表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

言葉の外側

作者: 鏡野 一离
掲載日:2025/10/22

 あーしんどい。

 演劇部の稽古を終え家に帰ったとき、玄関の空気がやけに冷たく感じられた。

 部屋に足を踏み入れると、母の気配が台所にあり、いつもより小さな声で「おかえり」と言った。

 その声が、何かを隠しているのだとすぐに分かった。

「ただいま」

 靴を脱ぎ、かかとを揃える。少し足取りが重い。

 自室のドアを開けると、ケージの底にモナが横たわっていた。

 小さな羽が乱れて、呼吸の気配はどこにもなかった。

 ついさっきまで温もりを残していたであろうその身体は、あまりに軽々しかった。

「……モナ」

 名前を呼ぶ声は、自分のものではないように震えていた。

 手を伸ばしても反応はなく、硬く閉じられた瞼がその死を決定づけていた。

 わたしはその場に膝をつき、涙が溢れるままに流れ出るのを止められなかった。


 思い出が一気に押し寄せてくる。

 モナが初めておはようの挨拶をした朝のこと。

 小さな体でわたしの頭に止まり、耳元で何度も「アーシンドイ!アーシンドイ!」と繰り返した声は、会話になっていなかったけれど、くすぐったくて、世界で一番嬉しいおはようの挨拶だった。

 夏の午後、窓から差し込む光の中で羽ばたきながら、何度も失敗しては机の上に落ち、わたしが手を差し伸べると、安心したように胸の前にすっぽりと収まったあの日の温かさを、今でも覚えている。

 誰よりも先に朝を分け合ってくれる存在。誰よりも近くでアーシンドイを聞かせてくれる存在。

 それが、もう二度と戻らない。


 泣き疲れて床に座り込んでいると、父が部屋に入ってきた。

 黙ってケージを覗き込み短く息を吐いた。

「……命ってさ、唐突だよな」

 それだけを言って、視線を外した。慰めのつもりではなかったのだろう。

 母は古いハンカチを持ってきて、その場にしゃがんでいたわたしの肩にそっとかぶせた。

「この布で包んであげなさい」

「…うん」

 わたしはうなずき、モナを布に包んだ。

 小さな体は手の中で壊れてしまいそうだった。

 庭に出ると、夕暮れが始まっていた。

 父がスコップで土を掘り、母がその隣で黙って立っている。

 わたしは布に包んだモナをそっと土の中に置いた。

 指先に残る感触は、たしかにそこに生きていたものだった。


 ただ、不思議と涙はもう出なかった。

 悲しみはあるのに、それ以上に奇妙な感情が胸を満たしていた。

 モナに対する哀れさともいえる感情だった。


 インコという生き物は、同じ言葉しか話せない。

 意味を理解しているわけではなく、ただ繰り返すだけ。

 涙を出し切った今は、その無意味さが胸を刺す。

 言葉を真似るだけで、世界の意味に触れることもなく終わる命。

 その哀れさがわたし自身に重なった。

 舞台の上で、与えられた台詞を繰り返すだけのわたし。

 主役と呼ばれても、それはわたし自身ではなく、役柄の仮面をかぶった誰か。

 意味を理解しているようで、実際にはただ与えられた言葉をなぞっているだけ。


 …ただ、そんな言葉でもわたしは感動できた。今日、涙を流すことができた。

 頷きつつ首を振るような、そんな感情だった。


 父はスコップを置き、手を合わせた。

「だいぶ長く生きてくれたよな。」

「天音が6歳の頃だから…。大体11年よね。」

 わたしは土に視線を落とし、声を出さなかった。

 そこに眠る小さな命は、もう声を返してはくれない。

 だが、わたしの胸には確かに残っている。モナの声も、羽の温もりも。

 わたしは、手を合わせながら心の中で呟いた。「モナ、ありがとう」。

 その言葉は口には出さなかった。声にしてしまえば、軽くなってしまう気がしたから。

 言葉にならない重さこそが、いまのわたしには必要だったのだ。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 昨日、モナが死んだ。

