13
そこで僕は目が覚めた。目を覚めると、ぐっしょりと嫌な汗を掻いていた。枕元の携帯電話で時刻を確かめてみると、まだ時刻は四時半を少し回ったところだった。まだもう一眠りしようと思えばできる時間ではあったけれど、かといってこれからもう一度眠る気にはなれなかった。汗を掻いていて気持ちが悪かったのでシャワーを浴びると、仕事の時間になるまで適当にネットでも見ながら起きていることにした。
やがていつも通りの朝が訪れ、僕はトーストとコーヒーの朝食を済ませると、服に着替えて仕事に出かける準備をした。出かける際に、ちょっと気になって望に電話をかけてみようかなと思った。
僕はもしかすると望も僕と同じ夢を見ていたんじゃないかと気になっていた。だから、あのとき、夢のなかで僕と顔を合わせたとき、彼女はあんなに驚いたような表情を浮かべていたんじゃないかと僕は気がかりだった。
でも、そのことをどんなふうに確認したら良いのかわからなかったし、それに望も今のこの時間帯は忙しいだろうと思ったので結局何もしないことにした。僕はアパートのドアを開けると、仕事に出かけた。
その日の仕事は、パソコンの簡単なチェックの仕事だった。箱に入っているパソコンを一度箱から取り出し、モニターに異常がないかどうか確認するのだ。そして異常がなければ元通りに箱のなかに仕舞う。
昼の休憩時間になると、僕は派遣で何度か顔を合わせたことのある市川さんと一緒に休憩室で食事を取った。市川さんは坊主頭の三十八歳の男のひとで、普段は自宅でネット販売の仕事をしているらしかった。ただそれだけでは食べて行くことができないので、時間があいたときにこうして派遣で単発の仕事をしているのだと以前市川さんは僕に話してくれた。
「小説はどう?」
市川さんは惣菜パンを一口齧ると、からかうような笑顔で訊ねてきた。僕がアルバイトをしながら小説を書いていることは以前市川さんにも話していた。
「なかなか思うようにいかないですね」
僕は苦笑して言った。
「そうか」と言って、市川さんは頷くと、
「今はどんな話を書いてるんだい?」
と、ふと興味を惹かれたように訊ねてきた。
「今は夢の話を書いてます」
と、僕はペットボトルのお茶を一口飲んでから答えた。
「最近奇妙な夢を頻繁に見てて、それでその夢を見ているうちに何か夢を題材にした小説を書いてみようかなって思いついたんです」
僕はそこまで言葉を続けてから、ふと今朝見た夢のことをまざまざと思い出した。
「どうかしたのかい?」
僕が急に怖い顔をして黙り込んでしまったので、怪訝に思ったのか、市川さんは少し僕の顔を覗き込むようにして訊ねてきた。僕は曖昧な笑顔で首を振った。そして僕は市川さんの顔を見てからちょっと躊躇ってから言った。
「実は昨夜、いつもに比べて一段と奇妙な夢を見たんです。奇妙というか・・・怖いというか」
市川さんは僕の話に引き込まれたようにじっと僕の横顔あたりに視線を注いでいた。
それから僕はゆっくりとした口調で最近頻繁に見ている夢のことや、孝明から聞いたパラレワールドの話や、昨夜の夢の内容について簡単に市川さんに話して聞かせた。
「なるほど。それはちょっと変だね。変というか、気味が悪いね」
市川さんは僕の話を聞き終えると、いくらか強張ったような笑顔で僕の顔を見ながら言った。
「その、夢だとわかっているのに、目覚めることができないっていうのが怖いよね」
僕は頷いて、またペットボトルのお茶を少し飲んだ。
「あと、君の友達の話も気になるね。なぜ友達の妹さんは消えてしまったんだろう?」
僕はわからないというように軽く首を振った。
市川さんは僕の仕草に軽く頷いた。
「僕も眠は浅い方で、だから、夢は頻繁に見るし、たまには怖い夢を見ることもあるけど」
市川さんはそこまで呟くような声で続けてから、思い出したようにペットボトルのお茶を口元に運んだ。そして市川さんは振り向いて僕の顔を見ると、
「これはべつに君を脅かそうとしてるわけじゃないんだけど」
と、前置きして言った。
「実はね、僕の友達に、そのパラレワールドじゃないけど、突然消えてしまったやつがいるんだ」
と、市川さんは唐突に言った。
「いなくなった?」
僕は市川さんが突然口にした言葉が上手く呑み込めなくて繰り返した。
市川さんは短く顎を縦にひいた。
