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まだ試し書きの段階です。
だいたいそんなことを僕は橋本望に話して聞かせた。僕が最近頻繁に見る夢の内容について。どうしてそんなことを望に話そうと思ったのか、自分でもよくわらなかった。というか、理由なんてそもそもなくて、ただなんとなく話してしまったという感じだった。
「不思議な夢ね」
と、望はベッドによりかかって折り曲げた自分の両膝を両手で抱きかかえるようにしていた。望はショートパンツを入っていて、そのショートパンツから剥き出しになっているすらりとした色の白い両足が妙に艶めかしく映った。
今、僕たちが居るのは僕が一人暮らしをしている六畳一間のアパートで、望が僕のアパートを訪れてから、もう二時間近くが経っていた。さすがにそろそろ話題も尽きてはじめて、それで僕がふと思いついたのが最近よく見る夢のことだった。
「ほとんど毎日その夢を見るの?」
望は僕の顔を見ると言った。
「毎日というほどはないけど、わりと頻繁に見るのかな。毎回同じパターンなんだ。階段をおりていって、その先にドアがあって、でも、開かないっていう」
僕が望と知り合ったのは三か月前のことだ。僕は日雇いの派遣をやっていて、その日雇いの仕事先で彼女とは知り合った。その日の仕事は倉庫内での簡単な箱詰めの仕事で、僕と彼女は一緒のグループになって働くことになった。そして仕事が終わって帰るとき、駅までの帰り道をなんとなく一緒に歩いて帰ったのだけれど、そのときに、自分でも何故そうしようと思ったのかよくわからないのだけれど、僕が彼女の連絡先を聞いたのだ。
べつに彼女と仲良くなりたいと思ったわけでも、ましてや付き合いたいと思ったわけでもなくて、ただ普通に挨拶するみたいに僕は彼女に良かったら連絡先を交換しないかと申し出ていた。そして普段僕はあまりそういうことをしない、というか、あまりそういうことができるタイプではないので、ほとんど無意識的にそんな行動を取っている自分に自分でも軽く驚いていた。
彼女はわりと簡単に連絡先を教えてくれた。断れることはないにしても、ちょっと躊躇ったり、迷惑そうな顔をされたりするかなと思っていたから、それはちょっと意外な展開だった。
アパートに帰ったあと、僕は彼女にメールを送ってみた。すると、すぐに返事が返ってきた。その後、僕と彼女は三日に一度くらいの割合でメールのやりとりを続けた。基本的には僕がメールを送ってそれに対して彼女からの返信が返ってくるという形だったけれど、でも、そのうちにときどきは彼女の方からもメールが来るようになり、それで今から一カ月前くらい彼女と映画を観に行った。メールをしているうちに映画の話になってじゃあ今度良かったら観に行かないかと僕が誘ったのだ。
観に行った映画はハリウッドの大衆映画で面白いことは面白いけれど内容あまりないといったタイプの映画で、その映画を見終わったあと僕たちは夕食を食べて別れた。それから二、三度彼女とデートのようなことをして、それで僕が彼女を家に招待した。僕が今度家に遊びに来ないかと誘うと、彼女は大して躊躇いもせずにうんと答えた。
はじめて望が僕の家を訪れたのは先週の金曜日で、だから今日の訪問は二回目ということになった。これまでに僕と望がセックスしたかというとそれはまだだった。もちろん、僕は望の身体に触れたいと思ったし、彼女の身体の色んなところを舐めてみたり、自分の固く熱を持ったものを彼女のなかに沈めたいという欲望を持ったけれど、でも、そうしなかった。というのは望が僕のことをどう思っているのかよくわからなかったからだ。望は僕のことを少なくとも嫌ってはいないようだったけれど、でも、彼女のその親しげな様子はどうも友達に対するそれのように感じられて、僕がいざそうしようして彼女の身体に手を伸ばせば、たちまち今までの居心地の良い関係は崩壊してしまうんじゃないかと僕は恐れていた。