 それでも世間は知らぬ顔で運動し、こちらの事情などそっちのけでわたしの背中を押してくる。

 放課後の体育館ほど憂鬱を感じさせる空間はない。今日の稽古も憂鬱だ。

 最近、稽古のたびに同じ台詞を口にしているせいか、ふとした瞬間にそれが自分の言葉なのか役の言葉なのか分からなくなる時がある。


『花冠を継ぐもの』――わたしたちが今度の文化祭で上演する劇のタイトルだ。

 王の死によって揺れる小国の物語で、主役は「セルフィア」という王女。

 王冠を継ぐことを誰もが望んでいるのに、彼女は王である自分とわたしとしての自分の狭間で迷い続ける。

 結局、彼女は王位から逃げない決意をし、王座へ向かう。それがこの芝居の大筋だ。


 主役は、セルフィア。

 そして、その役を演じるのは、わたしだ。


 体育館の舞台に一歩足を踏み入れた瞬間、わたしは天音ではなくセルフィアになる。

「……わたしは、王になるために生まれたのではありません」

 そこにいる誰かを説得するような、あるいは自分自身を説得するような声だったと思う。

「わたしを捨ててまで王であれと言うのなら……それは、あまりにも残酷です」

 足元に伸びるわたしの影が、セルフィアと重なる気がした。

 誰かに選ばれることが幸福だと思っていた。

 けれど、選ばれるということは、同時に他の何かを諦めるということでもある。

「それでも、わたしは王として、この国の未来と共にあらねばならぬのですね…」

 台詞を終えると、稽古場の時間がゆっくりと戻ってきた。

 稽古だから拍手も歓声もない。けれど、静けさの中で自分の鼓動だけがやけに大きく響いている。


 香月先生は足を組み、手にしていた台本をくるくると丸め、筒状にしてから口元へ当てた。

 その姿はどこかテレビ局のディレクターのようで、悔しいがなかなか様になっている。

「いいね、いまの間。真柴、その呼吸でいこう。ところで天音」

 名前を呼ばれるといつも体が反射で跳ね上がる。

「君の立ち位置はここ。光がきれいに入る。顔を正面に。」

 わたしは先生が指さす方向に移動し、顔を正面に向けた。照明がわたしをぎらぎらと照らす。

「そう、主役の顔だ。」

 主役の顔ってなんなんだろう。と思い巡らす暇もなく、先生は間髪を入れずに捲し立てる。

「さっきの“この国の未来と共にあらねば“の台詞少し甘い。君はもっと観客を信じていい。彼らは君の言葉で呼吸する」

 君の言葉で呼吸するなんて、40過ぎた大人が恥ずかしげもなく口にできる言葉じゃない。

 と、喉の奥にそんな言葉がつっかえて、代わりに笑顔が出る。器用に笑える自分が嫌いになる。

「すみません、もう一回お願いします」

 わたしはステージ中央にあるバツ印のテープを右足で踏み、また演技を始めた。


 主役、主役、主役。この言葉を、ここ数週間で何度聞いただろうか。

 はじめのうちはくすぐったくて、少し誇らしくもあった。

 けれど、今ではそのひとつひとつが鉛のように胸の奥へ沈んでいく。

 本当に、わたしじゃないとダメなのか。わたしはわたしらしく舞台に立てているのか。

 考えれば考えるほど、息が詰まる。

 彼らが求めている主役は、わたしという人間じゃない。

 ただ都合よく用意された、主役という名前の役柄だ。

 勿論、役があってわたしたち演者は演技が出来るということも分かっている。

 けれどもわたしは、その役に自分を押し込めて、潰れてしまいそうになっている。

 光であることを望んだわけじゃないのに、暗闇の中で照らし続けることを当然とされるのがこんなにも苦しいなんて。


 舞台中央のバツ印を見つめながら、わたしは小さく息を吸い込んだ。

 決められた立ち位置、決められた動き。いつも通りの正解が、床の印としてそこにある。

 けれど今日は、その印の半歩前へと足が勝手に出た。


 袖口をひとつ、ゆっくりと握る。袖を摘むその仕草は、台本にはない。

 視線も、定められた角度から外れ、いつも以上に少しだけ上を向く。

 胸の奥がざわついた。稽古場の空気がわずかに変わるのがわかる。

 誰も言葉を発していないのに、視線だけがこちらに集まり始める。

 やってはいけないことをしているという感覚と、自分を取り戻しつつある感覚がせめぎ合い。

 足元の影が、いつもと違う形に伸びているのに気づく。

 それは役の影ではなく、わたしの影だった。

 その影を踏みしめるようにして、わたしはもう一度動いた。

 台本にはない、けれど確かに自分のセルフィアとして。


 それもつかの間、丸めた台本をわたしに突きつける。お決まりのポーズだ。

「君が舞台の中心に立つと、周りが君に合わせてくるんだよ。稀有だ。だから動かないで。君が動けば、世界がずれるんだよ。」

「…先生」

 自分でも驚くほど小さい声だった。香月先生が振り返る。

「わたし、主役じゃなくてもいいです。わたしは主役の顔じゃなくて、わたしの顔でいたいです」

 演劇をやっている人間が発しているとは思えないセリフだと、そんなこと分かっている。

 一瞬、体育館の空調の風が止まった気がした。

 誰かが息を呑む音。先生は笑った。いつもの場を柔らかくする笑い方で。

「分かるよ。でもね、天音。舞台は君が君であるための場所なんだ。だからこそ、君が中心に立つ意味がある。自分を信じてごらん」

 君が君であるための場所。その言い回し、何度も聞いた。

 先生がいう君とは、セルフィアという主役像のことだ。わたしじゃない。

「……練習、続けます」

 立ち位置に戻る。みんな安心したみたいに声を出し始める。

 みんなは先生が好きだ。わたしだって、先生の「よくやった」は嫌いじゃない。

 でも、わたしは誰かの舞台の一部になるためにここにいるわけじゃない。

 光の中心に立って、その光のために演技をしているわけでもない。


 終礼のベルが鳴ると、みんな一斉に先生のところへ集まった。

「先生、今日どうでした?」

 わたしはその輪から半歩だけ退いて話を聞いていた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 部室棟の三階、誰もいない演劇部の部室。部活終わりにきまって窓際に腰をかける。

