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遠くから車のクラクションが聞こえる。
興醒めな騒音から来る苛立ちを遠ざけるため、加賀津谷小作は灰皿のタバコから煙を取り込んだ。
「くそっ、あの無能め……何をしてるんだ」
「あひっ」
苛立ちに身を任せ、隣でうつ伏せる女の尻を叩いた。
彼女達は件の兄妹が情婦にした女の中でも、加賀津谷が特に気に入っているふたりだ。
本当なら、ここにもうひとりいたはずなのに───
「くそがあっ!」
「ぴゃっ」
反対で仰向けになる女の胸をはたいた。
苛立ちと、もう半分の感情は恐怖。
端的に言って、加賀津谷小作は失敗した。
あの兄妹から課せられた『菅原文華の誘拐』に失敗し、与えられた二度目の機会に至っては手を付けてすらいない。
反射的に使った左手から強烈な痛みが走る。
闇医者に縫ってもらった左手は、痺れが残る可能性が高いとのことだった。
この痛みが彼に強い衝撃を与えた。
兄妹───とりわけ、妹。いや弟か。───の影響には個人差があった。
大多数の人間は直接接触しただけで、虜になってしまう。
一方の加賀津谷は正気を保っている方だった。
さもなくば、隣県のゴミ捨て場に送られていたことだろう。
協力しているのは、自分と大学の同期とで利害が一致したためだ。
この部屋の女達も連携プレイでものにしたのだ。
そんな蜜月の関係も、加賀津谷楽器社長としての立場も、もう終わりだ。
手に風穴を開けられて、常に軽く掛かっていた洗脳から覚めたのだ。
───まずは身を隠して、その次に警察に情報提供して身の安全を確保しよう。
相手はヤクザの一部すら掌握している。
半端な立ち回りをすれば、肉を湖に流され、骨は可燃ごみの袋に詰められる。
慎重に慎重を期して、囮を放つ必要がある。
そのために楽器店の従業員を呼んだはずだが───
コンコン、コココン。
扉を叩く音。それも、指定したリズム。
「やっと来たかっ」
ここにいるのを知るのは、件の従業員のみ。
下着だけ履くと、覗き窓のないドアを開く。
半ばほどのところで、物凄い力が外から開け放った。
「よっ」
見知らぬ、黒いガイコツ。
声を上げる間もなく、手が喉仏を掴んだ。
「が、ああっ」
大学のラグビー部時代に受けた折檻が脳内を流れた。
押さえつけられる気管、軋む軟骨。
一方的で、圧倒的な相手から受ける暴力そのものだった。
「ゆ゛っ、ゆ゛る゛じでっ」
「罪に自覚があるんだな。話が早くて助かる」
聞いたことのある声。しかし、脳のリソースを回想に割く余裕はなかった。
あるのは、助命だけ。
「すっがわら文華を、なんとか……」
「やっぱ、先輩も狙ってたんだな」
加賀津谷は自分の耳を疑った。
この発言はまるで、菅原文華の側にいる人間の言葉ではないか。
「あんたっ、あの兄妹の差金じゃ……」
相手が質問を許す気配はない。
喉の圧力が緩んだと思った刹那、強烈な蹴りで彼の体は机に叩きつけられた。
「がああっ」
「きゃあっ」
ガイコツの眼孔の中。そこにある白い目が女を一瞥する。
すぐに興味を失うと、視線は加賀津谷に向けられる。
「菅原文華と言ったな、差金とも言ったな」
「いっ、言って」
「言ったよなぁ!」
拳の一撃が鏡を砕いた。
光の粒子が部屋を舞う。
「言いましたっ」
「指示役がいるんだな」
自分の判断を悔いても、もう遅い。
確実に相手の逆鱗に触れてしまった。
ガイコツは割れた鏡を手に含むと、空いた手で加賀津谷の頰をわし掴みにした。
「誰の指示だ? きょうだい、って奴か?」
命乞いと、口から漏れた言い訳。
それが、どうも別件でやって来た相手に推理するファクターを与えてしまった。
「ダーク・ステートだな」
「……はぁ?」
思わぬ言葉に、素っ頓狂な声が漏れてしまった。
相手は反抗的態度を許すような手合いではない。
頰を掴む指に力が入り、口が開かれた。
ずいとにじり寄る手の中で、光り物が自己主張した。
───こいつっ、鏡の破片を口に押し込む気かっっっ!?
