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僕は自分の心のなかにもともとあった恐怖の感覚が少しずつ膨張していくのを感じた。
「それって、たとえば僕みたいに夢で見たりとか?」
僕は恐る恐るといった感じで訊ねてみた。
「もちろん、夢で見たっていう話もある」
孝明はそこで言葉を区切ると、喉が渇いてきたのか、コーラの入ったグラスを口元に運んだ。
「それから、実際に行ったっていうひとの話もあるね」
風が出てきたようで、窓ガラスに風が当たって窓ガラスが震える音がやけにはっきりと聞こえた。何かの存在を主張するように。
「なかでも有名なのはキサラギ駅の話かな?この話は知ってる?」
僕は孝明の問いに、知らないというふうに首を振った。
「あとで家に帰ったときにでもネットで見てみるといいと思うけど、これは電車に乗っていると存在しない駅にたどり着いて、そこから帰れなくなったっていう話だ」
僕は孝明の話に耳を傾けながら、自分が電車のなかで眠っていて、ふと気が付いたら、電車のなかには誰も乗っていなくて、窓の外には見たこともない世界が広がっているところを想像した。
「もし、それがほんとうだったら怖いね」
僕は強張った笑みを浮かべて言った。
孝明は僕の言ったことにそうだねというように頷いてみせた。
「このほかに有名な話だと、京都のマンションの話があるね。ある日、マンションの中庭に出たら急にめまいに襲われて、気が付いたら、自分の知っている世界とよく似たべつの世界に入りこんでしまったっていう話。その世界は日本によく似ているんだけど、話している言葉も、文字も全く違っているらしいんだ。そしてその世界のひとたちはこちらの側の世界があることを知っていて、つまり俺たちの世界のことだね、パラレワールドの存在を知っていて、色々検査とか実験をされたらしい。でも、最終的になんとかそのひとはこちらの世界に戻ってこられたみたいだけど・・・そして」
と、孝明はそこで言葉を区切った。僕は話の続きが気になったので孝明の顔を直視した。
「そういった情報を見ていると、どうもそういうパラレワールドを見たり、訪れたっていう体験談というのが、東海地方や、その周囲に集中している気がするんだ。だから、なんらかの関係があったりするのかなって俺はちょっと気になってる。ちょうどその近くには欧州原子核機構と同じような実験を行っている機関があるし」
「欧州原子核機構?」
僕は気になって訊ねてみた。
「あれ?木下は知らない?」
孝明は不思議そうに僕の顔を見た。
「なんか名前は聞いたことあるけど」
僕は困って曖昧な笑顔で答えた。
「欧州原子核機構というのは、スイスのジュネーブ郊外で、フランスとの国境地帯にある、世界最大規模の素粒子物理学研究所のことだよ。そこには全長二十七キロもある円型加速器があって、そこではその加速器を使って陽子同士を高速で衝突させて、新しい粒子の発見やブラックホールについての研究なんかが行われているんだ。そしてその研究が実はパラレワールドの研究とも繋がっていると噂されていて、だから、俺は気になってるんだよ。というのは、それと似たような研究機関がその東海地方にあるんだ。最も、日本の場合は欧州原子核機構とは行っている研究の規模もやっていることも少し違っているんだけどね。でも、それは公式の発表でそういっているだけで、実は違うことをやっているかもしれないし、だから、ひょっとすると、そのあたりにパラレワールドの入り口があったり、あるいはその地域ではこちらの世界とあちら側の世界がくっついたり、離れたりというような現象が起きているのかもしれないなって俺は個人的に想像してる。だから、東海地方を中心にパラレワールドの体験者が増えているんじゃないかってね」
孝明はそこまで一息に話すと、僕の顔を見て、
「まあ、こんなことを話すと頭が可笑しいひとだと思われそうだから、人前では言ったりしないけどね。でも、木下は小説を書いてるし、案外真面目に聞いてくれると思うから話しているんだけど」
と、孝明は苦笑して続けた。
「もちろん、僕は真面目に聞いてるよ」
僕は言った。
孝明は頷いた。それから、少し躊躇うように間をあけて、
「実を言うと、これは誰にも話していないんだけど、俺にもそういった体験があるんだ。しかも二回もね。そして何を隠そう、俺の実家がある地域も、東海地方なんだ」
僕は目を見張った。