当方悪魔ですが、契約者が債務を踏み倒して異世界に転生したので異世界転移して魂を取り立てに行って参ります。
とある超高層ビルの最上階。
パリッとしたスーツに身を包んだ少壮の男が、夜景を見下ろしつつグラスを傾けている。その身一つで事業を起こし、数年のうちに世界的な大企業にまで成長させた天才的経営者。それが世間一般の彼に対する評価である。
こと事業に関して、彼は読みを外した事がない。まるで見えない力が働いているかのように、彼の会社が参入した事業は成長し、彼の会社の商品は大流行した。にもかかわらず、競合が男の真似をするとさっぱり上手くいかない。
そのうち人々は、男には商売の神が付いているのではと噂するようになった。
「実に皮肉ですね。実際に貴方に付いているのは悪魔だというのに。『大富豪になりたい』という願いは叶えて差し上げました。ご満足いただけましたか?」
「ああ。満足だ」
男の側に秘書として控えている私は、人間ではない。魂と引き換えに三つの願いを叶える存在、人が悪魔と呼ぶそれである。
数年前、私は、この男と出会った。こういう冴えない男なら易々と魂を刈り取れるだろうと踏み、契約を持ちかけたところ、男は深く考えもせず私と契約した。思った通りだ。
男の第一の願いは『大富豪になりたい』という月並みなものだった。この時点で、お金はあるが無人島に流れ着くとか、大富豪ゆえにひっきりなしに命を狙われるとかそういう状況を用意しても良かったが、それは止めた。
第一の願いはサービスして持ち上げた方が、第二・第三の願いでどん底に突き落とした際の絶望が大きく、質の高い魂が得られると見込んだからだ。
「くれぐれも、死後、魂をいただくという契約をお忘れなく」
「分かっているとも」
平然を装っているが、この男は最近、魂を渡さなくて済む方法を必死に考えている。
愚かなことだ。軽率に悪魔と契約した過去の自分を恨むがいい。何でも願いを叶えるという奇跡の対価は決して安くないのだ。
「次のお願いはいかがいたしますか?」
こういう場合、「死ぬまでお願いを残しておこうとする」人間と「お願いを逆手に取って悪魔を出し抜こうとする」人間がいる。
が、無駄な努力だ。前者はお願いを使わざるを得ない状況に追い込めばいいし、後者は人間が悪魔に知恵比べで勝てる筈もない。その策を逆手に取って絶望させてやるだけの話だ。
「お願いを三つ叶える代わりに死後、魂はお前のものという契約だったな」
「左様で。要らぬ忠告ですが逃げようとなさっても無駄ですよ。この世界のどこに逃げようとも、必ず伺って臨終のその瞬間に魂を頂戴いたします」
「この世界のどこに居ても、か」
そうだ。絶望しろ。どう足掻こうと、悪魔と契約した時点でお前の魂は私のものなのだ。
「分かった。お願いというのは二つ同時でもいいのか?」
「ええ」
ヤケを起こしていっぺんにお願いを使ってしまう気だ。今回の仕事も実に簡単だったな。
「それでは二つ目のお願い。俺を、異世界に転生させてくれ。この世界のどこにも逃げ場がないなら、異世界に行けば良いわけだ。それから、三つ目のお願いで転生時にチートスキルを一つ付けてくれ」
「なっ?!」
それは考えた事がなかった。異世界転生。
最近はそういうものがあるのかくらいにしか考えていなかったが、これはマズイ。
そう思った時にはもう手遅れ。自動的に悪魔の力が発動し、トラックのバンパーが男の頭蓋骨に直撃して男は即死した。
見ると、窓の外では偶然大爆発が発生していた。窓から飛び込んできたトラックのバンパーは、爆発に巻き込まれたトラックの一部だろう。
絶命直前、男はしてやったりという顔をしていた。
契約を踏み倒されたのは数百年ぶりで非常に悔しい。しばらくは、あの腹立たしい顔が夢に出て来そうだ。
しかし、男の魂は既に異世界。こちらの世界の悪魔からすると管轄外となるので手が出せない。私は奥歯を噛み締めた。
※※※
「……という事があったんですよぉ、先輩ぃ〜」
私は異世界転生で魂を踏み倒した男の件で荒れに荒れていた。
街中で偶然出会った先輩の悪魔を居酒屋に引っ張り込むと、屈辱を洗い流そうととにかくビールを喉に流し込む。
「おいおい。そんなペースで飲んで大丈夫かよ。百年前みたいに口から魂リバースしても俺は知らんぞ」
「いいんれす。ふぁたしは、どうせにんげんだまふぁれれ、たましぃのがすざこあくまれす」
「まあまあ。次からは異世界転生には気をつけような。ハイ、お水」
先輩の差し出した水を一気に飲み下す。
一息ついたのも束の間、体の奥から熱いものが逆流してくる感覚。
「うっぷ…はきそう」
「言わんこっちゃない。ここで吐くな。魔界行くぞ!ほら、羽出して。真っ直ぐ飛べるかぁ?おーい!しょうがない奴だなぁ全く」
※※※
ここまでなら、非常に不快ではあるが笑い話で済んでいたかもしれない。
しかし、私は、社長に呼び出された。
社長というのは悪魔の元締めをしている原初の大悪魔だ。睨まれただけで背中を何本もの針で滅多差しにされたような感覚に陥るほど恐ろしい悪魔だ。可能なら絶対に会いたくない類の化け物、それが社長だった。
私、何やらかしたっけ?