 開け放たれた小窓から外を眺めていると、遠くの街灯がぼんやりと滲んで見えた。

 一日の稽古が終わったばかりで、筋肉は重く、思考の輪郭さえ曖昧になっている。

「はあ…」と息を吐くと、それはため息というより、自分の一部が外へ流れ出ていくような感覚だった。あの街灯、いつもと同じ強さのはずなのに、今日はやけに遠く感じる。

 ただ、稽古中に無理やり振り絞った声の余韻だけが喉の奥に残っていて、「主役」という言葉が、乾いた鉄のように舌にまとわりついていた。

 わたしが「主役」だと決まった瞬間から、あらゆる視線がわたしの方へ集まってくる。

「君がいないと舞台が成立しないんだよ」

「頼む、主役はお前しかいない」

 ふと視線を下ろすと、部室の床に自分の影が小さく縮こまっているのが見えた。

 あれが本当のわたしの大きさなんじゃないかと思う。

 光の届かない場所で、誰にも気づかれず、ただそこにいるだけの影。

 わたしは、できることならそのままでいたいのかもしれない。

 今日の稽古は一段としんどかった。


「演劇、向いてないんだろうな。」


「なにそれ、今日いちばんの名台詞じゃん」

 不意に声がして、びくりと肩が跳ねた。

 振り向くと、ドアのところに萌衣が立っていた。

「な、なんでいるの」 「たまたま忘れ物。っていうか、天音こそなに黄昏てんの。主役様がそんなこと言ってたら聞いた方が困るんだけど」

 萌衣は勝手知ったる様子でわたしの隣に腰を下ろし、鞄を床に置くと足をぶらぶらさせながら天井を仰ぐ。

「今日のアレさ」

「…アレ?」

「袖口、つまんだやつ」

「…ああ」

 すぐに分かった。あの一瞬、台本にも演出にも書かれていない自分の動きが舞台に滲み出たことを。  思い出すだけで、胸が少しざわつく。

「なんか、いつもと違ったよね。らしくないっていうか」

「らしくない、か」

「うん。天音ってさ、いつも完璧な再現するじゃん。台本の。まるで、あ…人形みたいに」

 言葉の選び方に悪気はなかった。

 萌衣は本気で褒めているのだろう。

 けれど、その「あやつり人形」であろう響きが、自分の心の奥底を言い当てられたようで、胸の奥が少しだけ軋んだ。

「…気づいてたんだね」

「そりゃ気づくよ。だって一年のときからずっと見てるもん」


 わたしと萌衣は、入学してすぐ、たまたま席が隣同士になった。

 それだけの理由で仲良くなってその流れで「一緒に演劇部見に行かない?」と誘われたのが始まりだ。  萌衣は部活紹介で舞台に立っていた三年の先輩に一目惚れし、「あの人に会いたいから」というだけで入部を決めた。

 先輩はその年の秋には受験でやめてしまい、結局、萌衣が舞台に立つ理由はその先輩ではなくなった。

「なんとなく続けてる」という言葉を、萌衣はよく口にする。

 ただ、その背中からはいつも軽やかながらも覚悟が滲んでいた。


「今日、どうしたの?」

 萌衣はそう言って、わたしの顔を覗き込んだ。

「どうしたって?」 「いや、なんか変じゃん。アドリブとか入れたりしてさ」

 確かに、そうかもしれない。わたしはいつも求められる演技をしてきた。

 正確で、ぶれず、ミスもなく。そういう役者であろうと自分を押し込めてきた。

「ちょっと……やってみたくなったの」

「やってみたくなった?」

「うん。わたしの中のセルフィアを、っていうか……わたしを、舞台に出したくなった」

 口にしてみて、自分でも驚いた。

 萌衣はふーんと鼻を鳴らして、それから少し考えるような顔をした。

「まあ、今日くらいのアドリブなら、全然よかったと思うよ」

「ほんと?」

「うん。なんか、あ、天音って生きてるんだなって感じしたし」

「生きてるって、どういう意味?」

「うーん、いつもはさ、天音がセルフィアを演じてるっていうより、セルフィアが天音の身体借りてるみたいだったから」

 言われてみれば、わたしはずっと役のために自分を空っぽにしてきた。

 自分の感情や衝動は、演技の正確さを乱すノイズだと思っていた。

「でもさ」

 萌衣は言葉を続けた。

「アドリブって、やりすぎると大事故になるから気をつけなよ」

「うん、わかってる」

「今日くらいなら先生もいいじゃんって言ってくれそうだけど、あの人意外とそういうの厳しいからさ」  香月先生。君が動けば、世界がずれる。

  あの言葉が、今も耳の奥で残響していた。

 ずれてはいけない世界の中で、自分の輪郭を押し殺してきた。

 でも、本当にそれが正解なのだろうか。

「……ねえ、萌衣」

「ん?」

「もし、セルフィアが最後の最後に王にならないって言い出したら、どう思う?」

 萌衣は目を瞬かせた。

「は?台本変えちゃうってこと?」

「違う、そういうことじゃなくて。もっと中身の話」

「んー……あたしはよくわかんないけど、民衆はびっくりするんじゃない?」

 その「びっくり」という言葉が、妙に心地よく胸に残った。


「ま、今日くらいなら全然アリだと思うよ。香月先生もいいチャレンジだとか言いそうじゃん?」

「そうだね」

 萌衣は立ち上がり、鞄を肩にかけた。

「じゃ、また明日ね。あ、忘れ物あったんだった」

 窓の外の街灯は、さっきよりも輪郭をはっきりとさせていた。

 わたしは目を閉じて、その光の向こうを思い描く。

 今日のアドリブは、たしかに小さなチャレンジだった。

 胸の奥が、静かにざわめいた。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 学校を出ると、秋の風が頬をかすめた。

