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血に濡れた腕で、知樹はフェンスの隙間を広げた。
外界は相変わらず、不気味な静寂に包まれている。
「マック……」
耳元でハンナが囁いた。
周囲に気配は感じられなかったが、声を発するのは危険だ。
「今は静かに」
「加賀津谷……」
一旦放り投げていた名前が飛び込んで来た。
思わず足を止め、その言葉に耳を傾けた。
「あいつが……やったの。銀城学園で楽器を調律してる……」
「そいつは知ってる。本当か?」
「あいつが……あいつがぁっ」
血が沸騰する。
自分の勘は正しかった。やはりアレは、悪なのだ。
では、文華はどうか?
───文華先輩は、奴らの仲間なのか……?
あの発言は、仲間を庇うために発した偽情報ではないのか。
菅原文華はダークステートではないのか。
興奮した頭が飛躍した論理を弾き出した。
しかし、それは流石に却下する。
───違う。先輩は良い人だ。ただ、俺より情報が少ないだけだ。
無自覚な優越感が暴走する怒りを諫めた。
それよりも、今は───
遠くで大きな気配を感じた。
それは、サイレンの電子音という形で明確になった。
「警察だっ」
遠くから声が響いた。
パトカーが発する音色は一つではなく、複数。どんどん増えていた。
速度違反者が居合わせただけとは思えない。
タイミングの悪い救いの手。
もう少し早ければ、知樹は撤収するほかなかっただろう。
「ハンナ、助かったぞ」
「だめ……マックは逃げなきゃ」
彼女は先ほどの一部始終を見ていた。
幕内知樹が人を殺すその瞬間を。
現代の法は、彼の行動をただでは許さないだろう。
「ここまでして助けてくれたのに、捕まっちゃう……」
「そうだな……」
正しいことをした。悔いもないが、捕まるわけにはいかない。
やるべき事ができてしまったのだから。
ハンナの安全は確保されたようなものだが、もう少し安全そうな場所で別れよう。
そう考えた知樹は入って来た隙間から少し南下し、最寄りの橋で警察に連絡しようと考えた。
コンクリートの堤防を歩き、橋を見上げる。
人の気配はない。坂を登って手すりの隙間に体をもぐりこませる。
間違いなく油断していた。
さもなくば、彼がライトを浴びせられるミスをしない。
「はいストップ」
ライトを背にした男が、知樹に呼びかけた。
聞き覚えのある声。というより、聞いたばかりの声だ。
「竹馬仁?」
「その格好では、どんな店でもドレスコードでアウトですよ」
相手は間違いなく、知樹と断定している。
ドクロのフェイスペイントをしているにもかかわらず。
待ち伏せされていたと見て間違いない。
「あんたがどう考えていようと、どうでもいい。こいつを……」
「危害を加える意図はありませんよ」
これを嘘と断定したとして、従わなければどうなる?
状況は反抗を許さなかった。
ハンナを肩から下ろすと、仁が合図を送った。
すると、背後に控えていた部下が毛布を彼女に掛けた。
「立てますか」
「ええ……ちょっと、いいですか?」
「少しなら」
パトカーの座席に送られる前に、ハンナは尋ねた。
「マック……幕内さんをなんとか……」
「ご心配なく。悪いようにはしません」
怪しげな笑みと共に言質を得られたが、遂行されるかまではわからない。
不信感は払拭できないが、信じるしかなかった。
「マック……」
何かを言いたいのに、掛ける言葉が見つからない。
そのまま、彼女の姿は車の後部座席に消えた。
「で? 俺どうなんの?」
念の為両手を挙げたまま、知樹は問い掛けた。
仁の後ろにいる車。ハイビームを向けているためはっきりと確認出来ないが、運転席に人影が認められた。
恐らく、女。それ以上の情報は得られなかった。
「行っていいですよ」
「……は?」
想定外。あまりの言葉に、あんぐりと口を開けてしまった。
「いやさ、普通捕まえるだろ。この格好で、裸の女の子連れて、血だらけで……」
「おや。捕まえて欲しいんですか? 手錠なら用意していますが」
その態度でわかる。逮捕する気は毛頭ない。
しかし、それは行幸だった。
「お前ホントに警官かよ……?」
「違うかもしれませんよ」
「何を今さら」
こんな問答に付き合うのだから、言葉に嘘はないに違いない。
時間稼ぎなら、もっといい手段があるはずだ。
きっと、公安は普通の警官とは違うのだろう。
知樹は自分を納得させると、踵を返した。
「本当に行くぞ?」
「ご武運を」
何をする気なのかも、恐らく把握している。
───俺に手を汚させるつもりか。
邪魔をする気がないのなら、なんだっていい。
炎を心に宿した少年は、闇の中へと溶けていった。
◆一体、なんの目的が───?