転生男の件は確かに失敗ではあるけれど、社長呼び出し案件ではないはずだ。
「キミか、クライアントを異世界に送ったという悪魔は」
「はい。私でございます」
「キミのクライアントが実は困った事を初めてねぇ。奴は、悪魔と契約した個人に何らかの方法で接触し、転生時に得た《召喚士》スキルで異世界に召喚する『逃し屋』ビジネスを始めたのだ。あの男は召喚の見返りで莫大な利益を上げ、異世界で悠々と暮らしている。おかげて我が社は商売上がったりだ」
どう責任を取るのかね?と、言外に社長の目が言っている。
私が悪魔じゃなかったら、両手を合わせて神様に助けてくださいと祈っただろう。今ここでそんなことをすれば、社長に消し炭にされるだろうが。
「私の失態で悪魔の名誉を傷つけ、また、社に大変な損害を生じてしまいお詫びの申し上げようもございません。この上は、この一命を以て……」
「ふざけておるのか?」
「ひっ………………」
余の圧力に身が縮こまり、尻尾が跳ねる。
「キミの命程度で済むと思っておるのかと聞いているのだ!今では我々は異世界の同業者や人間共の笑い者ぞ。一体どうしてくれよう。死より厳しい罰が必要なよ——」
「お待ちください!」
私を庇うようにして社長との間に割って入ったのは先輩だった。先輩でも社長は当然恐ろしいのだろう。尻尾が小刻みに震えている。
「確かに今回の件は手痛い失敗です。しかし、彼女はまだ数百年しか生きていない若い悪魔です。今回の経験も踏まえて成長し、我が社に貢献できる人材に育つはずです。どうか、彼女に今一度チャンスを」
「キミは、かつて、この悪魔の教育担当だったな。今回の件は、元はと言えばキミの教育が不十分であった事にも原因があるのではないかね?」
先輩、もう大丈夫です。庇っていただいて、私は十分嬉しかったです。これ以上は先輩まで社長に殺されてしまいます。
そう言いたかったが、口の筋肉は痙攣するばかりで言うことを聞かない。
そんな不甲斐ない私に対し、先輩は、人間なら即死しかねない社長の覇気を直に受け、滝のような汗を流しながらも一歩も後ずさることなく私の前に踏み止まっていた。
「はい。私の教育が不徹底でございました。今回の一件は私の責任でございます。お許しいただければ、私めが異世界に転移し、必ずやあの男の魂を取り立てて参ります。問題の転生ビジネスも止められ、我々の名誉も回復できるかと」
「それができぬから困っておるのではないか」
「神を説き伏せ、異世界転移許可を取り付けて参ります。神は我々を敵視していますが、彼らは本質的には公平と秩序を保つ存在です。『悪魔との契約』も彼らが用意した世界秩序の一部である以上、そこに深刻な危機が生じたと言えば許可を出すはずです」
社長は腕を組みしばらく思案していた。
その短い沈黙は数百年にも感じられた。
先輩も私も身じろぎ一つせずに社長の言葉を待つ。
「面白い。そこまで言うならやってみせよ。ただし、取り立てに行くのはお前だ。本当にお前が有為の悪魔たりうるのか、自らその力を示して見せよ。その成功を以て今回の件を許す事とする」
そう言って社長は私を指差す。どうやら首の皮一枚繋がったようだ。
