17
2021年5月29日07:48 永葉県大桑村城下
空腹は最高のスパイスという。
ならば渇きはどうだろう?
一口、含む。
味は単なる水道水だが、喉を液体が通ると全身に行き渡るのがわかった。
停滞していた身体の活動が再開される。
死から離れられた安堵と、湿り気の快楽。
渇きとはまさに、何もない空白だった。
「で、あんた小張から来たって? 羅刹の山通って、西の森越えて」
コップの水を飲み干す少年を見て、老婆は完全に呆れ返った。
小張と永葉の県境にある羅刹山。
そこを踏破した後、獣道ですらない山中で丸一日歩き、野営していたという。
「無茶だねぇ。無謀! 死んでまうよ、そんな事しとったら」
彼女の指摘は簡素であり、的確だった。
「予定だったら、折り返してるはずだったんすよ。でも、方位磁石が壊れちゃってて」
彼が取り出した磁石は、村に近づけば近づくほど南に向き、この家に到着する頃には真南を北と言い張っていた。
どうにも奇妙な壊れ方だったが、壊れていることに違いはない。
「まぁ、とにかく。こんなバカになった磁石じゃ続けられんわね」
「そうっすね。お水、ご馳走様でした」
少年は水を飲み終えると、立ち上がった。
常人なら疲労困憊になって当然の状態にも関わらず、米俵のようなリュックひょいと担いでみせた。
「もう行くのかぇ?」
「これ以上、お世話になるわけにもいかないんで」
「もう少し休んでいきゃて。土日はバス来えせんし、どうせ急いどれせんのだろ?」
服は隙間なく汗を吸い、靴下からは血豆が潰れたのか血が滲んでいた。
この少年には休息が足りていない。何も知らぬ老婆から見ても明らかだった。
「そりゃ、まあ」
「こんな年寄りがひとり暮らししとるとさ、ご飯も半端な量作らなかんでかんのだわ。食べてって」
「そこまでお世話になっちゃ……」
ぐぅ、ぐぐぐぐーぅ。
今まで聞いたことのないほど、腹が大きな声で弱音を吐いた。
口では強がるが、体は正直なものだった。
「あーっはっはは! 正直な腹しとらっせる。ちょっと待っとってね」
「……うす」
とんでもない醜態を見せてしまった少年は、顔を赤くして伏せるしかなかった。
◆ ◆ ◆
茶碗に山盛りにされた玄米。
大根菜と油揚げの味噌汁に、大きな卵焼き。
そして糠漬け。
塩気で米を食う、良くも悪くも日本的な庶民の献立だった。
「いただきます!」
両手を合わせ、目前の料理に関する全てに感謝する。
そして、喰らう。
箸のひとすくいで玄米がごっそりと消え、口に味噌汁を半分ほど注いだ。
とにかく、早く済ませることを重視した食い方だ。
「そんなせっせか急がんでも、飯は走ってったりせんよ」
「親父はいつも、こんな感じっすよ」
卵焼きを半分にカットし、口に放り込む。
「忙しない親だねぇ。坊、あんた名前は?」
口直しの糠漬けを箸に摘んだまま、彼は答えた。
「幕内。幕内知樹っす」
少年、幕内知樹はあっさりと答えた。
◆異常少年、絶望的状況に乱入ッッッ!




