した男の目だった。

老人は、それを見て、にやりと笑った。

『ならば、約束がある』

『やくそく?』

『お前の身体は、半分以上が病のものに置き換わっている』

 老人は、指をくるくると動かし、回りの石を、魔法で削り出した。

音も無く、石が次々に削られ、それは組み合わさって、首飾りとなる。

『それを取り除いては、逆にお前の身体は動かなくなってしまうだろう』

 地面から、金属の糸が幾筋も顔を出し、それは撚り合わさって、一つの太い束となる。

 その束を纏めるように、さらに金属の糸がみっちりと巻かれる。

そうして、それは輪になるように曲げられ、腕輪となった。

『この状態で、身体を維持させよう。良くならず、悪くもならない、ちょうどの状態だ』

 老人の指が、彼を指し、首飾りと腕輪がその小さな身に、着けられた。

『そして、制御のために、この力も授けよう』

 彼の身体が、熱を持った冷たさを帯び、不思議な暖かさが、身体を巡り出す。

『だが』

 突如、空気が重くなる。

『ワシに、何かして貰ったことは、誰にも言ってはならない。たとえ母親に聞かれてもだ』

 鋭い目つきと共に、老人は、手に持った杖を彼に差し出した。

『持って行け、これは……の……だ』

 ノイズが入ったかのような、不愉快な音が、幼い彼の耳に聞こえる。

彼は、老人の杖を掴み、そして大きな声で、礼を言う。

『ありがとう、おじいさん』

『さあ、……が、よい……』

 カリカリと、ノイズの音が老人の声を掻き消していた。


 泡と消えた、幼い自分を見て、ハールィチは何か思い出したようだった。

「思い出した。この杖は、あの老人の……」

 その手に握られた、彼の杖は、禿山の老人の杖でもあった。

彼は膝をつき、己の手を、まじまじと見つめる。

「呪われし禿山。私の力は、あの山の力だったのか」

 彼の首飾りが、カリカリと音を立てた。

周囲の空気よりも明かに暖かく、冷たいそれは、彼の身体を維持しようと、力を発していた。

「チェルノボグ、あなたは、何故、この力を……」

 そう言い、彼は顔を上げた。

 白髪の老人が、目の前に立っていた。

「私の力は、怪物を倒し、風土病をも治す力だ」

 ゆっくりと、彼は立ち上がる。

「だが、この力は、家族や仲間、そして大事な人も、傷つけ殺してしまう」

 彼の脳裏に、母の、仲間の、彼女の笑顔が浮かんでは消える。

信頼できる友も、生死を共にした仲間も、全て淡雪のように、溶けて消えていった。

「こんな力なら、私は生き返りたくなかった。あのまま死ねばよかった!」

 激昂した彼の目から、涙が一筋、こぼれ落ちた。

 生き返った彼は、その身に魔法の禿山の力を有していた。

それは、人を傷つけ、人を癒やす、万能の力でもあった。

 幼くして、その力を持った彼は、師事できる人を探し、町を村を訪ねて歩いた。

ある人は、人が持つには早すぎると言い、またある人は、可能性の力だと、彼に魔法使いとしての振るまいを伝授した。

 だが、師事した人たちは、皆、その恐ろしい力に気づき、恐怖し、次第に彼から遠ざかるようになっていった。

 そうして、母の元に戻った時から、それは始まった。

たった一人の身内である、母の髪が、徐々に抜け出したのだ。

 母は、目立たないように、頬被りをして家事に勤しんだ。

それでも、母を蝕むそれは、ついに彼女を、死の世界へと連れて行ってしまった。

 病気なのかと、村の人々は言い、彼もそれを疑うことなく信じていた。

 長い年月が過ぎ、仲間が次々に死ぬ状況が来るまでは。

 母の死は、己の力の影響だった。

 そのことは、大いに彼を悩ませた。

一時は、使命を放り出し、孤独に死のうかと考えたこともあったほどだった。

 だが、風土病を治した人々の、喜びの顔が、彼を引き留めた。

彼がいなければ、死んでいた命だった。それを助けたのだから。

 それでも彼は、心にわだかまりを残しながら、使命を果たし続けたのだ。

「もう、この力は、いらない……」

 頭を抱え、涙する彼に、老人は、彼の背後を指さした。

「え……」

 暗闇の中に、突如、明るい空間が映し出され、そこには。

「オルガ……」

 窓のように切り取られた、空間がある。

その向こうで、彼女が花を花瓶に活けていた。


 寝台に眠る、彼を、オルガは毎日世話していた。

いつ、彼が目覚めてもいいように、新鮮な花を枕元に飾り、床ずれしないように、頻繁に身体を動かしてやる。

 汗をかいた身体を、お湯で濡らした布で拭き、彼女は甲斐甲斐しく彼の面倒を見た。

「お兄ちゃん」

 可憐な唇が、彼を呼ぶ。

「大好きだよ、お兄ちゃん」

 ハールィチの手を、彼女は握った。

「だから、早く起きてね」

