第五章:迷宮の呪い
冷たい夜風が背後から吹き抜け、二人の足音だけが静かに響く。湖を抜け、森を越え、いま彼らは古代遺跡の奥深くにある迷宮の入口に立っていた。石造りの門はまるで生きているかのように、わずかに震えている。空には雲が立ち込め、月の光も霞んでいた。
「ここが……伝説にある“死者の迷宮”……?」
里香の声は低く、硬かった。その瞳には怯えと緊張が混ざり合っている。周囲に漂う空気はどこか淀んでいて、目には見えない“何か”が、確かにそこにいる気配を感じさせた。大樹は手にした魔法の書を開きながら、慎重に迷宮の入り口へと進んだ。
「この迷宮の中心に、“闇の霧”と“封呪の核”があるらしい。そこに近づくほど、精神を蝕むような呪いが強くなるらしいけど……俺たちなら、きっと行ける。」
彼はそう言って、少し笑った。だがその笑みの裏には、確かに自分自身への不安もあった。それでも進むと決めたのは、隣にいる里香の存在があったから。彼女となら、超えられない壁などない――そう、思いたかった。
中へ入ると、迷宮は外からは想像できないほど広大だった。曲がりくねった通路、崩れかけた石壁、苔むした床。所々に残る古代の魔法陣が、いまだに微かに発光しているのが不気味だった。
「迷いそうだね……ほんとに、ここでいいのかな。」
里香が囁くように言ったその瞬間、空間が微かに揺れた。闇の霧が足元から立ち上り、視界をゆっくりと覆い始める。空気が冷たくなり、息が白く染まる。
「離れないで、里香。」
大樹がそっと手を伸ばし、彼女の指を握る。触れ合ったその手から、確かな熱が伝わってくる。冷たい霧に包まれる中、そのぬくもりだけが、唯一の頼りだった。だが次の瞬間、急に霧が激しく渦を巻き始めた。激しい風が吹き荒れ、視界が完全に閉ざされる。
「大樹っ!」
彼女の叫びが響いたその刹那、大樹の姿が霧の中に吸い込まれるように消えた。
「うそ……大樹!?どこ!?返事してよ……!」
里香は必死でその場を駆けた。目も開けられないほどの霧が、まるで生き物のように体に絡みついてくる。だが彼女は止まらなかった。足をもつれさせながらも、叫び続けた。
「やだよ、また置いていかれるのなんて……大樹……!」
そんな彼女の前に、霧の中から一つの影が現れた。石のように固まった大樹の姿だった。彼の体は灰色に染まり、動くことなく、まるで時間が止まったかのように立ち尽くしている。
「……嘘でしょ……こんなの……どうして……!」
里香はその場に膝をつき、両手で彼の顔を抱いた。冷たい。いつもあんなに温かかった彼の頬が、いまは冷え切っていて、どんな魔法を使っても微動だにしない。
「やめてよ……お願いだから、やめてよ……そんな顔しないで……」
涙が次々に頬を伝い、彼の胸元に落ちていく。何も返ってこない。呼びかけても、ただ虚しい静寂が返るだけだった。
「……戻ってきてよ……私、まだ……伝えてないことが、いっぱいあるのに……」
涙が、大樹の胸に触れた瞬間だった。光がゆっくりと、そこから広がっていく。霧の中に、微かに彼の声が響いた。
「……君の声が、聞こえた。」
ぱきり、と音がして、大樹の石化が少しずつ溶けていく。灰色だった肌に色が戻り、呼吸が復活し、目がゆっくりと開いた。
「大樹……!戻ってきた……!」
彼女は泣きながら、彼の胸に飛び込んだ。その姿は、まるで夢のようだった。彼は戸惑いながらも、そっと彼女の背を撫でた。
「ありがとう、里香。君の涙が……俺を呪いから救ってくれた。」
ふたりが抱き合ったその場所で、霧が一斉に弾け飛んだ。まるで何かが浄化されたように、迷宮全体の空気が変わった。暖かく、優しく、どこか穏やかな空気。
迷宮の奥の扉が、音もなく開いた。まだ先は続いている。だがふたりはもう迷わなかった。心の中にある確かな絆が、どんな闇よりも強い光を灯していた。
──章終──