表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

月1で増える短編集

作者: 烏丸玖

「空中密室」とは、階段やその他の入室手段がなくなった2階以上のフロアを指す。その「塔」は元々はタワーマンションだったが、違法建築のために最上階と鉄骨を残して全て崩れ落ちた。

最上階の部屋に取り残された「彼」は、それでもただ静かに暮らし続ける。

きっと死ぬまで、ずっと。

5月の話「空中密室」


 その街にそびえたつ高い塔のことを知る人は少なかった。電波塔ではない、高層ビルでもなければ街のシンボルやモニュメント等でもない。あなたがその塔を見上げれば、目測でも十階建て以上の高さがあると感じるのではないだろうか。根本は蚕食された葉のように鉄骨だけを残して崩れ、最上階だけが立方体の形を保ったまま取り残されている。その形から、あなたは街灯を連想するかもしれない。高層ビルが立ち並ぶその街においては、その塔だけがひときわ目立つというわけでもない。雨雲を背にそびえるその塔を見上げ、霧雨を浴びながらあなたは何を思うだろう。私は安アパートの窓からその塔を眺めてこんな幻想を見たのだ。


 その塔の最上階の窓からは彼方まで広がる雨雲を見渡し、扉を開ければ遥か遠くに地上を見下ろすことになるのだろう。誰であってもその部屋から生きたまま外に出ることはできないのだ。その部屋は天空密室と呼ぶべきものだ、外に出るためのエレベーターも階段も崩落していたから。彼は一向に来ない助けをずっと待っている。

 塔がまだ高層マンションであったころ、彼は自ら部屋に閉じこもっていた。部屋の扉の前に運ばれてくる食事に加えて、親の財布を持ち出しては人目を避けて保存食を買い部屋に溜め込んでいた。彼なりにいつか来る家族から見捨てられる日を危惧していたのかもしれない。ぼんやりと空を映すだけの高層階の窓の傍で、彼はずっと、何度も読み古した漫画をまた一巻から開いていた。かつては彼もインターネットにアクセスする方法を持っていたようだが、電子の海で何か嫌な目にあったのかもしれない、以降は知っている漫画を何度も繰り返し読むことだけが彼の日課となっていた。ベッド、本棚、食料の備蓄された収納、空だけを映す窓、そのたった八畳程度の世界に「閉じこもっていること」が彼にとっては安心だった。

 彼は外の世界の変化をいつ知ったのだろう。窓枠には変わらず空がはまっていた。しかしある日を境に扉の外は絶壁となった。見慣れた廊下の床板や壁紙はどこを探しても見つからず、床板は遠く離れた地上へ、正面の壁と天井は空へと変貌した。家族どころか家も、エレベーターも、階段も、彼をおいてどこかへ消えてしまったのだ。それを知った瞬間、彼の世界は「自ら閉じこもっている」から「閉じ込められている」へと変わった。地上への連絡手段は何もなかった。インターネットにつながる機器は遥か昔に手放していた。壁紙を剥がして血で文字を書いて地上へ放ってみたこともあったが、落ちている破れた紙きれをわざわざ拾って読む人はついに現れなかった。彼の生活はこれまでと変わらず八畳程度の部屋で読み古した漫画を読み返して寝ることを繰り返す、その生活に「ただし食料が尽きるまで」という期限がついただけだった。

 彼はその日も漫画を読んでいた。今までと同じ生活に不便はなかったし、ほとんどエネルギーを使わない生活をしている彼は食料もほとんど必要としなかった。電気は元から使わず陽光だけで漫画を読んでいた。これまでペットボトルに出していたものはすぐに飲むようにした。中身を捨てられる場所がもうどこにもないから。彼に生きる理由はなかったが、死ぬ理由だってなかった。心臓が動いている限り、脳が命じたときに食べて、寝て、眠れなければ漫画を開くだけだ。これまでもそうしてきたし、これからもそうするだけだと彼はそう思っていた。

 その日も彼はベッドに身を起こしたままぼんやりと窓を眺めていた。部屋の中で音のするものは彼自身の他には何もなかった。退屈に焼かれて麻痺した脳は眠気の赴くまま夢の中に戻ることを選んだ。しかしその瞬間、金属音が彼の耳を突いた。彼の部屋以外が消失したとき以上に彼は恐慌したかもしれない。その金属音は、空中に繋がる彼の部屋の扉のドアノブが立てている。ガチャガチャと、意思を持った何かが扉を開けようとしている。しばらく困惑していたが、鈍っていた脳がようやく動き出して「ようやく助けが来たか」と結論をだした。うっかり開いて宙に足を踏み出すことがないよう、水平にしていたサムターンを縦に回した。

