表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/13

5

 翌日目覚めると、青灰色の色素を含んだ冷たい水のような哀しみが心の底の方に浅く沈殿している感触があった。それは寝ているときにみた夢のせいだった。夢のなかに渡辺泉がでてきたのだ。渡辺泉というのは僕が五、六年前にしていたアルバイト先にいた女性で、そのとき、僕は彼女に憧れていた。


 でも、僕の場合、だいたいにおいてそうなってしまうのだけれど、やはりそのときも、僕の想いはどこにも届かないままに終わってしまった。彼女は僕以外の誰かが好きで、僕の想いが入り込む余地は全くなかったのだ。そのときも僕は彼女に対する想いは伏せ、あくまで友達のような顔をして接し、そして彼女がアルバイトを辞めていくと彼女との関係はそれっきりになってしまった。


 でも、僕はどうしても彼女のことが忘れることができなくて、ほんとうにバカみたいなのだけれど、彼女がアルバイトを辞めてしまって一年程が経った頃にメールで自分の想いを伝えた。そして返ってきた答えは、当然といえば当然なのだけれど、ごめんなさいというもので、ああ、やっぱり自分は誰からも受け入れてもらうことができないのだ、と、世界の終わりのように哀しくなってしまい、そのときの感情は何か結晶のようになって心の湖を今でも彷徨っていて、そして夢を見るという行為は、その心の湖に無作為に手を伸ばしてそのなかから記憶の断片を掬い上げるという行為で、だから、ふとしたとき、思いかげず、夢はその欠片を探してあて、激しく僕の気持ちを沈ませるのだった。


 雨が降っているようで、アパートの外に雨が世界の色んなものに水気を含ませていく音が静かに聞こえた。このところ頻繁に雨が降る。今、季節は十月の下旬に入ったところで、ついこのあいだまで蒸し暑かったのが嘘のように、最近は肌寒い日々が続いていた。そしてその肌寒さは皮膚をすり抜けて僕の心のからも体温を奪っていくように思えた。


 今日はアルバイトも何も入れていなくてすることがなかった。どこかに行きたいような気もするのだけど、でも、どこに行きたいのか、そもそもどこへ行っても大して変わらない、特に面白いことはないような気がしてしまって、さっきまで見ていた夢の余韻のせいなのか妙な気怠さもあり、何もしたくないと思ってしまった。でも、とにかく空腹なので何か食べようと思い簡単に朝食を作ることにした。


 まずコーヒーメーカーに紙のフィルターをセットし、そこに既に牽いて粉にしてあるコーヒー豆を入れる。そのあとコップ二杯分くらいの水をコーヒーメーカーに入れてあとはスイッチを入れる。すると、その少しあとにコーヒーメーカーがさっき入れた水を吸い上げて行く音が聞こえ、それと同時にコーヒーの香りが優雅な舞いを舞うように部屋のなかに漂いはじめる。そしてその香が十分に広がった頃くらいに、ガラス瓶に抽出したされたコーヒーが、やわらかい、何か親密な感じのする音とともに溜まりはじめる。僕はコーヒーが抽出されはじめたのを確認すると、この前買ったトーストの最後の残りの二枚をトースターに入れてスイッチを入れた。そしてそのトースターが活動を停止する頃にはコーヒーも出来上がっていて、僕はそのコーヒーと焼きあがったパンを持って部屋に戻ると、フローリングの床に腰を下ろした。


 音が何も聞こえないと心細いというか落ち着かないので、とりあえずという形でミュージックプレイヤーで音楽をかける。アイポッドに入っている曲をシャッフルで流すと、流れ始めたのはクラシックのピアノの曲で、それは波打ち際に広がっていく海の水のように穏やかに沈黙を満たしていってくれた。パンにはマーガリンだけを塗って食べる。コーヒーには気分によって砂糖とミルクを入れたり入れなかったりで、今日はミルクだけを入れて飲んだ。コーヒーはなかなか良い感じに淹れることができていて、その成果に僕は心地よい満足感を覚えた。


 朝食を食べ終えると、パソコンのスイッチを入れてパソコンを起動させ、それからインターネットに接続した。程なくしてパソコンのスクリーンに表示されたヤフーのトップニュースのなかから気になった記事を読み、そのあとに自分の小説を呼び出して広げた。今、その小説は半分くらいまで書き進めたところで、でも、このあとどんなふうに物語を書き進めて行くべきか僕は迷っていた。というより、この小説を書き続けることに意味があるのかどうか、僕は最近確信が持てなくなりつつあった。


 このところいつもそうだった。書き始めた当初は自分でもすごく面白くなると信じていた物語が半ばで書き進めたところで、実はとるにたらない、くだらないもののように思えてきてしまうのだ。それで、植物が花を咲かせることなく枯れてしまうように、物語も結末を迎えることなく、途中で終わってしまう。最近はそんな物語の断片が、切れ端が、いくつものパソコンのファイルのなかに溜まっていくばかりだった。


