第四章:予期せぬ試練
月が昇る前の薄明かりの中、森を抜けた二人の前に、静かに佇む湖が広がっていた。その湖は、まるで誰かが夢の中で描いたように幻想的だった。水面はまるで鏡のように空を映し、霧がほのかに立ち上る。辺り一帯を包み込むのは、言いようのない静寂と神秘。
「……ここが、霧の湖?」
里香の声は囁くように細く、大気を乱さぬよう慎重だった。大樹は頷き、足元に視線を落とす。地面は湿っているが、しっかりと踏みしめれば沈まない。とはいえ、彼の視線は湖の向こう――その奥に聳え立つ、氷の城を捉えていた。
真白い壁、蒼くきらめく尖塔、そして空気ごと凍てつかせるような威圧感。だがそこには、どうしようもなく惹かれる力があった。大樹の胸の奥が、確かに熱を帯びている。
「大丈夫かな……なんか、また迷子になりそうで。」
湖の手前に立ち止まったままの里香が、ふと大樹の袖をつまむ。ほんの少しだが、指先がかすかに震えているのがわかった。普段なら見せない、不安そうなその表情。大樹はそっと彼女の手を取った。
「大丈夫。一緒にいるから。」
その言葉に、里香の瞳がほんの一瞬潤んだように見えた。思わず見つめ合ったまま数秒、時が止まる。だが、そっと差し込んだ風にその間を切られ、二人ははっとしたように視線を逸らす。大樹は少し照れたように笑いながら、手を振り上げ、小さな魔法を唱えた。
「ライト・スフィア。」
彼の掌から浮かび上がったのは、柔らかな光を放つ球体だった。それは霧の中をゆっくりと進み、湖の道を照らしていく。暗闇の中に一筋の光が生まれ、二人の進むべき道を教えてくれているかのようだった。
「わぁ……これ、綺麗。」
里香が自然と微笑んだ。その横顔を見ながら、大樹は心の奥に浮かぶ違和感を押し殺した。この湖には何かがある。霧が濃すぎる。魔力の流れも不規則で、まるで何かが意図的に干渉しているような感覚だった。
それでも、彼女を不安にさせたくなかった。
湖を渡り終えると、氷の城の門が眼前に迫っていた。その門は音もなく開き、冷気がふたりを包んだ。思わず肩をすくめる里香の背に、大樹はさりげなく自身のマントをかけた。
「寒くない?」
「……うん、大丈夫。ありがとう。」
彼女が微かに口元を緩める。だが、次の瞬間、城内の扉がひとりでに閉じた。振り返っても、外の光はもう見えなかった。周囲は氷の壁に囲まれ、温度は一気に下がる。
大樹は懐から再び光の球を浮かべ、周囲を照らした。透き通るような青の世界。床も壁も天井も、全てが氷でできている。けれど、その美しさの中には、得体の知れない静けさが潜んでいた。
ふたりは寄り添うように歩を進めた。やがて、広間に出る。そこはまるで王宮の舞踏室のようだったが、誰もいない。天井から下がる氷のシャンデリアが、静かに光を反射していた。
「……ここ、綺麗すぎて逆に怖いね。」
「うん、でもたぶん――ここで何かを、試される。」
大樹がそう言った瞬間、突如として空気が震えた。氷の床が鳴動し、天井の奥から光の糸が落ちてくる。それが大樹の身体を絡め取ったかと思うと、彼の姿がゆっくりと硬直し、次第に淡い光の粒へと変わっていく。
「――えっ……?ちょっと、何!?やだ、大樹っ!」
里香が駆け寄ろうとするその前で、彼の体は凍った像のように固まり、動かなくなった。その肌は冷たく、まるで命が抜け落ちたかのように。
「嘘……いや……」
その場に崩れ落ちる里香。震える指先で、彼の頬に触れようとするも、冷たさに指が引っ込んでしまう。胸の奥がぎゅうっと締め付けられ、言葉が出ない。
「どうして……こんな、急に……大樹……!」
こらえていた涙が、零れる。頬を伝い、凍った大樹の胸元に落ちた瞬間、淡い光が彼の身体を優しく包んだ。
「……君の声が、聞こえた。」
その声は確かに聞こえた。ゆっくりと大樹の目が開き、固まっていた身体がほぐれていく。
「よかった……!戻ってきて、くれた……」
里香はその場に崩れるように彼に抱きついた。彼の胸に顔を埋め、何も言えないまま、ただただ震えていた。大樹はその背に手を回し、静かに、そっと抱きしめ返す。
「ありがとう。君の涙が、俺をこの世界に引き戻してくれた。」
そう囁いたその声に、里香はわずかに頷いた。言葉はいらなかった。ただその温もりが、彼女の心を包んでいた。
城を出るころには、外の霧も晴れていた。空には満月が昇り、湖面に金色の道が続いていた。二人は手を繋いで歩く。確かに、いま繋がった絆がそこにあった。
――章終――