また僕自身も彼女のことをどう思っているのか、よくわからない部分があった。僕は彼女の身体に激しい欲望を感じていたけれど、でも、それが彼女に対する気持ちとイコールなのかと考えると曖昧だった。ただ単に彼女の身体のやわらかさを味わいたいと思っているだけではないつもりでいたけれど、では純粋に、心から、彼女のことを欲しているのかというと、それもまた違うような気がした。だから、僕は望に告白していなかった。あくまで友達として接しているだけだよというような、全然好きとかそういうのじゃないし、もちろん身体を触らせて欲しいなんて思っていないんだよというような態度を取り続けていた。最も、そんな僕のポーズが、彼女にどれくらいに信用してもらえているのかはわからなかったけれど。
あるいは彼女は僕のことが好きで、また好きじゃなかったとしても、べつに身体の関係を持っても全然構わないと思っているのかもしれなかった。なにしろこうして躊躇いもなく、男である僕の家を訪れているくらいなのだから。常識的に考えて、その気もないのに女性が男の家をひとりで訪れるとは思えなかった。彼女も僕の性器に触れたり、舐めたりしたいと思っているのかなと僕は想像した。そう想像すると、呆れてしまくらい僕の性器は興奮状態になった。
「たぶんそれって」
僕が自分の性器の状態に気を取られていると、僕のとなりで望が口を開いて言った。僕は慌ててとなりに座っている望の横顔を見つめた。
「木下くんの潜在意識を現しているじゃないかな」
と、望は心持目を細めるようにして静かな声で言った。
「その暗い世界や、長く続く階段や、開かないドアは、木下くんの今の精神状態を表しているんだよ」
望はそう言ってから僕の方を振り向くと、
「何かそういう心当たりがあるんじゃない?」
と、訊ねた。
「言われてみると、そうかもしれない」
僕は望の方に向けていた顔を正面に戻しながら認めた。
「何しろ派遣だしね」
僕は自嘲気味な笑みを浮かべて言った。僕は先月の九月で三十歳になった。そして僕は三十歳にして定職についていない。今は派遣の仕事でどうにか食いつないでいる状態だ。
僕は大学を卒業しても就職しなかった。就職しなかったのは小説家になりたかったからで、大学を卒業しあと、ずっとアルバイトをしながら小説を書き続けてきた。でも、結果は惨敗で、今のところ小説家のしょの字もない。いい加減小説家になるのは諦めるべきかなと思ったり、あるいは諦めないまでも、普通に就職した方がいいんだろうなと思わないでもないのだけれど、でも、そうすることにかなり抵抗があった。
僕はサラリーマンに成りたくないと思っていた。毎日混み合った電車に乗って会社に通って、夜遅くまで残業し、ほとんど休みがないという生活を考えると、どうしてもそこに魅力を感じることができないのだ。いや、もちろん、誰だってそんな生活に魅力を感じているわけではないだろうし、ほとんどのひとが生活のためにそれでもしょうがなく働いているのはわかっているのだけれど、でも、それはそれとして、僕はやはりサラリーマンになんてなりたくなかった。義務とか目標とか上司との人間関係とか、とにかく、そういうことを考えると、全く就職したいという気持ちにはなれなかった。それに、小説を書くには、僕の場合はということだけれど、かなりの時間を必要とした。正社員の片手間に小説を書いていけるとはどうしても思えなかった。
じゃあ、そんなに嫌なら就職しなければいいのだし、実際にしていないのだけれど、でも、それならそれで、今度は将来のこととか、生活費の問題とか色々でてきて、ただ就職しないでいようと思っていればそれでいいかというとそうでもなくて苦しいというか不安というか、まあ、要するに甘えているんだけれど、現実と理想の折り合いがつかなくて色々苛々することがあった。一番良いのは明日にでも僕の書いた小説が売れてそれで生活していくことかできるようになればいいのだけれど、当たり前だけれど、そんなことはないし、だから、将来のことを考えると心が沈む。沈むというか、ぐちゃぐちゃになる。まるで一枚の紙切れを拳で思い切り強く握りつぶしたみたいに。
