水風船
幼馴染の蛍は、小さな指を折りつつ、友達の名を挙げた。
「えっちゃんはピアノのお稽古で、ののちゃんは急にお腹が痛くなって行けなくて、咲良ちゃんはお母さんが急にお出かけすることになったから、お留守番することにしたんだって」
「馬鹿だな蛍は。はめられてるんだよ」
蛍は訳がわからない、と言った感じで首を傾げた。俺がそんな風に言えたのは、俺も友達に示し合わせたように約束をドタキャンされたからだ。そして、皆で口を揃えて言うんだ。
“蛍ちゃんと行けばいい”
きっと蛍だって、友達に俺と行くことを勧められたに違いない。
「多分、連中も時間をずらして来ると思うよ」
「えっ。じゃあ私、仲間外れにされたの?」
「それはないと思うけど」
「…思うけど?」
俺だって、良く分からないんだ。幼馴染だからってひとくくりにされる理由が。
「多分、俺と蛍を、くっつけようとしてるんじゃないかと思う」
「くっつける??セロハンテープとかで?」
「恋人ってのに、しようとしてるんじゃないの?良くわかんないけど」
「恋人!」
蛍が、素っ頓狂な声を上げた。いや、気持ちはわかるよ。俺だって内心では疑問でいっぱいだから。
「どうして!」
「難しいこと考えるの、やめない?泥沼にはまりそうだし、折角の夏祭りだし」
後ろから、コロコロと下駄の音を響かせながら、蛍が着いてくる。そう言えば、小学校に上がってから、蛍と遊ぶ機会がめっきり減った。別に示し合わせた訳でもないし、蛍が嫌いな訳でもないけど…この感覚は、久しぶりだなぁと思う。
「そうだね、折角のお祭りだもんね!…ところで陽ちゃん」
「ん?」
「さっきから、何で私のこと見てくれないの?」
それはさ、わからないながらも、多分蛍よりはわかっているからだと思う。見慣れない蛍の浴衣姿に、ペースを崩されてしまう位には。
「そんなこと、ないよ」
意識して蛍の目を見るようにしたけど、やっぱり少し、ぎこちなかったかもしれない。今考えると、蛍が浴衣で来るなんて考えもせずに、友達の策略に乗ってしまったことは浅はかだったと思う。
つい先程まで、よれたTシャツを気にすることなく、洒落っ気のないチノパンのポケットに手を突っ込んで、蛍が来るのを待っていた。小奇麗な和菓子みたく、ちんまりまとまった蛍を目にした時は、目が丸くなった。紫の生地に咲いている藤色の花の周りに、白い蝶が優雅に舞っている。その上にちりばめられている緑がかった黄色の丸は、蛍の光…なんだろうか。とにかく、女の子の浴衣の柄に詳しくない男の俺にも、一見して珍しい柄だということはわかった。生地が儚い夜色だからだろうか。それとも柄絵が複雑で繊細だからだろうか。何だか蛍が深窓のお嬢様のように見えて、がさつな格好の俺が側にいるだけで壊してしまいそうで、非常に落ち着かない気分になった。ただのおかっぱだと思っていた蛍の黒髪が、意外に艶があるように見えたのも、きっと普段と違う装いだからに違いないと決め付けた。
だけど幸いなことに、祭りの会場が近くなり、周囲の景色が賑やかになるにつれて、少しずつ動揺が収まってきた。例えば、普段は車が走っている道路を封鎖して、道の中央に置いた神輿を人々がぐるっと囲んでいるのを見ると、これから本格的に祭りが始まるんだなという心地良い胸騒ぎがして、気分が高揚してくる。食べ物屋の屋台からは夏の時期特有の香ばしい匂いが漂ってきて、高揚感が更に加速する。店主のお客に向けた声も、活気があっていい。こうなってくると、夏の空気を胸一杯に吸い込みながら、屋台を冷やかしたり、遊びの計画を考える方に夢中になっていく。俺は夏祭りが好きだった。友達全員からドタキャンされた後、蛍に断られたとしても、躊躇わずに一人で出かけていただろう。でもそれは、蛍も同じだったようだ。
