見捨てられた令嬢は、父の肖像画に導かれる —忠実な元従僕と取り戻す、幸福な家—
もう、終わりにしよう。
私は、ひどく弱った脚を必死に動かし、半地下の部屋からここまで上がってきた。一段登るごとに脚が震え、息が苦しい。
目の前には、小さな天窓。あそこから身を投げれば、泥濘のような日々から抜け出し、愛する父の元へ行ける。
私は冷たく響く床を窓際へと歩み寄った。
*
かつて、私、クラレンス・フィラーは幸福な子爵令嬢だった。
家族の笑い声が絶えない家で育ち、将来は領地を支える身として、学ぶことのすべてが輝いて見えた。
平穏が崩れたのは、父が王立図書館の事故で急逝したあの日だ。
深い喪失感の中、母デリラと手を取り合い、「この家を守り抜こう」と誓い合った。母は子爵代理として奔走し、私は次期子爵としての学問に没頭した。……少なくとも、そのつもりだった。
違和感は、母の装いに現れた。
日に日に濃くなる化粧。不釣り合いなほど派手なドレスと宝飾品。夜会から戻る時間は、夜明け近くまで遅くなっていった。
「子爵代理としての務めよ。望んでやっているわけじゃないわ」
母はそう吐き捨てたが、その瞳には焦燥と、見たこともない高揚が混じっていた。不安に駆られた私が「夜会を控えてほしい」と縋ったとき、母は豹変した。
「子供の分際で、親に指図するなんて。なんて生意気な娘なの!」
突き飛ばされた衝撃より、母の怒声に震えた。
それ以来、私は母の振る舞いから目を逸らし、ただ学問の書物に逃げ込んだ。十八歳になれば、すべてを正せる。正式に爵位を継ぐまでの辛抱だと、自分に言い聞かせた。
けれど、母が連れてきた一人の男が、その希望を打ち砕いた。
男爵家の三男だというその男は、母より十歳以上も若かった。母は彼に、見たこともない媚びた笑みを向け、男を邸に住まわせた。それはもはや恋ではなく、狂気と言ってもいい執着だった。
忠義心から諫言した執事は即座に解雇され、彼を慕っていた従僕たちも邸を去った。
ドン・ゲスナー。その男は、まるで主のように邸を闊歩した。
ある日、ドンは「侍女が自分を誘惑した」と母に吹き込んだ。幼い頃から私を支えてくれた彼女がそんなことをするはずがない。必死に庇う私を、母は容赦なく折檻した。泣きながら去っていく彼女の背中を、私はただ見送るしかなかった。こうして私の味方は一人ずつ、排除されていき、私は孤立無援となった。
ドンの侵食は止まらない。壁から父の肖像画が外され、父の愛用品や、その面影を感じさせる品々が次々と処分された。
そしてその矛先は、父の血を引く私自身にも向けられた。
ドンは再び、同じ嘘を母に囁いた。
「クラレンスが、私を誘惑したのだ」と。
逆上した母の手によって、私は半地下室へと突き落とされた。重い扉が閉まり、錠の降りる乾いた音が響く。それきり、食事は一切運ばれてこなかった。
喉の渇きは、石壁を伝う雨露を啜って凌いだ。空腹に耐えかね、窓の鉄格子越しに指を伸ばしては、土にまみれた雑草をむしって口に運んだ。
暗闇の中で、悟った。母は怒りに任せて、実の娘である私を殺そうとしている。
その瞬間、私の中で「母」という存在が音を立てて崩れ去った。あの女は、もはや母親ではない。デリラという名の、あまりにも愚かで身勝手な、自分とは無関係な一人の狂女だ。そう認識したとき、不思議と心は凪いでいた。
数日後、扉が開かれた。
引きずり出された私を、デリラとドンは汚物でも見るような目で見下ろした。解放を不服とするドンを、デリラが冷淡な声で宥める。
「仕方ないでしょう。領地経営が立ち行かなくなっているのよ。クラレンスなら専門に学んできたのだから、やれるはず。人を雇う余裕なんてないけれど、この子ならタダで使えるわ」
その日から、私は執務室に監禁された。山積みの書類を検分し、私は愕然とした。経営困難などという生易しい状況ではない。デリラが代理になって以来、何一つまともに処理されていなかったのだ。解雇されたあの執事が、いかに一人で支えてきたか……。デリラは、自分たちの生命線を自ら断つという、救いようのない愚行を犯していた。
怒りを原動力に、私は猛然と筆を走らせた。あの二人のためだと思うと反吐が出る。私はただ、路頭に迷うであろう領民たちの顔を思い浮かべることで、正気を保った。
不眠不休で働き、ようやく経営が軌道に乗りかけた頃。ドンが執務室に踏み込んできた。
「おい、もうそこをどけ。ここは明日から、次期当主である俺が使う」
耳を疑った。父の血を一滴も引かぬこの男が、当主になる?