「そいつがその奇妙なオカルト系の話にとりつかれはじめたのは、そいつが失恋をしたあたりからだったかな」
と、市川さんはそのときの記憶を辿りながら話すようにゆっくりとした口調で言った。
「これは今から十年くらい前のことなんだけど、その頃に、夢を見ることで、もう一つの世界へ、つまりパラレワールドにいけるかもしれないっていう話が、ネットの2chで流行ってたのは知ってる?」
と、市川さんは僕の顔を見ると訊ねてきた。
僕は首を振った。
「知らないです。それはじめて知りました」
市川さんは僕の言葉に軽く頷くと、話続けた。
「なんでもその2chの書き込みによると、夢を見ているときに、それが夢であることに気が付きながら、更にその夢のなかに意識を注ぎこむようにすると、その夢で見ている世界が現実の世界になるっていうものだった」
市川さんはそこまで語ると、
「・・・まあ、馬鹿らしい話ではあるんだけど、その頃、僕は仕事を辞めて何もしていない時期で、何しろ暇だったんだ。だから、そういうのもあって、熱心にオカルトサイト的なものを観てまわっていたんだ。もともとそういうオカルト的な話も好きだったしね」
市川さんは苦笑めいた微笑を浮かべてそう弁解するように言った。
「で、その話を友達にしたんだよ。異世界に行ける裏技的な話を」
そう言った市川さんの口元からはさっきまでそこにあったはずの微笑みがいつの間にか消えていて、真剣な表情に戻っていた。
「その頃、友達が三年くらいずっと片思いをしていた女性に振られて落ち込んでいて、よく相談に乗ってたんだ」
と、市川さんは言った。
「確か学生時代の知り合いとか言っていたかな・・・でも、なんだかんだあって、その友達の想いは彼女には届かなかったらしい・・・まあ、そういうのはどこにでもある話だし、大したことじゃないと思うけど、ただ、その友達はやけにそのことで落ち込んでた・・・その落ち込みようといったら、自殺してしまうんじゃないかって勢いだった。そいつはかなりそのひとのことが好きだったんだろうね・・・まあ、はっきり言って僕もモテルタイプの人間じゃないし、だから、そいつの辛さ、悲しみみたいなのはよくわるけど」
市川さんはそこで言葉を区切ると、ふと我に返ったように僕の顔を見て、
「ごめん。こんな話退屈じゃないかな?」
と、言った。僕は曖昧に微笑すると、話の続きが気になりますと答えた。市川さんは僕の答えに少し安心したようにわずかに口元を笑みの形に広げると、頷いて、また話をはじめた。
「でも、何度か話てるうちに、やっとそいつの状態もどうにか落ち着いてきて、振られたことを冗談にできるようにまでなってきたんだよ。だから、僕も安心して・・・でも、今にして思えばその安心したのがいけなかったんだろうけど、つい余計なことを言ってしまった」
僕は市川さんの言葉の続きが気になって黙っていた。
「そのときに、言っちゃったんだ。さっきの異世界に行けかもしれないって話を」
市川さんは少し小さな声で言ってから、何かを確認するように僕の顔をちらりと見た。
「冗談のつもりでさ。この世界にはパラレワールドっていうものがあって、だから、もしかしたら、どこか別の世界にお前の好きなひとがお前のことを想ってくれる世界もあるのかしもれないなって」
僕はちゃんと話を聞いていることを示すように相槌を打った。
「そしたらさ」
と、市川さんは話続けた。
「そいつは怖い顔して俺の顔を見つめるんだ。どうやったらその世界へ行けるんだって。僕は笑ってあくまでただの可能性の話だよって言ったんだけど、そいつはどうもその話にとりつかれたみたいでね、まるで何かのスイッチが入ったみたいに、色々訊いてくるんだ。パラレワールドとか、僕がどうやってそのことを知ったのかとか、ネットのこととか。僕はあんまりそいつが真剣だから、実はネットでこういう情報を知ってっていう、自分が知っている範囲のことをそいつ教えてやったんだ。さっきの夢の話とかね」
市川さんはそこで言葉を区切ると、またペットボトルのお茶を少し飲んだ。
「それで?どうなったんですか?」
僕は気になったので訊ねてみた。市川さんは僕の顔をどことなく沈んだ表情で見つめた。
「それから、その友達はパラレルワールドの虜になってしまった」
と、市川さんは言った。
