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2021年5月29日08:47 永葉県大桑村城下
何気なく、使えなくなった方位磁石に視線をやる。
相変わらず針は南を向くばかり。
しかしよく見ると、針が上を指しているのに気づいた。
「上、かぁ」
「上にはお城の跡地があるよ」
知樹が発した何気ない独り言に、洗い物をする老婆は答えた。
思いがけぬ反応に面食らったが、やる事もないので問い掛けた。
「確か、大桑山城跡?」
「そうそう。昔、そこの県道が栄えとった頃、街道を見張るために満久馬忠徳さんが建てたもんだわ」
羅宮凪島統一から、本州尾張・三河への上陸の伝説は父から何度も聞いていた。
この満久馬の家は、知樹の先祖なのだ。
「今はもう、すぐ南を走っとる高速があるもんで、すっかり車も通らんようになってまった」
「昔の道はなんつーか、ぐにゃぐにゃしてて車が通りにくいからなぁ」
平らで余計なカーブが少ない新しい道か。
あるいはあらゆる自然が行手を阻む、曲がりくねった古い道か。
後者が不利なのは明らかだろう。
「ほんでも、今更都会とかには行けんし。老人ホーム? みたいなとこも、入りたないでなぁ」
「うーん」
軽い気持ちで乗った話題だが、出会って間もない人間が聞いていいのか困ってしまった。
少し軌道を修正するため、話題を変えた。
「あのさ。ばあちゃん、子供とかいないの?」
「おるけどねぇ、東京に行ってから年一回電話が来るか来んか。そうそう掛けてこえせん」
「……なんつーか、自分の住んでるとこに愛着もつってのはいいことだと思うんだ」
適当に流す。
そうするのが安牌、普通の対応というものだ。
しかしこの幕内知樹という少年は、普通という状態から著しく離れた人間だった。
「だけどさ、人間は独りじゃすぐ死ぬ。自然に近けりゃ、なおのことだ」
「まぁ、ほうだわな」
「だからさ。あんまり無茶せず、老人ホームとかそういうの頼んだ方がいいと思うぜ? ばあちゃん、転んで足折っても助けのアテないんだろ?」
老婆は瞑目し、口をへの字にしたまま黙ってしまった。
彼女の住む家は大桑村城下という過疎地域の中でも、人口集中地域から離れた集落だ。
さらに、この集落には彼女以外住民がいない。
城下の中心地や隣の集落である路沿に友人もいるが、彼らがこの家まで様子を見に来れるか。
その答えは、NOである。彼女の足腰は同年代の村人の中でもかなり屈強だ。
真似出来る人間はそう多くない。
発見された頃には異臭を放つ床の黒いシミになっている。
その可能性は、かなり現実的だ。
「死ぬならさ、誰かに看取ってもらった方がよくない? もしかしたら、最期を家族とも過ごせるかもしれないし」
「……ほうだわな」
もっとも、頭が曖昧でなく自力で山道を走ることができる。
それほどの身体ならば、有料老人ホーム以外に選択肢はない。
最低限の年金以外に収入のない彼女にその選択肢はかなり厳しい。
しかしそれは、あまり重要ではない話だ。
流しに汚れを拭い取った食器が揃った。
「ほんなら、そろそろ行くぅ? 私、そろそろ山菜のお裾分けせならんで」
「お裾分け?」
もちろん、彼女は年金だけで暮らしているわけではない。
付近で採れる山菜を集落で配布し、物々交換を行なっているのだ。
知樹が食した油揚げや卵は、こうした経路で調達しているわけだ。
「なら、手伝うっすよ。一飯の恩義ってやつ」
「本当にええの?」
「どっちみち、ばあちゃんの案内がいるしさ。途中まで一緒なんだろ?」
「まあね」
ふたりは優しく微笑みあった。
◆滅びゆく村に、魔の手が迫る───!