「は?」

 扉の外にいた男はポカンとした顔をするだけだった。

「え、何? こんなところに住んでるの? なんで?」

 男は耳元に小型カメラをつけていた。彼はしばらく答えることができなかった。声の出し方も、会話の仕方も忘れていた。

「中入っていい?」

 彼が返事をするよりも先に、男は部屋に上がり込んだのだった。

「ここでどうやって生活してんの? ドローンとかで通販してんの? てかトイレあるんだったら行きたいんだけどどこ?」

 無遠慮な訪問者を前に彼は困惑することしかできなかった。男はふと思い出したようにカメラを手で覆って新たな問いを重ねる。

「あ、そうだ、撮影大丈夫? いやごめんな? ここ無人の廃墟だと思ってたからさ」

 困ったような顔で黙り込む彼を見て、男はカメラのスイッチを切った。

「あーーーーわかりました、すみませんね、アーカイブではカットするんで許して、配信では部屋と顔がちょっと映っちゃったかもしれないけど……」

 男は返事を待たずにしゃべり続けることにしたらしい。

「俺配信者でさ、ビルダリングって知ってる? ビルの壁をロープとかなしで登ることなんだけど、それを中心に配信してるんだ。まあ今回は壁ってか鉄骨を登ってきたんだけどさ。ちなみによい子はマネしちゃいけない系だけどそこんところはまあ……ね?」

 インターネットから離れて久しい彼は話を半分も理解できていなかったかもしれない。

「ここは有名なスポットだって知ってた? 最上階を残して全部崩れた違法建築タワマン廃墟なんて唯一無二だからね。残された最上階の部屋はどうなってるんだろうって、廃墟愛好家の間でずっと話題になってたんだ。満を持して今日、俺がその秘密の扉を開けにきたってわけ。まさか生きた人間がいるとは誰も、もちろん俺も想像してなかったなぁ」

 男は無遠慮に漫画の並んだ棚を眺めた。

「へーえ、懐かしい漫画。タイトルしか知らないけど、アレだろ、主人公が異世界に飛ばされて、ファンタジーな世界を冒険するやつ。完結したんだっけ?」

「しらない」

 男は彼を振り返った。

「とちゅうまでしかない」

「あーそっか、連載の途中でビルが崩れたのか」

 彼は首を振った。

「とちゅうまでしか、いらない」

 彼の言葉に、男は首を傾げた。

「さいごまでよんだら、おわってしまう」

 男は肩をすくめた。

「結末とか気にならないの? 好きなんでしょ、この話」

 本棚に並ぶ漫画の背表紙はどれも頭がヨレヨレになっている。彼はただ首を振った。

「ふーん、まあ、こんな場所に住んでるんだし、色々こだわり強めなんだろうな」

 男は部屋を見回した。

「ここトイレは?」

 彼はペットボトルを差し出した。

「いや、それはちょっと嫌かな……トイレがないなら扉から外に出せば」

「あぶない」

 安全には代えられないと観念したのか、男はペットボトルを受け取り用を足した。

「このペットボトルはどうすんの?」

 彼は男の手からボトルを受け取ると、一気に飲み干した。男はその様子をあぜんとしながら凝視した。尿を飲み干した彼の顔には、気まずさも、羞恥も、嫌悪も、何もなかった。

「……そっか、そんな風に生活してたんだ」

 畏怖、男はそんな感情を今まで人間に抱いたことはなかったかもしれない。

「もしかしてさ、趣味でここに住んでるんじゃなくて、取り残されてるのか?」

 彼は少し考えた。

「いや……住むんだったら飲み水もトイレも、もっとちゃんと整えるに決まってるよな」

 男はベストの胸ポケットからスマートフォンを取り出した。

「救助を呼ぼうか? ヘリで助けてくれるかもしれない」

 彼は無表情になった。

「どうしたんだよ」

 空になったペットボトルには、もう何の熱も残ってはいなかった。

「どこかに、いく?」

 そういって彼は男の両目を見据えた。男は言葉の意味か意図がわからなくて聞き返した。

「何?」

「ずっと、いる?」

 彼は男を指さした。

「あー、俺が? ずっといるって……?」

 足りない言葉を難しい顔で考えた後、男はそのままの顔で口を開いた。

「いやー……悪いけど、通報したら俺は下りるよ。このビルは有名だから救急が迷うことはないだろうし、大丈夫だろ」

 彼は扉を開けた。扉の向こうは雲一つない快晴だった。男はしばらく通話をしていたが、やがて電話を切った。

「しばらくしたら救助が来るから待ってな。俺は明日の配信の準備があるからそろそろ帰るよ。お邪魔しましたー」

 男は扉の枠に立って外に背を向けてしゃがみ、近くにある鉄骨を見つめ慎重に足を下ろした。その瞬間、彼は扉を勢いよく閉めた。下を向いていた男は扉にしたたかに頭をぶつけ、バランスを崩した。


 その塔の最上階の窓にはカーテンが引かれている。彼が扉を開くことはもう二度とないだろう。彼はもう生きてその部屋から外に出る気はないのだ。何にせよ、死人が出た以上その塔の取り壊しの話は思い出したかのように急速に進むことだろう。塔が取り壊されるその日まで、彼は生き続けているだろうか。彼が結末を望まなかったように、私かあなたが彼の死体を目にしない限り、彼の結末はいつまでも宙に浮いたままであり続けるのだ。……なんて、そんなことをあの塔を見ながら私は考えていたんだよ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