4 スカスカ ―死と恐怖と女
その日は、とてもいい天気だった。
数日前から続いていた、リュドミラの治療も、今日のものでようやく一段落と相成り、ハールィチは、明日から再び始まる怪物退治の英気を養おうと、一人で酒場に足を運んでいた。
酒場は、今日も人々でごった返している。
そのほとんどは、ハールィチのような、自由人の男か、交易を担う商人の姿ばかりで、リュドミラのような、若く美しい年頃の女など、まずお目にかかれないものであった。
「おや、お疲れですね」
「レフか」
そんな、むさ苦しい酒場で、一人酒に興じていた彼の元へ、レフが声をかけていた。
「どうですか、彼女」
「ああ、今日の治療で、もう大丈夫だ」
「よかったじゃないですか」
レフは、にこにこと笑っている。だが、その頭はかなり薄くなっていた。
彼は、ハールィチの隣に腰を下ろし、笑顔を崩さないまま、顔を覗き込んでいた。
「で、どこまで進みましたか?」
「進む?」
訝しげに、ハールィチは問い返した。
「彼女との仲ですよ、キスぐらいはしたのでしょう?」
「するわけないだろう、彼女は仲間だぞ」
レフのからかいに、彼は全力で否定をする。
「どうして応えてあげないのですか、ハゲも男でしょうに」
「あのなあ、その前に、私には使命があるんだ。女といちゃついている暇はないんだ」
「ほほう、女より使命ですか。立派なんですねえ」
ため息をつき、ハールィチは長い髪を掻き上げていた。
「そうだ、使命だ。私は公から受け……」
そこまで言って、彼は、しまったという顔をした。
言ってはいけない言葉を口にした。そういう焦りの表情が、見て取れた。
「公?民会ではなく、公ですか?」
レフの顔が、一瞬で真顔に戻る。
自由人に過ぎない男に、公から直接の使命が下るなど、全くもって有り得ない話だったからだ。
この国は、民会よりも公の力が強い。
だとしても、普通は民会経由で話はやって来る。
一体、どういうことなのか。レフは不可解に感じていた。
「違う、今のは聞かなかったことにしてくれ」
ハールィチは、勘定をテーブルに置き、慌ててその場を後にした。
残されたレフは、頭を掻きながら、彼が出て行くのを見ていることしかできなかった。
町の通りを、ハールィチは足早に歩いていた。
――失言だった、私としたことが。
酒を飲んでいたとはいえ、うっかりレフの前で零してしまった言葉を、彼は後悔していた。
使命の件は、内密中の内密であった。
もしこれが、おおやけになってしまったとなれば、彼の命どころか、彼の育った村も、この世界から消えかねない。
レフは、元従士団だと言っていた。
口が固そうだとは思うのだが、ドルジーナであったというのが、一抹の不安を残してもいた。
木材で舗装された通りに、ハールィチの足音だけが、コツコツと響く。
この路地の辻を曲がり、もうすぐ泊まっている宿が見えようかというところで、彼は思いがけず、声をかけられていた。
「ハゲ、どうしたの?」
声の主は、リュドミラであった。
「レフが、あなたを迎えに行ったのよ。会わなかった?」
だが、今の彼には、それに答える気は、さらさら無かった。
ハールィチは、彼女を無視するかのように、黙ってその横を通り過ぎる。
「あ、待っ……」
そう言いかけた、彼女だったが、彼の気迫に押されたのか、その手を止めてしまう。
「何かあったのかしら」
彼に治してもらった胸に手を当て、リュドミラは心配そうに彼の背中を見ていた。
その日の夜。
「まだ、戻ってきていないのですか」
宿にて、レフは、リュドミラに声をかける。
「そうよ、昼間に見かけて、それっきり」
はあ、と彼女はため息をついた。
部屋には、彼女とレフだけだ。