困惑する私を、ドンは嘲笑とともに見下ろした。
「俺はな、デリラと養子縁組をしたんだ。彼女の『息子』としてな。つまり、この家を正当に継ぐのは、俺だ」
再び半地下室へ放り込まれたとき、私の中の何かが完全に切れた。
利用されるだけ利用され、家も、名誉も、未来も奪われた。
もう、生きていく気力さえ残っていなかった。
ある晩、二人が夜会へ出向く際、私に言い捨てた。
「私たちがいない間に掃除を済ませておけ」
解かれた錠の音を合図に、私は震える脚で半地下室を這い出した。
掃除などする気はなかった。もう、すべてを終わらせたかった。
屋根裏の窓から身を投げれば、この泥濘のような苦しみから解放され、父の元へ行ける。その一念だけで、私は一段ずつ、祈るように階段を登り詰めた。
物置と化した屋根裏部屋は、足の踏み場もないほど荒れていた。
埃にまみれたガラクタの隙間に、私はそれを見つけた。父の片手に乗るほど小さな肖像画だった。
あの男がすべて処分させたはずの父の面影。誰かがドンの目を盗み、ここに隠してくれたのだ。私は肖像画を抱きしめ、枯れたはずの涙を流した。
「お父様、今すぐそちらへ参ります」
肖像画を懐に入れ、窓枠に足をかけた、その時だった。
『クラレンス、待ちなさい』
はっきりと、父の声が鼓膜を震わせた。
驚愕して周囲を見渡したが、埃っぽい密室に人の気配はない。ただ、懐から取り出した肖像画の中の父が、穏やかに微笑んでいるように見えた。
『よくお聞き。そこに縄梯子がある。それを窓に掛け、ゆっくりと降りるんだ。川の向こうに小さな家がある。かつてうちにいた従僕が、お前を心配してときどき様子を伺いに来ている。彼ならお前を匿ってくれるはずだ』
私は部屋を探り、見つけ出した縄梯子を窓枠に固定した。一度は死を覚悟した身だ、恐れるものなどないはずだった。けれど、夜風に揺れる縄にしがみつく指先は、本能的な恐怖で白く強張った。
(もう怖いものなどない)
自分に言い聞かせ、必死に梯子を降りる。自分にこれほどの力が残っていたのかと驚くほど、私は生にしがみついていた。
地面に降り立ち、折れそうな膝を叱咤して川へ向かった。橋を渡った先に、ぽつんと明かりの灯る家が見える。最後の一歩を絞り出し、その扉を叩いた。
「……クラレンスお嬢様!?」
中から現れたのは、元従僕のショーンだった。
幽霊でも見るような顔をしていた彼は、私の惨状を察するやいなや、即座に私を中へ招き入れた。
差し出された温かい食事を無我夢中で平らげ、用意された湯に身を沈めた。こびりついた汚れを落とし、清潔な男物の服に袖を通す。ショーンが整えてくれた寝台に横たわった瞬間、私の意識は深い闇へと落ちていった。
翌朝、天窓からの陽光で目を覚ました。
枕元の肖像画に手を伸ばそうとしたが、指先一つ動かない。全身を鉛のような倦怠感が支配していた。
「今までの苦労が、一気に噴き出したのでしょう」
ショーンは柔らかな微笑みを浮かべ、動けない私の体を支えてミルク粥を口に運んでくれた。
それから、少しずつ、少しずつ回復していった。
ショーンは何も聞かずにいてくれたが、私はぽつり、ぽつりとこれまでの出来事を話し始めた。言葉にするたび、胸の奥の澱が少しずつ流されていくようだった。
