文学に暗い。
小さい頃はよく、「死体ゴッコ」をしたものだ。
蒲団の中にうずくまって、「死んだ!」と呟く、ただ、それだけの遊びだったけれど、
何故だかこれが、幼心には大変面白く、一度ならず何度もやった覚えがある。
個人的な見解だが、「死体」は「したい」に繋がっていて、wishの表れなのではないか、と思う。
たかがスノッブの邪推でしかないのは明白だけれど、
不思議と、どうして青年が自殺してしまうのか、これもよくよく見通せるようで、この見解には自画自賛だ。
欲求不満に陥るからこそ、死体ゴッコなんてするのだろう。
けれど、ゴッコはゴッコでしかないわけで、例えば子どもが遊んでいて、報酬がもらえないのと同じこと。
自殺志願者には申し訳ないが、自己満足が社会に対して貢献した、という験しは中々見当たらないし、まして、損害にすらならないのが実情だ。
誰も、生命は尊いと言うのは、結局、自分が同じ立場に立った時のための保険であって、裏で何を考えているやらは、口にこそしないが想像は容易かろう。
だからこそ、誰もそこにお金を支払ったりしないのである。
「したいゴッコ」は容易く出来る。勝手にやっていておくれ、と、皆が思っているからだ。
ただし、自己満足には少なからず、上達が存在するのは言うまでもない。
告白すれば、私にも自殺未遂の経験があるのだけれど、これはその、上達とやらに他ならないだろう。
母も遊ばせとけば良いや、と、私の死体ゴッコをほったらかしているうち、
十数年後になって、本当に「死体ゴッコ」を始めてしまったわけで、
仏教徒の悟り澄ました顔つきで、業が巡った、とか、運命だ、とか言うのは簡単だが、
これを上達しただけだ、と見るほうが簡単に思えるのだから、全く世界が比喩法を間違えているようで面白い。
だから、「書くこと」が自己満足だと言われる方々も、めげることはないと思うんだな。
めげずに書けば、自然に上達するんだし。
大体、自己満足の段階、っていうのは一つの通過点であるし、また、これなしに続けるってのも、何だか心もとない。
自作の一番最初の読者は、筆者自身なんだから。
もし、自分の書いたものに納得できなくなったなら、納得できるものを書くように努力する。
こんなに簡単なことは無いでしょう?
書けないなら、諦める。
聖書にね、こんな言葉がある。
「地獄に堕ちるくらいなら、右目をえぐって捨てちまえ。
全身が堕ちるよりはマシだ」って。
「書く」という全体に比べれば、「一作品」なんて小さい、小さい。
諦めて、再び原点に戻る、これ以上に重要なことはないと思う。
と、言うことで、
私もあらためて、蒲団の中にうずくまって「死んだ」と呟いてみた。
それが、私の記憶する中での、一番最初の「したい」からこそやった遊びであったような、そんな気がしたから。
でも、私ももう、いい加減に歳を重ねてしまって、色々と考えてしまうのだから、少し哀しくなった。
「お墓、蒲団の中、子宮回帰願望、精神分析、自由連想、フロイト、ラカン……暗がりの中へ、暗がりの中へ……
そうか、私はこれから、生まれようとしているのかなぁ」
あなたの誕生日は、いつですか?