そして、ハールィチの荷物は、置きっ放しである。
「でも、ハゲのものはここにあるし、戻らない訳ではないと思うのよ」
「いや、それはどうでしょう」
レフが、何か気づいているようだった。
「彼、必要なものは常に身につけています、ここにあるのは、置いて行ってもいいものばかりですよ」
「まさか、一人で行ったとでも?」
「いや、それはない。ない、はずです……、でも……」
彼の何か口ごもる態度に、リュドミラは苛立ちを隠せずにいた。
「何よ、知ってるなら言いなさいよ」
「知りません、知ってても言いません」
「レフ、あんたまさか、ハゲを怒らせたんじゃないでしょうね!」
彼女は、レフに食ってかかり、その襟首を掴んで文句を言い出す。
ぎゃあぎゃあとお互いにしつこく喚く二人のところへ、突如扉が開かれた。
音も無く開く扉の向こうで、ハールィチが無表情で立っていた。
「お、おかえり」
引きつった笑顔で、リュドミラが、声をかけた。
「……まだ、起きていたのか」
力なく、ハールィチは喋った。
「どこに行ってたのよ、帰ってくるの遅かったじゃない」
「もう寝ろ、明日も早いぞ」
それだけ言うと、彼は脇目も振らず、寝台へと潜り込んだ。
「二人で心配していたのよ、言うことはそれだけ?」
「うるさい、静かにしろ」
掛布を頭から被り、彼は二人に構わず寝息を立て始めた。
「リュドミラ、ハゲの言うとおりです。寝ましょう」
腑に落ちない顔の彼女をなだめ、レフも静かに寝台へと入り込んだ。
室内を照らしていた明かりも消され、部屋は真っ暗になった。
暗い中で、三人の寝息だけが、小さく聞こえていた。
それから何日か後。
すっかり元気を取り戻したリュドミラは、今日も街道の怪物退治に精を出していた。
「ほらほら、次、行くわよ」
明るい顔で、弓をつがえる彼女に、男二人はやれやれといった表情だ。
「元気になりましたね、彼女」
「ああ、風土病も治ったしな。だが……」
ハールィチは、傍らのレフを見やった。
すぐ横にいる彼の姿は、以前に比べて、かなり様変わりしていた。
頭には、目深に被った帽子をつけ、そして、顔には、大きな火傷が見える。
「君は、どうなんだ、レフ」
心配気に横目でちらりと見て、ハールィチはすぐに顔を伏せた。
「ちょっと、まずいですね。早々に次の仲間を探さないと、いけませんよ」
鎧の下の皮膚が痒いのか、レフはしきりにその隙間から指を突っ込んでいる。
ぼりぼりと掻いた、その指先に、血が付着していた。
――時間が、ない。か。
彼の身体の症状の進みぶりに、ハールィチは複雑な気持ちを抱いていた。
公国の旧首都。
怪物退治に暫しの別れを告げ、一行は報酬のためにと、再びここへやって来ていた。
「先に私は、手続きを進めてくる。君たちは……」
そう言って、ハールィチが振り向いた時だった。
「レフ、どうしたの?」
リュドミラの目前で、突如、レフが膝をついていた。
「き、気にしないで、くだ……」
荒く息を吐き、絞り出すような弱い声で、返答するも、彼はそのまま地面に倒れ込んだ。
「きゃーっ!」
「レフ、しっかりしろ!」
だが、レフは返事をしない。
二人は、彼を引きずるように、宿へと向かっていた。
宿の一室。
寝台の上に、レフは横たわっていた。
「リュドミラ、あっちに行っててくれないか」
ハールィチが、レフの鎧を外そうとしながら、そう忠告する。
「いいわよ、私も手伝うから」
「手伝いはいい、君には無理だ」
「何よう」
彼女を後ろに下がらせて、彼は手早く鎧を取り外した。
レフの細身の身体を覆うのは、銀色の胴当てだ。それをゆっくりと持ち上げる。
それが離れた直後に、鎧と身体の隙間から、赤いものがどろりと流れ出た。