やがて身の回りのことができるようになり、家事もこなせるようになった頃。私の心に、一つの決意が芽生えた。
いつまでも彼の親切に甘えているわけにはいかない。私は自分の足で、一人で生きていかなければならないのだと。
そんな折だった。
「お誕生日、おめでとうございます!」
ショーンが、不器用ながらも温かみの伝わる手作りケーキを差し出してくれた。その献身的な優しさに胸がいっぱいになり、泣きそうになるのを必死でこらえていた。
そのとき、空気を震わせるように、もう一つの声が響いた。
「誕生日、おめでとう」
私は弾かれたように、肌身離さず持っていた懐の肖像画を取り出した。描かれた父の顔が、見たこともないほど嬉しそうに崩れている。
あの日以来、沈黙を保っていた肖像画。私はあれを、死に際に見せた幻聴だったのだと思い込もうとしていた。隣ではショーンが、驚愕のあまり石のように固まって凝視している。
「待ちに待った十八歳だね。本当によく頑張った」
堪えていた涙が、溢れて止まらなくなった。
「お父様……っ」
「ショーン、娘を救ってくれて本当にありがとう」
「……いいえ、旦那様。当然のことをしたまでです」
震える声で答えるショーンに、父は満足げに頷いた。
「今日で話せるのも最後だ。ショーン、娘を頼むよ。クラレンス、どうか幸せに」
その言葉を最後に、肖像画が私の手から滑り落ちた。まるで自分から身を躍らせるように。床に当たった衝撃で額縁が砕け、鈍い音が部屋に響く。
私は慌ててそれを拾い上げた。その時、壊れた額縁の裏板と絵の隙間から、古びた紙切れが滑り出してきた。
震える手で広げると、そこには父の直筆で、フィラー子爵の地位、領地、そして全財産を娘クラレンスに継承させると、明確に記されていた。
私たちはその遺言書を手に、すぐさま王宮へと向かった。
父が残した「備え」は完璧だった。法的な手続きは速やかに完了し、私は正式にフィラー女子爵として認められた。
騎士団を伴い、私はかつての邸へと戻った。
玄関から現れたのは、あの二人――デリラとドンだ。
「今さら何の用だ!」
「しぶとい娘ね、野垂れ死んだと思っていたのに!」
口汚く罵る二人の前に、騎士が一歩踏み出し、王宮の正式な文書を突きつけた。クラレンスこそが正当なるフィラー子爵である、という宣告。
「そんなはずはない!俺はデリラの養子だ、俺がこの家を継ぐんだ!」
逆上して暴れるドンを、騎士たちは一瞬で組み伏せた。
一方、呆然と立ち尽くしていたデリラは、状況を察するや否や、醜悪な愛想笑いを浮かべて私に擦り寄ってきた。
「ああ、よかったわ。これからもお母様と仲良く暮らしましょうね、ねえ?」
差し出された手を、私は冷たく振り払った。
「デリラさん。あなたには、行くべき場所があります」
彼女が困惑した顔を見せた瞬間、騎士がその肩を掴んだ。
「虐待の疑いで連行する」
罪を告げられたデリラは、獣のような叫び声を上げて私に飛びかかろうとしたが、すぐに取り押さえられた。甲高い罵声が遠ざかっていき、邸にようやく静寂が訪れる。
私は隣に立つショーンに向き直った。
「あなたの家は、とても居心地が良かった。けれど……私は領主として、ここに戻らなくてはならないわ。もしよかったら、これからも私のそばにいてくれないかしら?」
