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まだ試し書きの段階です。
「雨だ」
と、僕はなんとなく口に出して言った。
望は僕の声に誘われるようにして窓の方に視線を向けたけれど、特に何も言わなかった。
「新しく、コーヒー淹れようか?」
僕は沈黙が気になって望に声をかけた。テーブルのうえにある、さっき僕が望に淹れて出してやった、コーヒーの入っていたマクガップはもう既に空になっていた。望は僕の言葉に空になっているマグカップに視線を落とすと、今度は僕の顔を見て、
「うん。ありがとう」
と、言った。
僕は望の言葉に頷くと、それまで腰を下ろしていたフローリングの床から立ち上がった。そして廊下に面してついている狭いキッチンで、自分の分と望の分のコーヒーを淹れなおした。
やがてコーヒーが出来上がると、僕はどうぞと言って、テーブルの上にふたりぶんのコーヒーを置いた。望はありがとうと小さな声で言うと、ブラックでそのまま一口飲んだ。テレビの音声以外は何も聞こえない空間のなかにその望のコーヒーを啜る音が妙に誇張されて聞こえた。僕もブラックで一口飲んだ。
「小説って、いつぐらいから書き始めたの?」
望はテレビに向けていた顔を僕の方に向けると訊ねてきた。
僕は望の問いに、自分の記憶を手繰り寄せた。その記憶のありかを探し当てるのに少しの時間を要した。
「あんまりはっきりとは覚えてないけど、中学二年生くらいの頃かな」
と、僕は答えた。
「何か切っ掛けとかあったの?」
望は続けて訊ねてから、またコーヒーを口元に運んだ。
「当時、クラスのなかでファンタジー小説を読むのが流行ってたんだ」
と、僕は言った。
望は僕の顔に視線を注いだまま、僕の言葉の続きを待つように黙っていた。
「それで僕もファンタジー小説にはまっててよく読んでたんだけど、そのなかにお気に入りの小説があって、で、もちろん物語だからいつかは終わってしまって、それでその物語が終わってしまったとき、すごく寂しくなってしまったんだ。どうしてこの物語はこれで終わっちゃうんだろうと思うと残念で、もっと続きが読みたいと思った。だけど、それはできなくて・・それでそんなふうに思っているうちに気が付いたんだ。じゃあ、自分で描けばいいんだって。そうすれば終わらない物語を読むことができるってね」
僕は言ってから照れくさくなった。自分の顔が熱を持つのがわかった。
「じゃあ、木下くんが書いている小説はファンタジー小説なの?」
と、望は更に訊ねてきた。
僕は望の顔を横目でちらりと見てから、コーヒーを口元に運んだ。
「最初のうちはファンタジー小説を書いてたんだけど」
僕はコーヒーの入ったマグカップをテーブルのうえに戻すと言った。
「高校に入って親しくなった友達が文学系の小説をよく読んでて、それでその友達から本を借りて読んでるうちに、どんどんファンタジー小説よりも、文学系の物語に興味が傾いていったという感じかな・・だから今は、といっても、これはあくまで自分ではそのつもりでいるということになってしまうんだけど、文学系の小説を書いてる」
「文学?」
望は僕の言葉をいくらか不思議そうに反芻した。
「たとえば教科書に載ってるような小説だよ。夏目漱石だったり、阿部公房だったり・・ひとの内面を深く掘り下げたものであったり、あるいは人間の存在について書かれたものであったりとか」
これで説明になっているかどうかいまひとつ自信はなかったけれど、僕は自分が思っている文学について解説を試みた。
「なんたが難しいそうね」
望は間違って酸っぱいものを口に含んでしまったときのように軽く顔をしかめた。
「そうでもないよ。読んでみるとそれなり面白かったりするし、それに、まあ、僕の書いている小説はそこまで堅苦しくないというか、あるいはレベルが低いということになるのか、とにかく、そんなに難しくはないと思う」
「たとえばどんな感じの話なの?」
望はまたコーヒーを一口飲んでから訊ねた。
僕はどう説明しようか困った。
「上手く説明できないんだけど、僕が日常生活で感じたり、思ったりしたことを小説風に書いたものということになるのかな。そんなストーリーと呼べるような大げさなものはなくて、日常のなんでもないことを書いてる」
「ふうん」
と、望は僕の説明に頷いた。そして少しのあいだ何かに思いを巡らせるように黙っていたけれど、
「それってたとえばわたしが普段考えたりしていることと似ているのかな」
と、望はやや眼差しをふせて囁くような声で言った。
僕は興味を惹かれて望の顔を見つめた。
望は伏せていた目線をあげて僕の顔を見た。
「わたしね、わたしという存在はほんとう意味で存在しているのかなってよく考えることがあるの」
僕は望の言っていることがよくわからなかったので、彼女の言葉の続きを待って黙っていた。
「つまり」
と、望は言葉を続けた。
「ほんとうの意味でわたしの自由意志みたいなものは存在するのかなっていうこと」
僕は残り少なくってきたコーヒーを啜った。
「だって、わたしはわたしの意志でわたしに生まれてきたわけじゃないでしょ?たまたまわたしはわたしの両親のもとに生まれて来て、その両親に育てられて、自分の頭の良さとか、容姿とか、才能とか全く自分で決めることができなくて・・たぶん、無数の偶然が重なりあってわたしの自我というものは形作られていて、じゃあ、その偶然できあがった自我が、つまり、わたし自身の選択でできあがったわけではない自我が、ほんとうの意味で、わたしと言えるのかなって考えるとよくわからなくなるの」