「うっ、こ、これは……」
「いやっ、なにこれっ」
鎧の下の、彼の身体は、皮膚が溶け出し、衣服に赤い染みとしてへばりついていた。
その衣服も、血と体液を吸収しきれず、ブヨブヨの塊が所々にくっついている。
「レフ、どうして黙っていた。これではもう……」
――もうすぐ、死ぬ。
その言葉を、ハールィチは、すんでの所で飲み込んだ。
「なにこれ、なんなの、レフは、どうなるの」
レフの姿に、パニックを起こしたリュドミラが、泣きながら頭を掻きむしる。
金色の、整えられた髪型が、あっという間にぐしゃぐしゃになっていた。
「レフ、起きろ、おい!」
彼の頬の肉は、赤く、ずる剥けている。
それに気遣って、ハールィチは、彼の顔をつつき、声をかけた。
レフの口の端から、血が一筋、垂れ落ちる。
リュドミラの泣き声と、ハールィチの呼びかけに、彼はゆっくりと目を開いた。
「……ここは?」
「宿だ、気をしっかり持て」
虚ろな目で周りを見渡し、レフは大きく深呼吸をした。
一呼吸、二呼吸と、ゆっくり大きく息を吸い、今自分が置かれた状況を、冷静に理解していた。
「……ハゲ、リュドミラ、今まで、……ありがとう、ございます……」
「何を言っている、レフ」
「ふふ……、もうだめなのは、自分が、よく、……分かっています、よ……」
息は酷く荒く、そして短い。その合間にも、血が、ゴブゴブと口や鼻から吹き出てくる。
「楽しかった、ですよ……。あなたたちに、会えて、本当に、楽しかった、です……」
「いやよ、レフ、死んじゃいやぁ……」
リュドミラの目から、大粒の涙が溢れ、レフの手に次々と落ちる。
ハールィチも、いつの間にか、涙を流していた。
「お似合い、ですよ……、二人とも……。し……、あ……わ、せ、に……」
最後の力を振り絞り、レフは笑顔でそう言った後に、口から夥しい量の血を吐きだした。
「レフ!」
ハールィチが、レフの身体を揺するも、反応は無い。
反応があるとすれば、際限なく吐き出される、彼の血だけだ。それも部屋に充満して、吐き気を催すほどの臭いと量だった。
レフは、二人に幸せになれと、そう言い残して、死んでいった。
「いやああああ!」
リュドミラの、悲鳴が、彼を嘆く声が、部屋を埋め尽くしていた。
もう動かないレフの身体を、ハールィチは、見つめたままに、涙を流している。
――四人目だ。
これで、彼は確信していた。
己が原因で、仲間は死んでいるということに。
ただ、何が原因なのかまでは、彼は理解できていなかった。
自分に近づいていると、症状が出る。逆に離れていると、症状は引っ込む。
服が軽装であれば、症状の進みは早くなり、鎧を着ていれば、症状はゆっくり進む。
今まで仲間だった者たちの様子から、彼は、そう推測していた。
「なんで、なんで、レフは死んだのよ、どうして!」
ぶんぶんと頭を振り乱し、リュドミラは大声で泣き喚く。
「ねえ、答えて!ハゲ!」
肩で大きく息をし、彼女は叫んだ。
「……私の、せいだ」
「ハゲ、の、せい?」
「リュドミラ、君も……」
顔を上げて、ハールィチは驚いていた。
「髪……」
「え……?」
先ほどまで、掻きむしっていた、両手を見て、リュドミラは絶句した。
美しい金色の髪が、指の間に、ごっそりと絡まっていたからだ。
「あ、あ……」
もはや悲鳴を上げることもできず、彼女の身体は、床に倒れ込んでいた。
日が落ち、宿の周りに夜の闇が訪れたころ。
リュドミラは、一人、部屋の天井を見つめていた。
首を横に向けると、敷布のない寝台が一つある。
それは、レフが息を引き取った寝台であった。
「……夢、じゃなかった。のね」
彼女は、ゆっくりとその身を起こすと、部屋の中を見回した。