「だが良いな?もし失敗したらその時こそお前たち二人ともどうなるか、理解しておるな?」
「はい。寛大なご処置ありがとうございます」
「っ!ありがとうございます」
※※※
「社長、怖かったねぇ」
会社を後にして、いつもの低くて落ち着く先輩の声を聞くともうダメだった。
「う"わ"〜〜〜〜〜〜〜ん。ごめんなざい"〜〜〜」
その夜、私は申し訳ないやら悔しいやらで先輩の前で散々泣いた。人間に出し抜かれた自分の間抜けさとそのせいで先輩まで危険にさらしているという状況に無性に腹が立った。
「まったく、しょうがない奴だな」
全てを優しく受け止めるような先輩の声。ああ、私はこの声に今までどれだけ助けられて来たことだろう。
私は、死んでも今回の業務を成功させようと決意した。
※※※
「あいよ、優しい先輩が異世界行きのチケット取ってきてやったぞ」
こともなげに異世界転移許可証を差し出す先輩の羽には所々痛々しい生傷がある。
神に会いに天界に登る途中、天使達にやられたのだろう。奴らは気まぐれに私達悪魔をいたぶって遊ぶ事がある。
そういえば、三百年前に私が3体の天使に組み伏せられ、羽を切り刻まれそうになっていた時も先輩は単身で天界まで助けにきてくれた。
どうか、今回の作戦で私が死んでも先輩だけは生き残れますように。私は密かにそう祈った。
「あとこれは、餞別だ。どうしようもなくなったら使え。いいか?どうしようもなくなったときだけだぞ?」
そう言って先輩は一枚のカードを差し出す。何かの魔法が込められた黒いカードだ。
「行ってきます」
「ああ。異世界は人間も魔族も強い奴がゴロゴロ居る。気を付けてな」
かの世界はこちらとは魔力濃度が桁違いだという。それに伴ってあらゆる生命の魔力量が増加し、身体能力が高くなる。正規の手続きではその格差を埋めるための措置として神が転生者・転移者にギフトを与えたりするが、特例で転移する私にはそのような救済措置はない。
正直、今回、私は死ぬと思う。
でも、先輩にだけはもう迷惑をかけたくない。差し違えてでも魂を取り立てる。
———さようなら先輩。お元気で。
決意を胸に転移魔法陣を起動すると、辺りは濃密な白い光に包まれる。
「あの……先輩———」
※※※
「異界の悪魔がどうしてここに……世界間障壁が作動した形跡があります。あなたは、不正に別世界からの転移を試みましたね?」
転生の間。目の前にいるのは、あちらの世界の女神だった。
転移術式に管理者権限で、強制介入されたようだ。
「お待ちください、女神様。私どもの世界から転生した者が、女神様の世界を拠点に私ども世界の秩序を破壊しているのです。私はその問題解決の任務を帯びて参りました。転出元の神発行の異世界転移許可証はこちらに。お確かめください」
先輩が取って来てくれた書状を差し出す。
神々の法や言語は私たちには分からないのでこの書面がどれ程の効力を持つかは未知数だ。最悪、この女神を強行突破してでも私は行かなければならない。
悟られぬよう慎重に体内の魔力を高める。
女神は異世界転移許可証と私とを見比べ目を細める。何を考えているのだろう?
