第八章:翼を持つ守護者
記憶の神殿を後にしてから数日、大樹と里香は険しい山道を抜け、ついに“天の窪地”と呼ばれる場所へと辿り着いた。そこは、断崖に囲まれた大きな岩場の中央にぽっかりと開いた盆地で、空に最も近い地として、古くから伝説の“翼を持つ守護者”が眠る場所だと語られていた。
足を踏み入れた瞬間、里香は思わず息を呑んだ。視界いっぱいに広がる草原には無数の花が咲き乱れ、風が吹くたびに柔らかな香りと共に色彩が波打つ。空は限りなく高く澄み渡り、その真ん中には一際大きな影がゆったりと輪を描くように飛んでいた。まるでこの空間すべてを見守っているような、悠然とした存在感。――ドラゴンだった。
巨大な白銀の翼を持ち、その瞳は人の心を見通すような深い輝きを放っていた。その姿を見上げるだけで、胸の奥が圧迫されるような畏怖と、理由もない安心感が混ざり合い、里香は一歩も動けなくなっていた。
「……あれが、“翼を持つ守護者”。」
大樹の声は低く、けれど確信に満ちていた。彼の掌には淡く光る魔法の印が浮かび、その輝きはドラゴンの瞳と呼応するように瞬いていた。ふと、空を旋回していたドラゴンがその巨体をゆっくりと降下させ、二人の前に優雅に着地した。土煙が舞い、花々が揺れる。だが、そこに敵意はまったくなかった。
「……試す気か?」
大樹が一歩前へ出ると、ドラゴンは首を傾げるように動かし、まるで“そうではない”と伝えるように翼を広げた。その仕草には、どこか慈しみと、懐かしさが漂っていた。
「このドラゴン……私たちを見てる。ずっと、知ってたみたいな目で。」
里香の声には戸惑いが混じっていた。けれど、ドラゴンの深い眼差しに触れているうちに、次第に恐怖は薄れ、不思議な親近感だけが残った。大樹がそっと手を伸ばすと、ドラゴンはその額を静かに彼の手に預けた。瞬間、強い光が二人の周囲を包み、空気が震える。
「――乗れって言ってる。」
「えっ……!?」
驚く里香をよそに、大樹は彼女の手を取り、ドラゴンの背に導いた。その巨体には想像以上に滑らかな鱗が敷き詰められており、背に跨ると柔らかな温もりが伝わってくる。
「しっかり掴まって。」
「ちょ、ちょっと待って、心の準備が――」
言い終わる前に、ドラゴンは軽やかに地を蹴り、風を切るように空へと舞い上がった。瞬間、里香は思わず大樹の腰にしがみついた。その腕の中で、鼓動が跳ねる。
「高い、高すぎるって……!」
「でも、見て。」
大樹の声に促されて、里香は恐る恐る顔を上げた。そこには、言葉を失うほどの絶景が広がっていた。雲を突き抜けた先に、太陽の光が滝のように降り注ぎ、遠くには山脈が金色に輝いている。眼下には、盆地が小さな楽園のように広がっていた。
「……綺麗……こんな世界、初めて見た。」
「君に、見せたかった。」
大樹の囁きに、胸がきゅっと締め付けられる。振り返ると、彼の瞳がまっすぐに彼女だけを見つめていた。風が二人の髪を撫で、時間がゆっくりと流れていく。
その夜、彼らはドラゴンの巣に案内された。そこは岩壁に守られた静かな空間で、中央には丸く整えられた石のベッドがあった。そこに一つ、温かい光を放つ卵が静かに横たわっていた。
「……これって、もしかして……」
「ドラゴンが託してくれたんだ。俺たちに、この命を。」
里香は驚きとともに、そっと卵に触れた。その表面はまるで生きているように脈打ち、彼女の指先に小さな鼓動を返してきた。
「……生まれるんだね。私たちの手で、育てるんだ。」
「そうだ。翼を持つ獣が、新しい時代の守護者になる。そして……君となら、それができると思う。」
大樹がそう言ったとき、卵がほのかに光を放ち、柔らかな羽音がどこからか聞こえてきた。その夜、空には星が溢れ、ふたりは焚き火の横で寄り添いながら、いつか羽ばたく命に想いを重ねた。
何も語らなくても、ただそばにいるだけで分かることがある。あの日、魔法の森で手を握ったときから始まった“絆”は、いま確かな形として生まれようとしていた。
──章終──