部屋には、ハールィチの荷物と、彼女の荷物がある。
レフの荷物は、跡形も無くなっていた。
まるで、最初から彼はいなかったかの如く、彼に関するものは消え失せていた。
「夢だったら、よかったのに」
力なくつぶやいた、その時、部屋の扉が開いていた。
「起きたのか」
水差しを手にした、ハールィチが、部屋に戻ってきていた。
「レフの埋葬は、済ませた。安心しろ」
コップに水を注ぎ、彼はリュドミラにそれを差し出した。
「あ、ありがとう」
彼からコップを受け取り、彼女は少しだけ水を口に含む。
ひんやりと冷たいその感触が、のどを潤して、体内に染み渡るようだった。
その気持ちの良さに、彼女は生き返る感じがしていた。
「それでだ、君に言いたいことがある」
「……何?」
椅子に腰掛け、沈痛な面持ちで、ハールィチは語り出した。
「ここで、別れよう」
「え……」
「解散だ」
指先から力が抜け、彼女の手から、コップが滑り落ちた。
「な、なんで、なんで解散なのよ」
コップが床に落ち、中の水が床板を濡らした。
「君のためだ」
「どうして、私のためって」
ハールィチは、黙って彼女の頭を見た。
金色の髪が、所々抜け、地肌が見え隠れしている。
「このまま、私といたら、君も近いうちに死ぬ。だからだ」
「いや、いやよ、別れるなんて」
「君を、死なせたくない。分かってくれ」
リュドミラは寝台を降り、フラフラとした足取りで、彼の元へ歩いた。
「別れたく、ない」
大きなその目が、涙で潤んでいた。
「死んでも、いい。あなたのそばに、いさせて」
溢れる涙を流したままで、彼女はハールィチの胸に抱きついた。
「お願い、ずっとそばにいたいの」
すすり泣く彼女を慰めようと、彼は手を動かしかけて、止めていた。
これ以上、頭に触れたら、彼女の髪がまた抜け落ちてしまうからだ。
女の命にも等しいそれを、無残に散らかすことは、彼にはできなかった。
「だめだ、そばにいたらいけない!」
彼女の肩を掴み、ハールィチはその身を引きはがす。
「いいか、このままだと、確実に死ぬ!それも近いうちにだ!」
彼の剣幕に、リュドミラの顔が怯えたものになる。
両目は泣き腫らして、赤くなり、鼻や頬も紅く染まっているが、それでも彼女の顔は、美しいものであった。
「君の命は、一度助かったものだ!これ以上、粗末にするな!」
息を上げて、彼は一度にまくし立てる。
傷つけたくない、死なせたくない、その思いが、彼の心を熱くさせていた。
「……後生だ、頼む」
肩で大きく息をし、彼は顔を伏せる。
そんな彼の頬を、リュドミラは、優しくその手で触れていた。
「なら、せめて、別れるのは、明日にして」
白い指が、彼の顔を撫でる。
「今夜は、ずっと、一緒にいて欲しいの」
ハールィチの頬に、彼女の息が、かかっていた。
深夜。
寝台で眠るリュドミラを横目にして、ハールィチは、テーブルの上に麻袋を静かに置いた。
中には、彼女と、レフの分の給金が、入っている。
その傍らには、彼女宛の手紙を残して、彼は物音を立てずに、部屋を後にした。
――さようなら。
心の中で、そうつぶやき、彼は扉を閉める。
宿の外に出ると、空には、星が瞬いていた。
北国の夜は、気温がとても低く、吐く息は真っ白に煙る。
彼は、リュドミラを抱かなかった。
清い彼女を、一時の劣情で汚すわけには、いかなかった。
風土病が治った彼女は、どこかで自分以上のいい男を見つけて、幸せに暮らせるだろう。
そう、思いやってのことだった。
――私には、使命がある。
その思いを胸に、彼は歩き出した。
人気の無い、旧首都の路地を、ハールィチは進む。
杖を片手に、死んでいった仲間のためにも。