「なるほど…多世界共存条約に基づく世界秩序保全措置ですか。そんな古い協約、わたくし、忘れておりましたわ。あなたの世界の神もよく覚えていましたね。悪魔は嫌いですが、悪魔が世界の一部であるのも事実。そちらの世界に原因があるとはいえ、わたくしの世界が他の世界の秩序破壊に使われているというのも気分がよくありませんわ」
「それでは———」
「転移は許可しましょう。もちろん、わたくしの世界の秩序を乱すことは許しません」
「っ!ありがとうございます」
悪魔が異世界の神とはいえ神に感謝するというのは不思議な気分だった。
多くの世界では、神々は自らの敵、人類の敵として悪魔を作る。私たちはその役割に忠実に、神々とその人々に仇なす。彼らに対する敵意は私たちの存在意義とも言えるはずなのに。
「話は終わってませんよ、異世界の悪魔。あなたたちが問題にしている男の殺害までは認めましょう。ですが、わたくしの世界に転生した以上、あの男の魂はこの世界に帰属します。魂の持ち去りまでは認めません」
それは困る。
魂を持ち帰らないと結局あの男の魂の逃げ得だ。それでは絶対社長が納得しない。
「お願いします!あの男の魂だけですのでどうかお譲りください」
「勘違いがあるようですが、あなたに許したのはあなたの世界の秩序保全の為の最低限の措置です。それにはあの男を殺害すれば十分でしょう。それを超えて、わたくしの世界の魂減少という損失を出してまで、わたくしが異界の悪魔に便宜を図る謂れはなくってよ?」
「私が差し出せるもの何でも差し出します!何卒———」
「くどいわ。そんなもの要らないからとっとと転移するならして頂戴。わたくしの時間は貴重ですのよ」
これでは、あの男を倒しても無駄だ。結局、私も先輩も社長に殺されてしまう。
考えろ私。何か女神を説得できる材料を。
この女神にとってのメリット。世界の秩序、魂の減少、女神、悪魔………………そうだ。
「一つご提案がございます。私の世界からの転生者の魂をお引き渡しいただく対価として———」
「ふうん?悪い話ではないようね。でも、貴方に本当にそんな事ができるのかしら?」
「はい。私どもは悪魔でございます。私が———」
「理屈は通っているようね。それなら認めてあげてもいいわ」
「ありがとうございます!悪魔の名誉に誓って、約束を果たさせていただきます」
「あなたたちが約束を守るのは知っているわ。異世界まで契約者を追いかけて来るのはさすがに気持ち悪いけど。さあ、今度こそ行きなさい」
世界間障壁が解除され、転移術式が完結する。
「悪魔でもそういう感情はあるのね」
そんな女神の呟きが聞こえたような気がした。
※※※
気づくと、私は知らない森の中にいた。大気には魔素が満ち、周囲には感じたことのない生き物の気配がある。
無事、異世界に転移したようだ。
森を抜け、人間に偽装して見つけた村に潜り込む。
途中で何度か魔物に出くわしたが、腐っても私だって数世紀生きた悪魔だ。難なく退けた。
「嬢ちゃん、旅人かい?見かけねえ顔だな」
「はい。ある人物を探して旅をしております」
情報を集めようと立ち寄った村の酒場の冒険者たちによれば、あの男は《召喚》スキルで国王に取り入り辺境伯に叙せられて王国西部に城を構えているとの事だ。対価を踏み倒し、私の力を使うだけ使って随分とえらくなったものだ。絶対に取り立ててやる。
それからは、あの男の所領を目指し街道をひたすら西へ進んだ。
悪魔なのがバレて教会に追われたり、不埒な人間に寝込みを襲われかけたり(しっかり八つ裂きにした)、街ごと龍に焼き尽くされそうになったり、こちらの世界の悪魔に捕まって尋問されたりしながら、私は、やっとの事で男の城に辿り着いた。
城には強力な対魔結界が張られており、城壁も強固。侵入は難しそうだ。
その上、男は手練の退魔師を常に護衛として引き連れているらしく、容易に手が出せない。
本当ならこのまま男の寿命まで待って魂を回収したいが、そんな悠長なことをしていたら元の世界に残して来た先輩が社長に殺されかねない。早くなんとかしなければ。