 街はまだ明るく、人々はそれぞれの帰路を急いでいる。

 次の稽古では、もっと大胆なセルフィアを演じてみようと思った。

 市民に対してただ優しいだけでは、王としての意志が伝わらない。

 恐れられるほどの力強さを見せてもいいのかもしれない。

 そんな演技をすれば、あの台詞も少し違って聞こえるだろう。


 駅へ向かう途中、コンビニの明かりが目に入った。

 何となく寄って飲み物を手に取り、レジに並ぶ。

 顔にピアスをつけ、髪も金色に染めた若い店員が、まるで老舗旅館の仲居のような口調で一礼した。

 ぎこちないほどの丁寧さに、思わず目を瞬かせる。

 交差点を渡ると、スーツ姿の男がスマホ越しに深く頭を下げていた。

 電話を切った後、イヤホンを耳に戻した瞬間、人が変わったような気がした。

 ほんの数分の間に、いくつもの役が目の前を通り過ぎていった。

 いつもの光景だけれど、今日はとても滑稽に見えた。

 かつての自分がそこに立っているようで、思わず口元が歪む。


 家に近づくと、窓の明かりが見えた。

 玄関を開けると、母が「おかえり」と笑顔で迎えた。

 わたしはうつむき、無言で靴を脱ぎ捨てた。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 翌日の稽古は、いつもより空気が張り詰めていた。