「会うたびにパラレワールドの話しかしなくなったんだ。ネットでは今こんな情報があってとか、パラレルワールドに行く方法には実はこういうのもあってとか・・・僕は友人の話に適当に相槌を打ちながら、これはちょっとヤバイなって思いはじめた…自殺こそしないだろうけど、そのうちに頭がおしくなってしまうんじゃないかと思った・・・というか、実際、少しおかしくなりはじめてた・・・それくらい、その友達のパラレワールドに関するのめりこみ方は尋常じゃないものがあった。友達は本気でパラレワールトというものが存在していると信じていて、なんとかしてそこへ行こうとしてるんだ。僕は心配になって、パラレルワールドなんて存在しないし、ネットの情報はただの悪戯なんだよと言ってみたけれど、でも、無駄だった。友人は全く聞く耳を傾けようとしなかった・・・そして」
と、市川さんはそこで言葉を区切った。
「そして?」
僕は市川さんの横顔をじっと見つめた。
「ある日、真夜中に電話がかかってきた」
市川さんは少し緊張したような顔つきで短く言った。
「確か、友人がそのパラレワールドの話にとりつかれたようになってから三か月くらいが経った頃かな・・・友達は僕が電話に出ると、つい見つけたって言ったんだ。ドアを、ついに見つけたって言ったんだ」
「ドア?」
僕は気になって反芻した。
市川さんは横目で僕の顔を見ると、自分も何のことなのかわからないというふうに軽く頭を振った。
「僕にも友人が何のことを言っているのかよく理解できなかった。ただ、友達はドアを見つけたって言った。そして、これから彼女が居る世界へ行ってくれるって言った。そのあと友人はいきなり電話を切った」
市川さんはそこまで話すと、同時の状況を振り返っているのか、軽く眼差しを伏せて少しのあいだ黙っていた。僕は市川さんが再び話出すのを待って黙っていた。市川さんは五秒間くらい黙っていてから、口を開いた。
「僕はなんだか嫌な予感がしてすぐに電話をかけ直したんだ」
と、市川さんは僕の方を向くと言った。
「でも、電話が繋がらないんだ。いや、繋がらないんじゃない。電話をかけると、お客様がおかけになった電話番後は現在使われていませんってアナウンスが流れてしまうんだ。でも、そんなはずはないんだよ。ついさっきその番号から電話がかかってきたばかりなんだ。そのあと、何度か試してみたけど、結果は同じだった。だから、その日は諦めるしかなかった。夜も遅かったしね」
僕は市川さんの行動に同意するように頷いてみせた。
「で、次の日なんだけど、更に奇妙なことが起こった」
市川さんは言葉を続けた。
「奇妙なこと?」
僕は小さな声で市川さんの言ったことを反芻した。市川さんは僕の顔を見ると、硬い表情で頷いた。
「僕は次の日朝早く起きると、また友達に電話をかけてみた。昨日は何か機械の故障で、たまたま電話が繋がらなかっただけなのかもしれないと思ったし、とにかく友人の声を聞いて安心したいっていうのもあった。変な電話の切り方だったし、電話も繋がらなかったしね。
でも、変なんだ。電話をかけると、やっぱりお客様のおかけになった電話番号は現在に使われていませんっていうアナウンスが流れてしまうんだ。でも、そんなはずないんだよ。さっきも話したように、昨日の真夜中に、確かに、その番号から電話がかかってきたし、それは僕の携帯電話に登録されている友人の携帯電話の番号なんだ。僕が電話番号を間違えてかけているということは考えられない。
あと考えられる可能性としては、友達が携帯を解約してしまったというものだけど、やはりそれも考えられない。なぜなら、そのとき僕が電話をかけたのは朝の八時過ぎで、だから、電話を解約しようと思っても、その時間帯に解約できるはずがないんだ。何しろそんな時間帯に携帯ショップは開いてないからね。だから、友人が携帯を解約したから電話番号が使われていないというアナウンスが流れるということも考えられない。
でも、とにかく、電話は繋がらないから、あとは友人の安否を確認する方法としては、直接友人のアパートを訪ねて行くしかなかった。というわけで、僕は友人宅まで向かうことにした。もしかしたら、友人が自宅で首をつってんるじゃないかってそんなことまで本気で心配したよ。でも、それは気憂に終わった。・・・だけど、あり得ないことが起こった」
市川さんはそこまで一息に話すと、話疲れたのか、机の上のペットボトル入りのお茶を手に取って少し口に含んだ。それから、またペットボトルのお茶を机のうえに戻した。