大臣を誑かし、男を失脚させて処刑させるプランは上手くいかなかった。途中までは順調だったのだが、いざ男を捕縛せんと差し向けられた征伐軍が男の召喚獣を含む辺境伯軍に撃退されてしまった。
正面戦がダメならと暗殺ギルドに依頼を出し暗殺者を送り込んではみたものの悉く失敗。連れている召喚獣が余程強力らしく、毒殺、爆殺、刺殺、呪殺、狙撃は全て未然に防がれた。
そうしている間も男の召喚ビジネスは継続されているようで、社長からの厳しい催促が向こう側の世界から飛んで来る。
精強な辺境伯軍、難攻不落の居城、優秀な召喚獣、熟練の退魔師。
この守りをどうにかしない限り、私に勝機はない。どうしたものか。
考えに考えを重ねた挙句、私は、男の外出時に奇襲をかける事にした。それなら少なくとも辺境伯軍と居城の対魔結界は問題でなくなる。
召喚獣と退魔師は普通では敵わない相手だが、対策は考え、種は蒔いた。
必ず、魂を取り立てる。
※※※
辺境伯となったあの男は、ある後ろ暗い商売に手を染めていた。国法に反するためにリスクは大きいものの莫大な利益が得られる、そんなどこの世界にもある商売だ。
男は森の中に商売の拠点を隠していた。その視察のため、年に数回、定期的に最小限の護衛のみを伴ってこの山道を通ることも確認済みだ。
山道の両脇には紅い草花の花畑が広がっている。
戦場跡や墓地などに多く見られることから、《吸血花》とか《紅血花》とこの世界の人間が呼ぶ花だ。根に魔力を蓄える性質があり高品質の魔法薬の材料となるが、滅多に見つからないため高値で取引される。
その紅く細い花々が風に揺らめくと、あたり一帯が燃えているようだった。
「見ろ、こんなところに吸血花の群生地ができている。冒険者どもに採集させようか」
「しかし辺境伯、多少距離があるとはいえ、この先には拠点がございます。要らぬ事に気づく者が出るやもしれませぬ」
「なに、見てはならぬものを見てしまった者には、ご退場願えばよいだけだ」
あの男が現れた瞬間、私の心臓は弾け飛びそうなほど鼓動を早めた。
ようやくこの時が来た。
ああ、ようやくあの魂を刈り取れる。
通りかかったのは辺境伯と退魔師2人。召喚獣は連れていない。
理想的な展開だ。
「辺境伯!悪魔です。私の後ろに!」
さすが百戦錬磨の退魔師。
気配遮断にこの距離で気づくとは。
「ご機嫌よう、社長。『異世界転生したい』『チートスキルが欲しい』とのご依頼が成就したようで何よりでございます。ご満足いただけましたか?」
「お前は、あの時の悪魔だな。来ると思っていたぞ」
「はい!私たち悪魔にとって契約は絶対でございますから。pacta sunt servanda、でございます。ご契約いただきました以上、世界の果てまで、いや、世界の果てを超えててでも魂を頂戴しに上がります」
思わず頬が緩んでいた。今、私は、満面の笑みを浮かべていると思う。
「こちらの手勢が少ないと侮ったな。やれ」
二人の退魔師のうち、私に気づいた方の老人が浄化魔法を放つ。何百回と繰り返したであろうその動作には一片の無駄もなく、狙いは正確で魔法の飛翔速度も速い。
防御術式が間に合わなかったら死んでいた。
防御陣に打ち当たり火花を散らす浄化魔法を見れば、そのことは明らかだ。
若い方の退魔師も浄化魔法を放ち、老退魔師もその間に何度も続けて攻撃してくる。
雨のように降り注ぐ攻撃の前に、私は防御に徹することを強いられた。
「ハハハハ。いいぞ!押し切れ。やってしまえ」
数十回目の攻撃で防御陣に亀裂が入る。即座に詠唱を重ね修復するが、老退魔師はその継ぎ目を的確に打ち抜いてくる。ついに、防御に穴が空いた。
迸る聖なる光の流れを、身を捩ることで辛うじて回避する。
咄嗟に殲滅魔法を放って牽制するが、退魔師たちがそんな事で怯むわけがない。
殲滅魔法を身体強化と祝福を重ねがけした腕で易々と弾き飛ばすと、老退魔師はさらに攻撃速度を上げて来た。あのお爺さん、人間じゃない。
「っく」
歯を食いしばり、防御を辛うじて維持する。
致命傷を避け、体の枢要部を守るだけで精一杯なので羽に穴が空き、腕や太ももが少しずつ焼かれ、削れていく。
