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2021年5月29日10:11 永葉県大桑村城下中心地
彼女は、この家に踏み込んだ経験はない。
しかしそれでも、このしんと静まり返った静寂に異質さを感じた。
「田作さーん? おらんの?」
玄関に上がり込むと、ひたひたと水音を捉えた。
蛇口から水が滴っているのだ。
「おらっせるの?」
音のする台所は廊下の先、暖簾で区切られた向こうにある。
天井から垂れる布。その手前で、強烈な生臭さを感じた。
「田作さん?」
台所。そこには、ふたりいた。
ひとりはその場で佇み。
もうひとりは、床で仰向けに倒れていた。
「なに、しとるの?」
猛烈に嫌な予感していた。
しかし、凝り固まった理性が現実から逃避させた。
───きっと、何か誤解してる。きっと、しょうもない話だ。
そう信じて、声を掛けたのだ。
この家の主人は、呼び掛けに応じて顔を向けた。
怒り。
曇りのない感情が、その顔面に浮かんでいた。
「なんでだぁっ」
「へ?」
「なんでぇっ、なんだあっ!」
まるで獣のように歯を剥き出しにした男が、彼女に飛びかかった。
「あわっ」
反応は出来ていないも同然だった。
飛び退く事も、迎え打つ事もできず。
ただ後ずさって、その場で尻餅をつくだけ。
害意を剥き出しにした相手に、優位を与えたばかりだった。
「があああっ! がああっ!」
口から唾液を撒き散らしながら、男は老婆の上に跨った。
そして、その両手を突き出した。
「はっ、うっ」
なんとか、それだけは掴んで押し留めた。
しかし、相手の力は恐ろしく強い。
ビキビキと、どこからともなく骨の軋む音が響いた。
「だっ、誰かあっ」
老婆の視界が赤く濡れそぼった指で覆われた。
この家の主人は、眼球を押し潰そうとしているのだ。
腕が痛み、腰が痛み。そして、目に不可逆的な痛みを与えようとしている。
「目をぉっ、潰すゥ……!」
間もなく、指が眼球に触れる。
反射的に瞼を閉ざした。
「おいっ!」
重量物が動く風圧。
それを眼前で感じた。
自身を覆っていた重圧が消え、続いて破壊音が響いた。
そっと、世界を見る。
仰向けになったこの家の主人が、壊れた食卓の上にいた。
そこに、大股で歩く知樹が。
「どういうつもりだ」
手には背負っていたリュックがあった。
あの重そうな荷物で殴ったのだ。
「答えろ! どういうつもりだ!」
返答はなく、ピクピクと痙攣するばかり。
やがて、その痙攣も止んだ。
「……死んだか」
脈は完全に停止していた。
知樹はもうひとつの亡骸を一瞥すると、老婆に手を差し伸べた。
「怪我は? 立てる?」
「なんとか……」
酷い倒れ方をしたが、幸運にも骨折はなさそうだった。
動かなくなった男を見ると、顔面が陥没していたが間違いなく見覚えのある顔だった。
「……殺したの?」
「ああ」
老婆は、何も言えなかった。
非難? そんなこと、出来るはずがない。
自分の目───そして恐らく、命を救ってくれたのだから。
では称賛するか?
それも、出来なかった。
救ってくれたとはいえ、その手を血で汚したのだ。
守るためとはいえ、自分よりずっと若い者に重い罪を背負わせてしまったのだ。
「駐在さん、呼ばんと……」
「そうっすね」
混乱する頭の中で、染みついた価値観が身体を動かした。
何か手に負えない事があったら、とりあえず警察。
電話機は廊下にあった。おぼつかない足取りで向かう。
古臭い黒電話。
円形のダイヤルを回して番号を入力するものだ。
「さっき、パトカー出てったんで、110番に」
「あぁ、そう」
ならば、駐在所に直接掛けても無駄だ。
1-1-0。警察の通信指令室に繋がる番号へ。
「はい。事故ですか、事件ですか?」
女の声。
自分が直面している事態とあまりにもかけ離れすぎていて。
老婆の舌が、うまく回らなくなった。
「ええっと、これってぇ……」
「事件に決まってるじゃん」
「事件、事件です。さっき、男の人に襲われてぇ……」
ズドン。そんな音がどこからか聞こえてきた。
知樹が素早く外に飛び出すが、老婆は動かなかった。
「そちらはいま、どちらにいらっしゃいますか?」
「ここは……大桑村の城下です」
ぷつん。不意に受話器から異音が流れた。
「もしもし? もしもしっ!」
信じたくない。この電話が通じなくなったなど。
しかし、いくら叫んでも返事は来ない。
ふと、ツーという音すらしていないのに気付いた。
「くそっ、あいつらっ!」
外から聞こえた知樹の叫びが、この事実を再認識させた。
何者かの手によって、電話線が断ち切られたのだ。
◆外部との連絡が───!