 体育館に入ると、カシアン役の真柴がストレッチをしながら声を張っていた。

「今日も頼むな。王女様が締めねぇと全体が緩むからな」

 萌衣が笑って肩をつつく。

「天音、顔つきが昨日と違う。いい意味で」

 昨日の帰り道から決めていた。

 今日はほんの少し、声の出し方を変える。

 ほんの少し、歩き方を変える。呼吸と視線をずらす。


「一幕三場から入るよ」

 香月先生の合図で、舞台の気配が引き締まる。

 袖幕の陰で胸の空気を整え、わたしは舞台中央へ歩み出た。

「王女セルフィア、このままでは国が割れます!」

 真柴の第一声。骨太な響きが床板を伝ってくる。

 わたしは振り向きを半拍遅らせ、目線を高く持ち上げた。

 いつもより重い動き。わずかな遅れが、すでに呼吸を変える。

「わたしは、王になるために生まれたのではありません」

 台詞は同じ。声の色だけが違う。

 低く、深く、響きを落として言うと、真柴のまぶたがかすかに揺れた。

 次の台詞に入る前に、ほんの小さな空白が生まれる。

「ですが姫様、民はあなたが王になるのを求めているのです」


「王…ね」


 吐息のようなひとこと。書かれていないが意味を動かすほどではない。

 だが、予定されていた間合いは崩れる。萌衣の喉仏が一度上下するのが見えた。

「わたしが王になることで国が救われるというのなら、ずいぶんと脆い国ですね」

 観客席の闇へ視線を投げる。

 優しく語りかける場面だが、声は鋭い。

 真柴は役のまま一歩踏み出し、勢いで受けに回る。

「姫様、剣を抜く覚悟をお示しください。あなたが動かなければ、誰も従いません」

 わたしは台本では動かない位置から、半歩だけ前に出る。

「慈悲だけで国が守れるなら、王など不要でしょう」

 言葉の終わりで視線を切らず、相手を見据えたまま立ち止まる。

 萌衣が受ける。

「それでも民は、姫様の慈悲を信じています」

 声が少し上ずった。予定より遅れて音響のキューが鳴り、袖のスタッフが目配せを交わす。

「それでも、わたしはわたしではなく、王として、この国の未来と共にあらねばならぬのですね」

 ここだけは演出どおり正面をとる。だが、出音を半拍遅らせ、語尾を強く落とす。

 観客がいれば静けさが増すだろう沈黙が、稽古場では不安として広がる。

 真柴は一瞬、返しの頭を迷い、強行に食いついた。

「ならば俺は、あなたの剣となる。」

 いつもより荒い。役の熱と、役者としての焦りが混じっている。


 場面が終わる。拍手はない。

 香月先生が腕を組んだまま、ゆっくり舞台に上がってくる。

「天音、いまのは意図してやったね」

「声と立ち位置を、少しだけ変えました」

「少しが舞台では大きい。君が半歩動くと、周りは二歩遅れる。」

 萌衣が近寄る。

「天音、今日のセルフィアは強かった。でも、ちょっと怖かった。わたし、返しを何回か見失っちゃったわ」

 真柴が額の汗を拭って笑う。

「オレもだ。台詞は同じなのに、全然同じに聞こえねぇ。振り向くの遅ぇし、目が冷てぇし、印から出るなよってとこで出るし。合図が消えた感じになった」

 わたしは床を見た。バツ印から数十センチ離れた場所に立っていた。

「ただな」