「遠路遥々御足労をいただいたようだが、残念だったな。だがまあ、お前には感謝している。退魔師、一思いに楽にしてやりたまえ」
あの男の命令で攻撃が止み、退魔師達は特大の浄化魔法の構築にかかる。
防ぎ切れない———そう直感した。
あれを受けたらひとたまりも無い。けれど、もう殲滅魔法を放つ魔力もない。
「さらばだ、異界の悪魔」
退魔師の魔法が発動———しなかった。
予想外の事態に動揺する退魔師。
「なにをもたもたしている?早く止めを刺せ!逃げられてしまうではないか!」
退魔師は何度か発動を試み、その度に魔法陣が淡く光るのだがその光はすぐに弱々しく消える。それは、私の世界で言うと、古いエンジンを始動しようとするがすぐにストップしてしまうのに似ていた。
「紅血花が戦場や墓地に咲くのはなぜ?その根が蓄えている魔力は何処から?そんな事を考えた事はございますか?」
「まさか、この空間の魔素が枯渇して……お前はそれを狙ってここで。だがそんな都合よく———」
「ええ。あなた様が通る先に偶然魔素を吸う植物が自生しているなどと都合のよい事はございません。ですから世界中を駆け回り、種を植え、毎日毎日毎日毎日ここで限界まで魔力を放出し続けてご用意いたしました。社長のお気に召すと幸いです!」
これだけの紅血花の種を集めるのは大変だった。国家予算並みの資金が必要だったが、用意した。
種を蒔いたものの、この山道程度の魔力濃度では発芽してくれなかった。片っ端から魔石を買い漁り砕いて肥料として埋めたり、山中で出会った強力な魔物を討伐して埋めてみたり試行錯誤を繰り返していたらなんとか発芽してくれた。
芽を出したものの紅血花の成長は遅く、しかも大量の魔素を必要とした。せっかく発芽した紅血花が魔素不足で枯れてしまわないよう、私は、回復薬を飲みながら魔力をひたすら放出し続けた。
正直もう回復薬は見ただけでも吐き気がする。
やっとの事で紅血花が花を咲かせ、十分な質・量に達すると、今度は花を維持する必要があった。魔素を吸い尽くすと花が徐々に萎れていってしまうので、その辺りから今日まで、私はここに泊まり込みで魔力を放出し続けてきた。
実はここから少しだけ行った所にテントがあり、その脇に特濃回復薬を満載した木箱が山積みになっているのは秘密だ。
そこまでやっても、男が連れている退魔師に勝てるかどうかは賭けだった。魔素濃度をきちんと周囲と同じ水準に調整しなければ違和感を持たれ迂回されてしまうかもしれない。
この場所で戦闘に持ち込めたとしても、魔素が枯渇する前に押し切られてしまうかもしれない。護衛の人数が多ければ十分にあり得た話だ。
「辺境伯、ここでの戦闘は不利です。逃げましょう」
そして、魔素が枯渇した範囲から脱出される前に殺し切れないという可能性。
私は、生まれてから多分一番速く走った。これが間に合えば体はどうなってもいい。体内の魔力の全てを注いで加速する。
退魔師も魔素を使わず体内魔力で防御しようとするが、遅い。
魔素が存在しない世界で、体内魔力だけで数百年間戦って来た私は、紅血花の園でだけはこの世界最強なはずだ。魔素を使った戦闘に熟練しすぎたが故に退魔師の防御は不慣れで、間に合わない。
私の右手が老退魔師の心臓を貫き、翼がもう一人の退魔師を上下に両断する。
あたたかい鮮血が、紅い花々に降り注ぐ。この花々にとってそれは恵みの雨だ。
遂に勝った。男は強力な召喚術師だが、魔素がない以上召喚魔法は使えない。身体的な戦闘能力がないに等しいことも知っている。
「ハァ、ハァ……どうやら……賭けは私の勝ちのようでございますね」
呼吸を整えながら、ゆっくりと男に歩み寄る。
「この状況を作り出したことは褒めてやろう。正直、予想外だ。しかし、随分と私の事を調べたようだが知っていたか?私がこんな事ができるのを」
※※※
あり得ない……。
それは龍だった。数百年生きただけの私とは存在としての格が違う生物。数千年か数万年は生きているような巨大な龍がそこにいた。
魔素は枯渇しているはず。これだけの存在を召喚するには必要な魔素も膨大なはず。一体どうやって?