「何が起こったんですか?」
僕は早く続きが知りたくて水をむけてみた。市川さんは僕の顔を横目で見ると、頷いて、話はじめた。
「それから僕は一時間ばかりかけてその友人のアパートに辿り着いたんだけど、そしたら、そこは何故か友人のアパートではなくなってるんだ」
僕は市川さんの科白を訊いて鳥肌が立つのを感じた。僕は目を開いて、市川さんの顔から視線を逸らすことができなくなっていた。
「まず表札が友人のものではなくなっていた。それで僕は一瞬、自分が階数を間違えたのかと思ったけれど、でも、ちゃんと合ってるんだ。僕が立っているのは何度も訪れたことがある友人のアパートの前なんだ。その表札には以前ちゃんと友人の名前が入っていたと思ったけど、でも、それは僕の記憶違いで、恐らく昔のひとの名前がそのままになっていたんだろうと僕は結論付けた。じゃないと急に表札の名前が変わっていることに説明が付かなかったからね。とにかく、インターホンを押せば全て解決すると思った。
そして、僕がインターホンを押すと、なかから顔を出したのは、その友達とは似ても似つかない三十代後半くらいの、少しぽっちゃりした女性だった。僕はわけがわからなくなった。なぜなら、僕の友人は一人暮らしで、決して女性と同棲なんてしていなかったし、年齢的みても目の前に立っている女性は友人の母親という感じでもなかった・・・あるいは友人の親戚か何かなのかなと思ったけど・・・とにかく、僕は怪訝に思いなからも、友人のことを訊ねてみた。友人は今どこにいますかって。
そしたらその女性は僕のことを怒ったような顔で見るんだ。わたしはそんなひとは知らないし、部屋を間違えてるんじゃないですかって。その女性はその部屋にもう四年も前から住んでるらしいんだ。でも、さっきも言ったけど、そこは間違いなく友人が住んでいたアパートなんだ。いや、そんなはずはないって僕は食い下がったけれど、とにかく、女性は知らないものは知らないし、あなたの勘違いだって言うんだ。僕は釈然としなかったけれど、引き下がるしかなかった。
僕はテレビ番組か何かの大がかりなドッキリでも嵌められているのかと思ったよ。そうでなければ、僕の頭がおかしくなってしまったのか。僕は長年いもしない友人がいると信じ込んでしまっていたのか。全ては僕の妄想だったのかと自信が持てなくなってきた。
それで僕は最後の頼みのつなで、その友達のことを知ってる共通の友達に電話をかけて確かめてみた。何気ないふうを装って、その友達のことを話題に出してみたんだ。すると、みんな誰それって言うんだ。そんなやつは知らないって言うんだ。・・・まさに君の友達の妹さんのときと全く同じ状況なんだけど、僕以外、誰も友達のことを覚えている人間がいないんだ。いないどころか、この世界からきれいさっぱり友達がいたという痕跡が消えてしまってるんだ。
・・・そのあと、僕は色々と友人がいたという証拠を確認して回ったけど、それはただのひとつもみつからなかった・・・わけがわからないし…今でもその友達は消えたままで、何が起こったのかわからない・・・一番現実的な解釈の仕方はさっき話した僕の妄想だというものだけれど、でも、どうしてもそんなふうには思えないしね。今でもあれは謎のままだよ」
市川さんはそう話すと、信じられないというように軽く首を振った。
「・・・その友達の最後の電話が気になりますね」
と、僕はしばらくしてから言ってみた。
「その友達の、最後の、扉を見つけたっていう科白が気になりますね。一体何の扉を見つけたんだろう」
僕はひとり言を言うように言った。すると、市川さんはその僕の科白で突然何かを思い出したようにはっとした表情で僕の顔を見た。
「扉といえば」
と、市川さんは軽く目を見開いて言った。
「僕もさっき君が言っていた奇妙な夢を連続して観ていた時期があったよ。ちょうどそうだな、その友達が消えてしまってから一カ月くらいのあいだかな、頻繁に薄暗い階段をひたすら降りて行く夢を見ていた。そして階段を降り切ると、一枚の錆び付いた金属製のドアがあるんだ」
僕は市川さんの科白を耳にして、身体が硬直するのを感じた。
「でも、幸いないことに、一カ月くらいで、もうその夢はみなくなったけどね」
市川さんは少しぐったりした笑顔で付け足すように言った。




