第九章:魔法の絆
朝露がまだ草の葉先にきらめく頃、里香はふと目を覚ました。隣で眠るはずの大樹はもういない。空がほんのりと明るみ始める中、彼の姿を探して巣の外に出ると、柔らかな風が静かに髪を揺らした。空気は澄み渡り、夜の名残を僅かに含んでいる。辺り一面に広がる草原は、露をまとって銀の海のように揺れていた。
その奥に、大樹の姿があった。彼は何かを作っている。魔法陣を描きながら、静かに呪文を唱えていた。呼吸を乱すことなく、まるで瞑想するかのように。里香は物音を立てぬように近づき、彼の背を見つめた。その姿は神聖で、美しくて、胸の奥が自然と熱を帯びていく。
やがて、魔法陣が静かに輝き始めた。大樹は振り返り、里香の視線に気づいて微笑んだ。
「おはよう、もう少しだけ寝ててもよかったのに。」
「……なんか、起こされた気がしたの。あなたの声が、夢の中で呼んでた気がして。」
そう答えた自分に、自分で驚く。まるで恋人みたいな口調じゃないかと、内心で頬を赤く染めた。けれど大樹はその言葉を受け入れるように、ふわりとした笑みを浮かべるだけだった。
「君に見せたかったんだ。完成したばかりの魔法の庭園を。」
彼が手を掲げると、魔法陣から柔らかな風が吹き、周囲の景色が少しずつ変わり始めた。足元に咲き始める無数の花々、鮮やかに色を変える葉、空に浮かぶ小さな光の蝶たち。それはまるで、魔法が編み出した幻想の世界だった。
「……これ、全部、あなたが?」
「うん。君と、平和になったこの世界のために。ここは、二人のための場所だから。」
花の香りが風に乗って流れ、魔法の庭園が完成していく。そこには時間の流れすら柔らかくなるような、特別な空気があった。ふと、大樹が里香の手を取り、そのままそっと引き寄せた。
「この時間は、止められるんだ。」
そう言って彼が呟くと、空気がふと静止した。風が止み、蝶が空中に浮かんだまま動かなくなる。世界が、ふたりだけのために静かに凍った。何もかもが止まったその中で、大樹は小さく息を吐いてから、ゆっくりと話し始めた。
「俺はずっと、知識にばかり目を向けていた。魔法の構造、古代の術式、世界の理。そのすべてを知れば、世界は救えると信じてた。でも……本当の魔法は、こんな風に、誰かと心を重ねることだったのかもしれない。」
その言葉に、胸の奥がふわっと温かくなった。何かが解けるような、ゆるやかな幸福が満ちていく。大樹は静かに詩を口ずさみ始めた。知らない言葉なのに、どこか懐かしいその調べが、花々の色を変え、庭園を柔らかい光で満たしていく。
「……それ、魔法の詩なの?」
「うん。感情を伝えるための、古代の言葉。」
彼の言葉が風となり、庭園に舞う。光が重なり合い、中心にひとつの鏡が浮かび上がった。鏡はゆらりと揺れながら、里香の姿を映した――その心の中の姿を。
そこに映っていたのは、傷つき、迷いながらもまっすぐに進んできた彼女の“本当の姿”だった。無力だと感じたことも、逃げたくなった日も、全部が、彼女の強さになっている。
「……私、こんなふうに見えるんだ……」
「うん。俺には、こう見えてる。強くて、優しくて、誰よりも美しい。」
その言葉に、里香はただ黙って俯いた。けれど、目元には涙が溜まり、頬には熱が広がっていた。
「私……あなたといると、素直になれるの。自分でも知らなかった気持ちが、言葉になって出てきちゃう。まるで魔法にかけられたみたいに……。」
「それはたぶん、俺も同じ。」
ふたりはそっと額を寄せ合った。時間が止まった世界で、心だけが静かに重なっていく。風も光も、全てがその瞬間を祝福しているようだった。
やがて、大樹が小さく指を動かすと、時の流れが戻ってきた。花が揺れ、蝶が舞い、風が再び通り抜ける。けれど、ふたりの間にはもう、誰にも壊せない魔法の絆が結ばれていた。
──章終──