「私はなぁ、悪魔。一日に一度だけ、対価なしでどんな物でも召喚できるのだよ。これまで使う機会がなかったから知らなかったようだね。さあ、龍よ、この悪魔を焼き払え!」
絶望だ。
体内の魔力は尽きている。対して、目の前の龍は溢れんばかりの魔力をその内に秘めている。彼我の力の差は歴然。あんな弊社の社長みたいに恐ろしい存在に勝てっこないよ。
龍の眼が私を捉える。
それだけで蛇に睨まれた蛙のように、身動き一つできない。
頑張ったけどやっぱりダメでした。
ごめんなさい先輩。
私———。
龍の体内で空間が歪む程高密度の魔力が練り上げられていくのを感じる。
ああ、死ぬんだ。
悪魔として生を享けた。
仕事のやり方を知らずに、碌に魂も集められない私に懇切丁寧に悪魔の流儀を叩き込んでくれた先輩。
天使に捕まったとき、単身で天界に乗り込んで来てくれた先輩。
失敗するたびに泣き言に付き合ってくれ、社長から私を庇ってチャンスをくれた先輩。
ブレスが放たれる。
時間が静止しているようだった。
迫るブレスは必殺。魔力が尽き果てた私に逃れる術はない。
紅い花々に膝を突き、迫り来る自らの死を見上げる。
———嫌だ。こんなところで死ねない。
———助けて、先輩…
———仕方のない奴だな、お前は。第一の願い、承りました。
幻聴だと思った。
幻聴でもよかった。
最後の最後に先輩の声が聴けるなら。あの低くなぜだか心が落ち着く声を心に焼き付けながら死ねるなら。
迫り来る閃光に思わず固く眼を閉ざす。
しかし、待てども、その瞬間は来なかった。
ブレスは放たれた。確かに放たれた、はずだ。
目を開くと、龍のブレスを何者かが両手で押し留めていた。
そう、私がよく知っている人。あの優しい声の主。私の救世主。
「っ!!!!先輩ぃっ!!!」
出発の時に貰った黒いカードを起点に、上級悪魔の召喚陣が起動していた。先輩は、そこから上半身だけを出し、ブレスを押し留めていた。
「ああ、召喚に応じて参上いたしました。よくここまで頑張った…って、オイオイ。泣くなよ。まだお前の獲物はそこでピンピンしてるじゃないか」
先輩だ。
本物の先輩だ。
先輩はブレスを抑え切ると召喚陣から飛び出し、軽く着地する。
「とんでもない相手と戦ってるなぁ。アイツは神龍、うちの社長クラスの化け物だぞ。世界の秩序を改変する悪魔の願いを一つ消費してようやくブレスを相殺とは恐れ入った。ほら、立てるか?」
ブレスで舞った砂埃を払うと先輩が手を差し出す。
私は涙を拭ってその手を取り、立ち上がる。
温かくがっしりとした手だ。
「さて、第二のお願いは如何いたしましょう?」
「先輩、一瞬だけ、ほんの一瞬でいいのであの龍を抑えていてください」
「史上最高難度の依頼だ。第二の願い、承りました」
先輩の体が爆ぜる。いや、そう見える程の速度で神龍に向かって飛び立ったのだ。
それは神話の光景。
必殺のブレスを防いだ新たな敵に怒り狂う神龍と契約を決して違えることのない大悪魔の衝突。
幾重にも魔法陣が展開し、光条が入り乱れる。
大地を揺るがす龍の咆哮を受けても先輩は止まらない。光の化身たる神龍の圧倒的な神気を跳ね返しながら進み続ける。
「何をしている!早く行け!」
正直に言うと圧倒されていた。
それ以上に見惚れていた。
そんな事をしている場合ではないと分かっていたのに。
先輩の声で我に返った私は、男を追いかける。
「やめろ!来るな!ほら、まだ死んでないだろ?死んだら約束通り魂をやるから!」
「その件なら、今回の逃亡行為で期限の利益は喪失です。どのみち死後、契約通り魂はいただきますからご安心を。それでは、この度は、よい取引をありがとうございました!」
私は、満面の笑みを浮かべる。
男は何か魔術を使おうとしたがもちろん発動しない。
私の手が男の心臓を貫く。
そして———。
「今度は逃がしませんよ!さあ、債務履行のお時間です!!」
私の手はしっかりと男の魂を掴んだ。
その魂を口にするとゆっくり嚥下する。期待はしていなかったが、あの特濃回復薬より幾分マシといった味だ。
「終わったか?」
神龍は召喚者を失い元の居場所へ返ったようで、先輩がこちらに駆け寄ってくる。
「先輩……あの、私………………。いや、先輩ボロボロじゃないですか!酷い顔ですよ」
「ハハハハ。憎まれ口が叩けるなら大丈夫そうだな。というか、お前の方がボロボロだぞ。どうしたその火傷は」
言えなかった。
もし万が一ラッキーで生き残れたら絶対に言おうと心に決めていたはずなのに。
先輩を目の前にすると、思っているのとは違う言葉が口をついて出る。
※※※