でも、もちろんそんなことは話さなかった。なんだか辛気臭くなってしまうし、そんなことを打ち明けられても望も困惑するだけだろうと思った。というか、悩んでいると思われたくないと思っている部分があった。
「派遣か」
僕がそんなことを思っていると、望が僕のとなりで呟くような声で言うのが聞こえた。僕はちらりと望の顔を見てみた。そこには特別表情らしい表情は浮かんでいなかったけれど、なんとなく沈んで見えた。
「どうかしたの?」
僕は訊ねてみた。すると、望は僕の顔をちらりと見て、軽く首を振り、それから、ううん、と言って苦笑するように口元を綻ばせた。
「わたしもいつもまでこんな生活続けるんだろうと思って」
望はいいわけするように言って、薄く微笑んだ。
「わたしも派遣だし」
僕は彼女の言ったことになんて言ったらいいのかわからなくて少しのあいだ黙っていた。点けっぱなしにしているテレビではあまり見たことのないお笑い芸人がなにかコントのようなことをやっていて、それと一緒に観客の楽しそうな笑い声が聞こえた。
「じゃあ、就職するの?」
僕は訊ねてみた。
望は僕の言ったことについて検討するように少しのあいだ黙っていたあとで、
「わからない」
と、静かな声で答えた。
「それもありかなぁって思うけどね」
そう続けて言った望の声はどうでも良さそうというよりは哀しそうに聞こえた。
「もう、音楽はやらないの?」
僕の問いに、望は短く頷いた。その頷き方には固い決意のようなものが感じられた。
僕もそこまで詳しくは知らないのだけれど、望は一年くらい前まで友達とバンドを組んで活動していたようだった。セミプロというか、あまり有名ではないけれど、知っているひとは知っているくらいのバンドで、でも、結局、そのバンドは解散してしまったらしかった。そしてそのあとは今のように派遣の仕事をしながら生活をしているようだった。就職していないのは、できないのではなくて、ただなんとなくしていないだけなのだろうと思われた。特にそういった話をしたことがあるわけではなかったけれど、望の話を聞いてればそれはわかった。彼女も僕と同じで就職したいと思ったことがないのだ。ただなんとなく惰性で生活していて、そして彼女の場合は、音楽活動という目的を失ってしまったことが、彼女自身も気が付かないうちに彼女を消耗させているように思えた。目に見えないほどの微かな穴があいていて、そこから知らず知らずのうちに空気が漏れ出ているみたいに。
「ボーカル、やってたんだよね?」
と、僕は訊ねてみた。
「一応ね」
望はなんとなくつまらなさそうな表情を浮かべていた。
「一度聴いてみたいな」
僕は冗談めかして言ってみた。
「たぶんがっかりするだけだと思う」
望は無表情に言った。その口調には何か拒絶的な感じすら宿っていた。
「そんなことないと思うけど」
僕は望の反応にいくらか戸惑って少し小さな声で言った。
「それより、木下くんの小説は?」
望は話題を変えて言った。
「いつ小説は読ませてくれるの?」
僕が小説家を目指しているのだということは以前に望にも話していた。
「まだできてないんだよ」
と、僕はいいわけした。
「でも、過去に書いた小説とかあるんじゃない?」
「あるけど、そんな見せられるレベルじゃないよ」
僕はちょっと狼狽えて言った。
「たぶん、がっかりすることになると思う」
望は僕の横顔をじっと見つめた。その視線には何か抗議するような意味合いが含まれているようで、僕を居心地の悪い気分にさせた。
「そっか」
と、望は頷いた。それは納得したというよりかは失望したといったような頷き方だった。沈黙があって、いつの間に降り出したのか、アパートの外に降る雨の音が聞こえた。