団地に王女が来た日、洗濯物は乾いた
ベランダに、見慣れない歪みができたのは火曜日だった。
洗濯物を干していた玲子は、それを一瞬、洗剤の泡が目に入ったのかと思った。まばたきをする。歪みは消えない。空間の一角が、水面のように揺れている。
その揺れの真ん中に、白い紙が一枚、浮かんでいた。
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玲子はその紙を、洗濯ばさみでベランダの手すりに留めた。飛ばされると危ないからだ。それから続きのシーツを干した。
夕飯までに三品作らなくてはいけない。夫は帰りが遅く、娘は塾、息子は部活で腹を空かせて帰ってくる。歪みのことは、その日のうちに忘れた。
木曜日、張り紙が増えていた。
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玲子は醤油と味醂の減り具合を確認しながら、それをちらりと見た。十歳若返るなら、腰は少し楽になるかもしれない。
だが今日は資源ごみの日で、分別を間違えると近所のマダムに睨まれる。ペットボトルのキャップを外し、ラベルを剥がしながら、玲子は歪みに背を向けた。
翌週にはさらに増えていた。
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「へえ」と玲子は言った。それだけだった。米を研ぐ手は止まらなかった。
土曜の朝、玄関のチャイムが鳴った。
立っていたのは、羽の生えた小さな女が一人。妖精だった。花のようなドレスを着て、宙に浮いている。
「玲子さん、そろそろお返事をいただけませんか。世界があなたを必要としているんです」
「今日は運動会のお弁当があるので」
「たった一言で構いません。イエスか、ノーか」
「卵焼き、冷ましてる最中なんです。焦げると子どもが機嫌悪くなるので」
妖精はしばらく玄関先で粘ったが、玲子が卵焼きの粗熱を取りながらタコさんウインナーに切り込みを入れ始めると、ため息をついて空に消えた。
その日の運動会で、玲子の作った弁当は近所のお母さんたちに絶賛された。異世界のことは誰にも話さなかった。話すことでもない気がした。
異変が本格化したのは、それから半月後だった。
朝、リビングに見知らぬ男が突っ立っていた。鎧を着て、剣を腰に下げている。
「ここはどこだ」
「うちのリビングです。靴、脱いでもらえますか」
騎士は靴を脱いだ。靴下に穴が空いていた。
「繕いましょうか」
「……頼めるのか」
玲子は裁縫箱を出した。騎士は針を持ったこともないと言った。剣は握れるのに、針は持てない。玲子はその落差について特に何も言わず、ただ黙々と穴を塞いだ。
次の週には魔法使いが来た。杖の柄がぐらついていた。木工用ボンドで直した。
その次には王女が来た。脱いだドレスをそのまま床に置いて、次の服をよこせと言った。玲子はドレスを拾って畳んだ。王女はそれを見て「まほう」とつぶやいた。
「ただの家事です」
「まほうです」
議論しても仕方がないので、玲子は放っておいた。
騎士と魔法使いと王女は、いつのまにか居着いていた。
食事は玲子が作った。洗濯も玲子がした。騎士は皿を洗ったことがなく、魔法使いは掃除機をかけたことがなく、王女は自分の靴下がどこにあるかすら知らなかった。
「向こうの国では、誰がこれをやってるんですか」
「誰も」と魔法使いは答えた。「壊れたものは壊れたまま積んである。塔の地下には、直らない杖が山ほどある」
「食堂では、誰も皿を洗わないので、新しい皿が届くまで全員待っています」と騎士。
「お城では、脱いだ服がどんどん積み上がって、しまいにはクローゼットの扉が閉まらなくなりました」と王女。
玲子は洗い物をしながら、それを聞いていた。何も言わなかった。ただ、洗剤の泡立ちが少し悪くなっていることに気づいて、詰め替え用を買い足すメモをキッチンの壁に貼った。
家族三人と、異世界からの居候三人。玲子は毎日六人分の食事を作り、六人分の洗濯をし、六人分の部屋の片付けをした。
夫は「大変そうだね」と言いながら、テレビを見ていた。娘と息子は「お母さんすごい」と言いながら、宿題をしていた。誰も手伝わなかった。手伝う発想自体がないようだった。
ある朝、玲子は台所の床に座り込んだ。立てなかった。
救急車で運ばれた病院のベッドの上で、玲子はしばらく天井を見ていた。誰もいない天井だった。それが久しぶりに静かで、少しだけ心地よかった。
玲子が入院している三日間、家は機能を停止した。
洗濯物は溜まり、シンクには皿が積まれ、騎士と魔法使いと王女は互いに「お前がやれ」と言い合い、結局誰もやらなかった。夫はコンビニ弁当を買ってきたが、容器を洗わずに流しに突っ込んだ。
四日目、玲子が退院して家に戻ると、夫が洗濯物を取り込んでいた。
畳み方はひどかった。タオルの角がどれも合っていない。ハンガーにかけたシャツは全部裏返しのままだった。
「明日からは自分でやる」とは、夫は言わなかった。
ただ、不格好なタオルの山を、黙って玲子に差し出した。
玲子はそれを受け取って、黙って畳み直した。一度で終わるとは、玲子は思っていなかった。
その晩、ベランダの歪みが大きくなっていた。歪みの向こうから、光る影が現れた。
小さくない神、というふれこみの、白い衣をまとった何かだった。
「玲子さん。この世界を救ってほしいのです。あなたが転生すれば、崩壊は止まります」
玲子は答えなかった。
台所から、使い古した大学ノートを一冊持ってきた。表紙には油染みがついている。開くと、几帳面な字で、当番表、買い出しのローテーション、誰が何を苦手か、誰の体調が崩れやすい時期か——玲子が何十年もかけてつけてきた、家を回すための帳面が並んでいた。
そのノートを、崩れかけた王国の閣議の机に置いた。閣議の様子は、歪みの向こうにぼんやり透けて見えていた。玲子にはもう、それが特別なことだとは思えなかった。台所から一歩踏み出すのと、境界をまたぐのとが、同じくらいの重さになっていた。
閣僚たちが顔を寄せ合い、ノートを覗き込んだ。
玲子はそれ以上何も言わずに、洗濯かごを取りに戻った。
*
翌朝、ベランダの張り紙は書き換えられていた。
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玲子はしばらくそれを眺めた。
それから洗濯ばさみを一つ取り、張り紙の下に挟んだ。風で飛ばされないように。
騎士も魔法使いも王女も、まだリビングにいる。皿はまだ洗われていない。夫のタオルは、まだ角が合っていない。
玲子はいつも通り、洗濯物を干し始めた。
夕方五時までに戻るのか、それとも今日はもう干し終えたら夕飯の支度をするだけなのか——それは、玲子自身にもまだ分からなかった。
(了)