あの戦いが終わり、お互いの傷を、たまたま私が道端で見つけた上級回復薬で癒すと私は、この世界に来てからの事を先輩に話した。
あのテントはちょっと恥ずかしくて先輩には見せられないので、疲れて手が滑った事にして殲滅魔法で焼き尽くしておいた。
「そうか。正直、ここまで難易度が高いと知っていたら無理にでも付いて来るか、もっと早く俺を召喚するように言ったんだがなぁ。お前が成長するいい機会になると思ったんだが、俺の見通しが悪くて大変な思いをさせた。本当に、すまなかった」
そう言って先輩は私に頭を下げる。
「そんな!先輩がいなかったら私、冗談抜きに死んでましたから。頭を上げてください。むしろ私が自分の失敗に先輩を巻き込んだんですから。この度は大変申し訳———」
「ああ、いいよいいよ。若い悪魔を育てるのも上級悪魔の仕事だから。それに、俺は、あのお前がここまで成長したのが、嬉しいんだ」
「『あのお前』って何ですか、『あのお前』って。いつまでも下級悪魔扱いしてるとさすがに先輩でも怒りますよ!」
「ハハハ。悪い悪い。数千年も生きていると、300歳そこらの悪魔はみんな幼く見えてしまうんだ」
「もう!!!フフフフ」
こうして再び先輩と笑い合えたのがどうしようもなく嬉しい。
これでようやく終わったという感じがした。
「さて、そろそろ俺たちの世界に帰るかぁ」
「はい!先輩!」
先輩が、転移魔法を起動する。
その風圧で、紅血花が一斉に揺れ動く。
「紅血花と言ったか?とても綺麗な花だな」
「っっっっ!ありがとうございます」
その言葉が今日一番嬉しかった。
※※※
「あっ、忘れるところでした先輩。第三のお願い、いいですか?」
元の世界に戻った私が先輩に切り出す。
「オイオイ。お願いを使い切るって、言ってる意味分かってるのか?さすがにその意味を知らないほどお前がお子ちゃまだとは———」
「うるさいですね!知ってますよそれくらい!それにこれは必要なことなんです」
人間と悪魔の契約は魂を代償に三つの願いを叶えるもの。
しかし、悪魔には魂はない。それなら、悪魔と悪魔との契約で三つの願いを使い切ることがどういう意味を持つか。
悪魔は魂の代わりに自らの存在を相手方に与える。
人間の文化にもそれに近い概念があったはずだ。
「それとも、私じゃ嫌ですか?」
「嫌かどうか以前に、お前と俺とでは年が5000年くらい離れているからなぁ。さすがに犯罪じゃないか?」
「関係ありません。もう2万年も経てば、2万5千歳と2万歳でちょうどいいじゃないですか。それともやっぱり私みたいなポンコツ悪魔は嫌ですか?」
「嫌とは思わないが………というよりお前はどうなんだ?」
ついに聞かれてしまった。
いつかは言いたい、いつかは言わなければならないと思っていた核心的な一言。
今まで何度も言おうとしてついに言えなかった一言。
異世界転移を経験して成長した今の私ならきっと———。
「先輩、私、先輩のことが…………………………。いや、何でも無いです。嫌じゃないとの言質はとったので十分です。pacta sunt servanda、でしたね先輩!ちゃんと契約は果たしてくださいね!第三のお願いです———」
※※※
第三のお願いは「私を神から観測できないようにしてください」だった。
そう、これこそが異世界の女神との約束、「悪魔から逃れて転生した魂を回収する代わりに、それと同数の魂を女神の世界に送り込む」を果たすための手段だ。
私は、今、異世界転生で悪魔から逃走した契約者が出るたびに、その契約者を狩る業務を担当している。同時に、こちらの方がメインの業務かもしれないが、適当な人材を「うっかり手違いで」異世界に転生させている。
最近、あまりにも「うっかり手違いで」寿命以前に人間が亡くなり異世界に転生することが多いので、そろそろ神も不思議に思って良さそうなものだが、先輩の魔法が完璧なのか今のところ怪しまれている様子もない。
異世界転生の事例が増え、異世界転生ということが人類社会でメジャーになってきた事で、最近「転生すれば悪魔から逃げられるのでは?」と考える人間は増加傾向にある。
だが、それはおすすめしない。pacta sunt servandaのだから。
そう言えば、先輩には相変わらず想いを伝えられていない。
けれども、契約は成立した。
先輩との時間はたっぷりとあるのだ。いつか、必ず、先輩に言葉で伝えようと思う。どれだけ時間がかかったとしても。
悪魔は契約に忠実で、狡猾で、気が長く、そして執念深い生き物なのだから。
〈了〉
最後までお読みいただきありがとうございました。
初めて一万字超の小説を書いてみました。面白いと思っていただけたなら幸いです。