首を強く振る。もうしない、もう侮辱めた態度はしない。
言外に強く主張すると、鋭利なものは遠ざかった。
「そう、兄妹です。兄と、妹……」
「どんな奴だ?」
「それは……人を、狂わせます」
「薬物か?」
「そんなんじゃない。もっと……訳のわからない力で」
ガイコツが加賀津谷を立たせると、ベランダの窓に叩きつけた。
窓は枠ごと外へ飛び出し、彼の後頭部からは血が溢れ出した。
「がああっ、なんでえっ」
「舐めるのも大概にしろ」
「本当っ、本当なんだぁっ。あいつらっ、見てっ」
加賀津谷はベッドで怯える女達を指差した。
彼女らは圧倒的な暴力を目の当たりにして、すくみ上がっている。
「俺みたいな……不細工が、女二人をどうこうできると?」
「どうせ金だろ。劣った人間は金で靡く」
「出来るわけないでしょうっ、相手は人間なんだっ。奴らは、人からまともな思考を奪うんだっ」
まともな思考を奪う。
その一言は、ガイコツの興味を惹いたらしい。
加賀津谷は流れるようにベランダの隅に追いやられた。
「じゃあ、最後の質問。そいつらはどこにいる?」
「わからないっ。色んなところを移動しててっ……」
腹を殴られ、怯んだ隙に両腕が腰を捉えた。
体重100kgを超す巨体が、容易くベランダの手すりに乗せられた。
「あっ、ひいっ」
「頭冷えたか? 考えてみろよ」
もし相手の気に入る答えが出せなければ、自由落下を強いられる。
人間は角度次第で、僅か1mばかりの落下で死に至る。
ここは三階、死ぬ可能性の方が高い。
───考えろっ、考えろっ。このガイコツは、下手なヤクザより恐ろしいぞっ。
混乱した頭で状況を整理する。
自分は菅原文華誘拐を命令され、失敗した。
現状報復を恐れて逃げようとしたところで、こうなっている。
そこで、気付いた。
まだあの兄妹は文華を諦めていない。
計画の進捗は、把握していないしする気もない。
その癖、どういうわけか成果だけは強く求める。
「誘拐が成功した事にすれば、誘い出せるかもっ」
「いい考えじゃん。連絡は?」
「俺の携帯で、テレグラムでやってる。携帯のパスは……」
加賀津谷のスマホはテーブルに転がっていた。
ガイコツは踵を返すと、それを手に取った。
───今なら、いけるんじゃないか?
スマートフォンの操作に集中し、背を向けている。
今ならタックルで倒せば、一転して攻勢に立てるのではないか。
───どうせ殺されるならっ、殺してやるっ!
気配を殺しつつ手すりから降りると、息を吸う。
そして───
「うおおおおおっっっ!!!」
大声を張り上げ、突貫する。
相手を硬直させ、思考の隙を生む。大学時代に学んだ喧嘩の知恵だ。
黒装束の背中が迫り、手が届く。
その瞬間、彼の視界は茶色い靴底に支配された。
───地下足袋……?
独特なシルエットから想起した直後、強烈な衝撃が彼の頭部に襲い掛かった。
不意打ちを仕掛けたと思ったら、不意打ちを受けた。
100kgの質量と、やや遅い速度から生じる運動エネルギー。
それが、若造ひとりの蹴りに相殺された。
加賀津谷は折れた鼻を押さえながらあとずさる。
そこへさらに、追い討ちの蹴り。
強烈な一撃を受けた彼は大きく後退りし、ベランダの手すりに強く衝突する。
ガコン。嫌な音と共に、金属が軋んだ。
「あっ」
自然と体が上を向きはじめ、視界が暗夜の漆黒に覆われる。
世界が遠ざかる。
そこで静止した。
彼を繋ぎ止めたのは履いていた下着と、ガイコツの手だった。
下で落ちた手すりがガシャンと声を上げた。
「あっ、あっ、ありがとうございます……」
助けてもらうために出来うる限りの媚を売る。
化粧で表情を覆う男は冷たい視線を向けたままだ。
「今の話、嘘はないんだな?」
「あっ、ありません」
問いに肯定すると、びりっ。
下半身にわずかな振動を感じた。
現世との、唯一の繋がり。
「助けっ」
「お達者で」
蜘蛛の糸は彼自身の重みによって裂けた。
重力に惹かれた彼の身体は落下し、植木に引っ掛かり、腰から着地した。
「うわあぁぁぁぁっ」
痛みを超えた、強烈な衝撃。近くで聞こえる誰かの叫び。
足が、膝が、腿が、下腹部が、腰が。痺れに塗りつぶされていく。
「しゃ、社長?!」
脂汗がダラダラと流れる。
体中で痛みよりヤバいと警報を鳴らしている。
そんな中で、自身を見下ろすのが呼び付けた従業員と気付くのに少し遅れた。
「起こして、起こしてっ……」
自分が消えていく感覚に怯える口からは、そんな言葉しか出て来なかった。
◆生き地獄───