 真柴が言い方を変える。少し柔らかい。

「悪くはねぇ。王女が優しいだけより、腹くくってる感じは伝わった。オレは合わせるから、どこで止まるかだけ合図くれ。目でも息でもいい」

 萌衣も続ける。

「わたしもやってみる。天音の呼吸に合わせる練習。今日ぐらいならたぶん乗れる。ただ本番でズレると怖いかな」

 香月先生が場を収める。

「一回ここで止めよう。天音の半歩は武器だ。ただし、独りの武器にしないこと。全員で扱える道具にしていく。次は印から出ても成立する導線を作る。照明も調整だ」

 袖に下がると、カーテンが静かに揺れた。

 わたしは息を吐き、萌衣と目を合わせる。

「次、もう少しだけ強く出してみて。受け準備するから」

「わかった。目で合図するね」


 体育館の扉を押すと、夕方の風が汗を冷やした。

 印から外れた半歩は、たしかに混乱を生んだ。

 けれど、その半歩でしか届かない声があることも、体は知ってしまった。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 文化祭当日、幕前に立つと、舞台の床板が呼吸しているように思えた。

 袖で萌衣がさっと指先を見せる。約束の合図。

 真柴は木剣を握り、顎で小さくテンポを刻む。

 香月先生は腕を組んだまま、何も言わない。


「……わたしは、王になるために生まれたのではありません」

 声を落とし出音を半拍だけ遅らせる。

 客席の気配が深く沈み、音響の低い和音が足元から上がる。

 バツ印の上で一度止まり、そこから半歩。

 照明の境目に影が伸びる。萌衣が素早く位置をずらし、真柴が呼吸で受ける。誰も取り落とさない。 「それでも、私はわたしではなく、王として、この国の未来と共にあらねばならぬのですね」

 語尾を強く落とす。

 客席の沈黙が、稽古場の不安ではなく、物語への集中に変わっていくのがわかる。


 幕切れ、暗転。静寂のあとに拍手。思っていたよりも長い。

 カーテンコール。手を振りながら床のバツ印を見る。昨日までの私の居場所。

 立ち位置へ戻るときポケットの中で小さな石を指でつまんだ。

 モナの眠る土の上で拾った角の丸い石。

 あの印がなくても、私は自分の印を持っている。

 終演後、体育館の扉を押すと風が強かった。

 ポスターを留めたテープが揺れ、紙がかすかに鳴る。

「天音」

 萌衣が駆け寄ってきて、笑いながら肩を叩く。

「今日の半歩、ちょうどよかった」

 真柴が木剣を肩に乗せて言う。

「合図受け取りやすかった。あれならいけるな」

 廊下の角で香月先生が立ち止まり、台本を筒にして唇に当てる、いつもの癖のまま言った。

「今日は、動いてもずれなかったな」


 帰り道、駅前のコンビニの明かりが見えた。昨日の店員が、同じように丁寧な口調で客を送っている。  レジに並ぶのをやめて、ガラスに映る自分を少しだけ見た。

 鏡の中の私は、セルフィアでも天音でもなく、どちらの声も持っていた。


 帰宅。庭の暗がりで足を止める。土の盛り上がりに手を合わせた。

「おはよう」

 枯葉がひらりと舞い、頭の上に乗った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