望は真剣な表情で一息にそう語った。
「結構難しいこと考えてるんだね」
僕は軽く目を見開いて、望の顔を見つめた。
「まるで哲学だ」
僕は冗談めかして言ったけれど、望は笑わなかった。望は本気でそういうことを考えていて、僕に何らかの返答を求めているのだ。
「でも、僕もそういったことを考えるのはわりと好きで、色々そういう本を読んだり、ネットで情報を見たりしているんだけど」
僕は望の横顔に向けていた視線をまた前に戻すと言った。
僕は自分の横顔あたりに望の視線を感じた。
「あるいはこれは橋本さんが言ったことに対する回答になっていないのかもしれないけど」
僕はちらりと望の顔を見てから前置きした。
「というか、こういうのはオカルトというか、スピリチュアルとかいう類のものになって、もしかしたら胡散臭く思えるかもしれないけど」
僕は話続けた。
「ひとは生まれ変わるとき・・・生まれ変わりなんてないって言われてしまうと話はそれで終わっちゃうし、まあ、確かにそんなものなんてないのかもしれないけど・・とにかく、人は死んでまた生まれ変わるものだとして・・そのときに、ひとは自分で自分の生まれ変わる場所を選んで生まれてきているっていう話があるんだ」
「だから」
と、言って、僕は望の顔を見た。
「そうすると、自由意志はあるということになるよね。さっき橋本さんはただ偶然自分という身体に生れ落ちただけって話していたけど、さっき僕が話したことがもしほんとうだとすれば、橋本さんは生まれ変わる前に、自分で今の肉体を選んで生まれてきているということになるわけで、だから、自由意志というのはあるのだということになるのかも」
望は僕の言ったことについて検討するように黙っていた。
「でも、もし、このことがほんとうのことだとすれば、色んなことに納得がいく気がするんだ」
と、僕は更に続けた。
「だって・・・こんなことを話すと、すごく青臭く聞こえるかもしれないけど、人生というのはすごく不平等にできてるじゃない?ある人間はものすごくハンサムで頭も良くて才能もあってという感じで、でも、その一方で全然そうじゃないというような・・たとえば僕がそうだと思うんだけど、そういう人間がいて・・・で、なんでこんなに差があるのかと僕なんかは不満に思うわけだけど、でも、ここでさっき僕が言ったことがほんとうだとすれば、文句は言えなくなる。なぜなら、それは自分で選択した結果ということになるから」
「でも、どうして」
望は僕の顔を見ると、いまひとつ理解できないというように言った。
「その、生まれ変わるときに、自分で人生を選択できるのだとしたら、どうして木下くんはわざわざ・・ごめんなさい・・たとえばさっき木下くんが自分で言っていたハンサムで頭も良くて才能もあってという方の人生を選択しなかったの?」
「それは僕も生まれ変わる前の自分に訊いてみたいよね」
と、僕は冗談めかして言ってから軽く笑った。
「でも、その本に書いてあったところによると、人間が生まれ変わるのは、学びのためらしいんだ。魂の成長のため。人間が生まれてくるのは、べつに人生を謳歌するためにあるわけではなくて、その人生において苦しい思いや、辛いことを経験して、学ぶためにあるらしいんだ。だから、今の僕を僕が選んだのは、もし、ほんとうに生まれ変わりというものがあったとしてということだけれど、そこでいくらか苦しい思いをすることが必要だと思っていたから、自分自身の魂を成長させたかったからなんだろうね。きっと。でも、今現在の僕としてはべつに魂の成長なんていらいなから、もっと楽に生きたいなって思ってしまうけど」
「ふうん」
望は僕の言葉に頷いた。望はなんとなく難しい表情を浮かべていた。というより、何か僕の言ったことが承服しかねるといった様子だった。
「でも、そうね、もし木下くんが言っていることがほんとうのことだとしたら、色んなことに説明がつくかもね。わたしがわたしであることにも。それ以外の、たとえば世界中にある餓えとか貧困とか、そういう状況も、そこにいるひたちがあえて自分で選んでいるのだとしたら、それはべつに理不尽なことでもなんでもないのかもしれない」
望はそこまで話してから言葉を区切った。望は足もとのフローリングの床あたりに視線を落として何か考えているみたいだった。
「でも」
と、しばらくしてから、望は顔をあげてまた僕の顔を見ると言った。
「いまひとつわからないんだけど、もし、そういのが全部ほんとうだったとして、だけど、でも、どうして、魂の成長みたいなものが必要なの?べつに成長なんてしなくても良い気がするんだけど。みんながそれぞれに幸福でいられればそれでいいような気がするんだけど」
そう言った望の声は腹を立てているようにも聞こえた。
「確かそうだね。それは僕もそう思うよ」
僕は言ってから、マグカップを口元に運んだ。けれど、それはいつの間にか空になっていた。僕は空っぽのマグカップをまたテーブルのうえに戻した。
「何故、魂の成長が必要なのかにはついては書かれていなかったけど・・・ひとついえるのは」
望は僕の横顔にじっと視線を注いでいた。
「この宇宙というのは成長していて、どんどん大きく広がっていこうとしていて、そして結局は僕たちもその一部だということなのかもしれないよね」
でも、そう言った僕の言葉は、あまり望を納得させることはできなかったようだった。望は僕から興味を失ってしまったようにまた眼差しを伏せていた。眼差しを伏せた彼女の横顔は少し哀しそうにも見えた。