「陽ちゃん、どうする?何して遊ぼうか?」
「そうだなぁ」
ここは定番の金魚すくいか。いや、輪投げも射的も捨てきれない。迷うなぁ。お小遣いは、限られている訳だし。
「蛍は、どうする?」
「私、まず水風船が欲しいな」
「水風船…って、ヨーヨーか?」
俺は、ヨーヨーの魅力は、いま一つ良く分からなかった。だって上手く取るのが難しい割には長持ちしないしさ。その点では金魚掬いの方がずっとやりがいがあるってものだ。
「ちょうどそこにお店があるから、行っていい?」
「あ、一緒に行くよ」
「そう?」
蛍は元気良く屋台目がけて駆け出して行く。俺はその後ろ姿をポケットに両手を突っ込んでのんびりと追った。蛍がヨーヨー掬いに夢中になる姿は、結構興味があった。多分掬えないだろうから、その時はドジぶりを笑ってやろうかな…なんて考える俺は、意地悪かもしれない。頭に鉢巻きを巻いた屋台のおじさんが、蛍の目線に合わせて景気良く尋ねてきた。
「へぃ、いらっしゃい!お嬢ちゃん、何回やる?」
「まずは一回で!」
蛍は元気良く返事をして、おじさんの掌に100円を載せた。「まずは」と宣言しているからには見物である。俺は後ろで蛍のお小遣いが減って行く様を、見届けなければならないのか。当の蛍とは言えば、ちょこんとしゃがんで既に戦闘態勢に入っている。狙いは、ピンクの水風船…色に似合わず、涼しそうな汗をかいている。手で付いたら、気持ち良さそうだな、と思った。俺が考えにふけっていると、ポチャンと景気のいい音がした。
「あっ!」
「お嬢ちゃん、惜しかったね」
「も、もう一回もう一回!」
俺が思った通りの展開が待ち受けていた。そもそも、ぶきっちょな蛍に不向きの遊びなんだよな。あぁ、そんなに手が震えてたら、取れるものも取れないぞと思っていたら、予想通りの結果になった。景気のいい水しぶきの音ばかり聞こえてくるものだから、だんだん俺は見ていて歯がゆくなった。
「おじちゃん、俺も一回やらせて」
驚く蛍の横に屈んで、俺も狙いを定めた。蛍を散々手こずらせた相手は、悠々とこちらをあざ笑うように水に浮いていた。何だか偉そうなその姿に腹が立って、絶対取ってやるって気になった。
「見てろよ蛍。俺は、金魚掬いは結構上手いんだぞ」
あくまで金魚掬いの話ではあるのだけど…それでも、蛍よりは上手くいった。一度の失敗だけで、次はちゃんと仕留めることが出来た。…って俺、こんなの取っても遊び甲斐がないって思ってたばかりなのに、何やってるんだろう。まんまと蛍に釣られて、馬鹿みたいだ。
「やるよ」
「え?」
「俺、使わないし。元から欲しかった訳じゃないし」
俺が腕を伸ばした先、冷やしたての桃みたいな水風船を見た蛍の顔が、ぱぁっと明るくなった。
「ありがとう陽ちゃん!」
きらきらした笑顔を見せられて、言葉に詰まった。今日、最初に蛍の浴衣姿を見た時に戻ったような戸惑いを自分でも扱いきれなくて、思わず蛍に背を向けて言った。
「…じゃあ、次は俺に付き合えよ」
「うん」
蛍の前に立って歩き始めると、後ろから陽気な下駄がついてきた。俺は自分の気持ちを落ちつけたいがために、意識が祭りに向かうよう、わざと食べ物の名前を列挙し始めた。
「お腹すいたから、何か食べようかな。焼きそば、たこ焼き、焼きトウモロコシ…」
一方でもう、ごまかしは効かないような気がしていた。
「あ、いいねぇ。私も食べたい」
桃色の水風船を弾ませるのに夢中な蛍を横目で見て、何だか心臓が彼女の掌の上にあるような錯覚を覚えて、更に息苦しくなった。蛍に釣って寄こしたのは、桃色の水風船なのか、はたまた俺の心なのか。俺は、まるで水風船のように冷や汗をかいた。
加筆修正しました。(2011/10/10現在)