 その手を、彼女は、柔らかな自分の頬へと持ってくる。

すべすべの肌を、彼の手で撫でた。

「私、待ちくたびれちゃったよ……」

 彼女のまぶたが閉じ、大粒の涙が、一つ、落ちた。


「オルガ!」

 暗闇から、その空間へ、彼は叫んだ。

何度も、何度も、彼女の名を呼び、叫ぶ。

――戻りたい、だが戻ったら、この力が、再び彼女を傷つける。

 彼は悩んだ。

 大事な彼女を、傷つけたくない、と。

――どうしたら、いい。

――どうしたら、彼女を助けられる。

 この力で、彼は昔、彼女を救った。

だが、今となっては、それは彼女を死に追いやるもの。

 力を失えば、彼はたちまち風土病に蝕まれて死ぬ。

 悩む彼に、老人は口を開いた。

『その力を、内側に向くようにしてやろう』

 不気味な声が、していた。

『今のお前は、外に向く力だ。倒す力も、治す力も』

 老人の目が、青白く輝く。

『だが、お前は約束を破った。それは償ってもらう』

「あ……」

 彼女を助ける際、あの男と交わした取引を、彼は思い出した。

幼いころの、老人との約束を、彼は反故にした。

 やむを得ないとはいえ、老人の存在と、名前を口にしてしまった。

「わ、私……は……」

 凍えるような、熱い、青白い光に包まれ、彼の意識は遠のいた。


 彼が眠りについてから、十日が過ぎようとしていた。

相変わらず、彼、ハールィチは目覚めることはなかった。

「お兄ちゃん、起きて」

 オルガはそう言って、彼の手を優しく握る。

そんな二人を、ステンカとドミトリーは、居たたまれない気持ちで見守るしか出来なかった。

「せっかく、お兄ちゃんに会えたのに、ずっと寝たままなんて……」

 彼女の指が、彼の頬をつつく。

それを見たドミトリーは、何かを思いついたようだった。

「オルガちゃん、彼にキスしてみたらどうですか」

 その言葉に、彼女の頬が瞬時に紅く染まり、耳まで真っ赤になる。

「え、で、でも」

「呪われた男は、お姫様のキスで目覚めるかも知れませんよ」

 無垢な少女の口づけは、全ての呪いを打ち消す効果がある。

子供でも知っている、昔話だ。

「ドミトリー、あんまりいじめるなよ。オルガちゃん、恥ずかしがって……」

「こうでもしないと、既成事実は作れませんでしょうが」

 二人を後押しするためだと、ドミトリーは、ひそひそとそう話した。

「お、お兄ちゃん」

 オルガの目が、ハールィチの無防備な口元を凝視する。

自分より、年上の、それも二倍以上も年の離れた男を、彼女は慕い、恋心を抱いてきた。

 幼かったあの日、何も知らなかった自分は、彼に出会い、風土病を治して貰い、その膝に乗って、彼に思う存分甘えていた。

 あの頃の様に、その腕で、再び抱いて欲しい。

 そう思い、彼の口を、オルガはそっと自身の唇で覆った。

「わっ、やった!」

「よし、これで……」

 二人が喜び合い、小さく拳を合わせたとき、ハールィチの手が、かすかに動いた。

 長い口づけの後、彼女は恥ずかしそうに、顔を離し、彼の顔をまじまじと見つめる。

彼のまぶたが動き、ゆっくりとその目が開きだした。

「お、兄、ちゃん?」

 彼女の声に、ハールィチはその顔を見る。

「オルガ……?」

 目と目が合う。

 そして、彼女は抱きすくめられ、熱い彼の吐息を、白い首筋に受けていた。

「好きだ……、オルガ……!」

 そう叫び、彼は彼女の唇に己の口を押しつけた。

「ヒュー!ハゲ、やるじゃねぇか!」

 ステンカの喜びの声に、ハールィチとオルガは、心臓が飛び出そうな程に驚いていた。

「なっ、なんだ、お前ら」

「や、やだっ」

 それを見られた二人は、顔を離し、真っ赤な顔をする。

「なんで、お前らまでいるんだっ」

 思わず、ハールィチは起き上がった。

それに、ステンカとドミトリーは固まっていた。

「う、そ、その……」

「ステンカ、見たらいけません」

 彼の肩を掴み、ドミトリーは後ろを向いた。

「お兄ちゃ……」

「オルガ、気にしないでいい」

 動揺する彼女を寝台に残し、ハールィチは部屋を出ようとして、二人を睨み付ける。

向こうをむいて、細かく肩を震わせる二人に、彼は苛立ちを覚えつつ、外に出て行った。


 家の外。

村の井戸で、ハールィチは目覚めのために顔を洗っていた。

 じゃぶじゃぶと水を使い、さっぱりとしたところで、彼は何かがおかしいことに気づく。

 水の張った桶と、その水面に映る、己の姿が、何やら変だった。

「んん?」

 頭を触る。

 いつもの感触が、ない。

「うわああああ!」

 絶叫が、村じゅうに、こだましていた。

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