 それから、僕は自分の書いた文章を最初から読み直してみたけれど、やはりその小説が面白いのかどうかわからず、というよりはどちらかというと退屈なのでないかという疑念の方がどんどん大きくなってきてしまい、結局、今日は小説の続きを書くことは断念することにした。


 でも、断念することにした一方で、小説が上手く書けないことに僕は苛立ちを覚えた。


 たとえばそれはこういう感覚に似ていた。僕は今穴の開いた箱のなかに手を突っ込んでいる。そして箱のなかの僕の手はあるものを捕えている。それは繊細で美しいものだ。僕は箱のなかからなんとかしてそれを取り出したいと思っている。でも、そうすることができない。というのは、箱に開けられている穴が小さすぎるのだ。僕の手を引き抜く分には問題ないのだけれど、僕の手が握りしめているものを引き出すには、その穴は小さすぎるのだ。取り出すためには穴を広げるしかない。でも、近くには道具がない。一旦、箱から手を抜いて道具を取りに行くということは許されない。なぜなら、一度、箱から手を抜いてしまえばそれはたちまち消えてしまうからだ。だから、今、なんとかするしかない。でも、どうすることもできない。箱ごと破壊してしまうこともできなくはないけれど、そうすると、今度はなかに入っているものも同時に壊してしまうことになる。


 小説が書けないと気持ちが沈んだ。僕には小説を書くことしができないと思っていて、だから、それができないとなると、もうこの先どうしていったらいいのかわからなくなってしまうのだ。コーヒーを淹れることで得られたささやかな幸福感も今は完全に蒸発してしまっていて、あとには青黒色の色素を含んだ感情が僕の意識の表面に薄く液体のように広がっていた。そしてその液体のなかに、朝の夢がもたらしたほんやりとした哀しみの感覚が混ざり合うのを僕は感じた。


 携帯電話の着信音が鳴ったのはそのときだった。着信を確認せずに電話に出ると、それは伊藤孝明からの電話だった。伊藤孝明というのは僕の大学時代の友人だ。彼は大学を卒業したあと、サラリーマンをやっていたのだけれど、その就職した先が所謂ブラック企業というところだったらしく、上司からのパワーハラスメントと、度重なる残業と休日出勤から体調を崩して、数年前に勤めていた会社を辞めて今は無職になっていた。


 無職というか、軽度の引きこもりになっていた。ただ彼の場合は引きこもりといっても少し特殊で、僕なんかよりもずっとたくさんのお金を稼いでいた。勤めていたときの貯金で株を買い、それで毎月、もちろん何千万とかではないみたいだったけれど、僕にとっては十分大金と思える金を稼いでいた。


「もしもし」

 と、僕が電話に出ると、孝明は軽度の引きこもりの人間とは思えない快活な声で言った。孝明も会社を辞めた当初はかなりの鬱の症状に悩まされていたようだけれど、今はほとんどその症状は改善していて、部屋にひきこもっているということを別にすれば、特に日常生活を送っていくことに問題はないようだった。


「木下、今、暇でしょ?」

 孝明は僕が電話に出るなり決めつけて言った。

「暇なことは暇だけど」

 僕は言った。確かに僕は今派遣でしか働いていなくて、一般のひとに比べるとかなり時間がある方ではあったけれど、孝明に暇を持て余している人間だと思われていそうでちょっと嫌だなと少しだけ悔しくなった。


「今から、うちに来ない?ちょっと退屈してて、誰かと話したい気分なんだ」


「・・・それは構わないけどさ、僕だっていつも暇だってわけじゃないんだよ。今日はたまたま休みだからべつにいいけどさ」

 僕は自分もそれなりに忙しいんだということを軽くアピールしてみた。すると、孝明は微笑して、

「木下はいつも暇してるイメージがあるけどな」

 と、可笑しがっている口調で言った。


「そんなこともないよ。こっちは一応アルバイトとはいえ働いている身だし、小説だって書かなくちゃいけないんだ」


「わかったよ」

 と、孝明は僕の科白に仕方がないなという感じで軽く微笑した。

「もし、今日来てくれたら、ピザをご馳走するよ」

 と、孝明は言った。


「このところずっと部屋にいて、さすがにちょっと気が滅入って来てるんだ。誰かと話して気を紛らわしたくて。他の友達はみんな仕事で忙しいし、こんなふうに気軽に声をかけられるのって、木下くらいしか思いつけなかったんだ」

 そう言葉を続けた木下の声は少し申し訳なさそうに聞こえた。


「・・・わかったよ」

 と、僕としてもそんなふうにお願いされると断るわけにもいかなかった。というより、僕も小説が上手く書けなくてこれからどうしようかと思っていたところだったのだ。これから孝明の家に行くのは全然構わなかった。

「これから準備してすぐ行くよ。僕もちょうど誰かと話したかったんだ」

 僕は言った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