精一杯の勇気を振り絞って伝えると、ショーンは深く、優雅に頭を下げた。
「もちろんです。一生お仕えいたします、私のお嬢様」
差し出された彼の手をとり、私は懐かしい我が家の門をくぐった。
私は領地の立て直しに心血を注いだ。
ショーンは執事として、常に私の傍らで支えてくれた。あの日、精一杯の気持ちを込めた私の言葉を、彼は「雇用の継続」として受け取ったようだった。彼の真意は測りかねたが、今は恋に浮ついている暇などなかった。
邸の帳簿は、目を覆いたくなるほどの惨状だった。一体何にこれほど浪費したのか……。そう頭を抱えていたある日、一人の男が邸を訪ねてきた。
「おい、ドンを出せ」
男はひどく粗野な口調で言い放った。不在を告げても男は引き下がらず、「なら、金を用意しておけと伝えろ」と凄んでみせた。
その不穏な様子に危うさを感じたショーンが、詳しく事情を聴こうと踏み出した、その時。男はいきなり懐からナイフを取り出し、ショーンへと斬りかかった。
「ショーン!」
叫び声が響く中、ショーンは何とか男を組み伏せたが、その腕からは真っ赤な血が溢れていた。私は震える手で使用人たちに指示を出し、医者と騎士を呼びに走らせた。
男は騎士に連行されたが、ショーンの傷は深かった。その夜から、彼はひどい高熱に浮かされ、生死の境を彷徨うことになった。
数日後、騎士から戦慄すべき報告が届いた。
あの男は、ドンを脅迫していたのだという。あの日、王立図書館の吹き抜けの階上から、下にいた父を目掛けて重い本を落とし、殺害するドンを目撃したからだと。
父を殺した動機のあまりのくだらなさに、私はめまいに襲われた。「図書館で騒いでいたのを注意されたから」。ただそれだけの理由で、父の命を奪い、母を誘惑し、家を乗っ取ろうとしたのだ。
ドンには死刑が宣告された。それを獄中で聞いたデリラは半狂乱になり、独房の壁に何度も頭を打ち付けて果てたという。
その報を聞いても、私の心には何の感慨も湧かなかった。
今の私にとって、世界で一番大切なのは、目の前で苦しむ恩人の命だ。錆びた刃による破傷風。絶え間ない痙攣と高熱に耐える彼を、私は片時も離れず看病した。彼を失うかもしれない恐怖で、一分一秒が一年に感じられるほど長い日々だった。
十日ほど経った頃、ようやく嵐が過ぎ去るように症状が落ち着いてきた。少しずつ、食事も摂れるようになっていく。
私は、彼の細くなった手を握りしめ、意を決して切り出した。
「もう、あんな恐ろしい思いをするのは嫌です。あなたを失うかもしれないと思うと、生きた心地がしませんでした。ショーン、お願いです。執事としてではなく、私の『伴侶』として、ずっと側にいてください」
ショーンは驚いたように目を見開き、やがて面窶れした頬を朱に染めて、力なく笑った。
「……元気になったら、私の方から申し上げようと思っていたのですが。お嬢様には敵いませんね」
それから、私たちは手を取り合って新しい家族を築いていった。
かつて虐待と絶望に染まったこの邸は、今、新しい色に塗り替えられている。
庭を駆け回る、たくさんの子供たちの笑い声によって。
一人が狂って、家族全員を不幸にしていくことってありますね。
うちでもありました。
そこから抜け出せる日も来ました。
悪いことばかりじゃないと思います。




