扉を見たら
扉を見たら
扉を見たら
アパートの自室に戻り、何気なく玄関の扉を見た瞬間、ハルトは心臓が跳ね上がるのを感じた
白いドアの真ん中に、見慣れない文字が几帳面に書かれた紙が貼られていたのだ
『家賃祓』
「家賃……はらい? 徴収じゃなくて、お祓いの方の『祓』……?」
ハルトは思わず眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。毎月、家賃は指定の口座から全問パーフェクトに引き落とされているはずだ。滞納など一度もない
恐る恐るその紙に手を触れようとしたその時、背後から衣服の擦れる優しい衣擦れの音が響く
「ハルトくん、どうかしたの? なんだかお顔がクシャクシャになって、生きた心地がしていないみたいよ」
同居人のソラが、湯気のふんわりと立ち上る温かいジャスミン茶の入ったコップをそっと机に置きながら、包み込むような声で話しかけてくれた
「ソラちゃん、これを見てくれ。扉に変な書き置きが……。これじゃ怖くて、お部屋の中で焦らずに息を吸うこともできないよ」
ハルトがトホホと弱音を漏らすと、ソラは目を大きく見開いて、その紙をじっと見つめた。そして、ハルトの少し冷たくなっていた手を自身の両手で大切にぎゅっと包み込み、ひまわりのように微笑んだ
「大丈夫よ、ハルトくん。あなたは毎日、自分でも驚くほどに見事にがんばって、お家の掃除も車の手入れもルール通りにこなしているもの。何一つ間違っていないわ。だから、まずはゆっくりと深呼吸をして、この温かいお茶の香りを胸いっぱいに吸い込んでみて。はい、すー、はあ」
「すう……はあ……。すう……はあ……」
酸素が全身を巡り、胸を支配していた暗い不安の霧は一気にすうっと引いていった
「ありがとう、ソラちゃん。でも、この『家賃祓』って一体……。僕のちいさな力ではどうにもならない現実の怪異(社会の闇)なのかなぁ……」
「諦めちゃだめよ、ハルトくん。そんな時こそ、私たちの生活を公正な立場で守ってくれる『セーフティーネット』に頼るのよ。ほら、背筋をしゃんと伸ばして真っ直ぐにドアを開けてごらんなさい。ほら、あの人が来ているわ」
ソラが指さす先、インターホンが鳴るのと同時にドアが開いた。そこに立っていたのは、バケツとホウキを両手に持った、大家のケンジだった
「よう、ハルト! 全問大正解のタイミングで部屋にいたな! わっはっはっ!」
ケンジは豪快で大きな笑い声を響かせながら、悪びれもせずに上がってきた
「ケンジさん! 驚かせないでおクレよ! このドアの『家賃祓』って一体何なんだい?」
ハルトが尋ねると、ケンジは頭を掻きながら笑った
「あぁ、それか! いやな、最近このアパートの周辺で、変な都市伝説が流行っててな。『家賃を滞納すると、夜中に謎の黒い霧が部屋に満ちて、住人が無酸素運動みたいに苦しみ出す』なーんて噂が流れて、みんな強い不安で夜も眠れないって言うんだよ。だから俺が大家のルール(鉄の家訓)として、お守り代わりに全戸のドアへ『家賃の悪霊退散!』って意味を込めて紙を貼って回ってたんだ!」
「……それなら『家賃払』じゃなくて、神主さんのお祓いの『祓』にしたのは?」
「そりゃお前、お化け退治なんだから『お祓い』の『祓』だろ! 漢字のテストなら全問パーフェクトな大逆転のひらめきだと思ったんだがなぁ!」
ケンジのあまりにもトホホな勘違いっぷりを聞いた瞬間、ハルトとソラは思わず顔を見合わせ、それからお腹の底からぽかぽかと温かくなるような大爆笑に包まれた
「なんだ、ケンジさんの悪戯みたいな書き間違いだったのか! 僕はてっきり、恐ろしい地獄の罠に嵌まったのかと思ったよ!」
ハルトが俯いていた体を起こし、背筋をしゃんと真っ直ぐに伸ばすと、その顔にはまばゆい朝陽のような最高の元気と笑顔が実に見事に取り戻されていた
様子を覗いていた近所のキヨコたちも集まってきて、「なんだ、ケンジの漢字間違いか! わっはっはっ!」と豪快な笑い声が夜風と共に響き渡り、お家の中は一気に笑いの絶えないハッピーエンドのぬくもりで満たされた
夜になり、すべての丁寧な準備を終えて電気毛布でひだまりのように温められた寝具にもぐり込む頃、窓の外には驚くほど大きくて綺麗な満月がぽっかりと浮かび上がり、日常生活の楽しさを取り戻したハルトたちの未来を、いつまでもぽかぽかと温かく、優しく照らし続けるのであった
乙
扉を見たら




