17
暗い空間の二つの人影。
一つは美しい長い黒髪。
もう一つは、脂肪で丸い影。
「いやぁ、しばらく聞かない間に腕を上げたねぇ」
「はぁ……」
加賀津谷。先ほど演奏中にどうだの言っていた割に、自分は足早に舞台裏に向かっていたのだ。
「繊細ながらも豊かな音色。この年で大したもんだ」
もし本当に音楽がわかるならば、硬直した旋律も聞き取れたはずだ。
調律は出来ても、音の良し悪しはわからない。
奇妙な話だった。
「サンライトミュージックって知ってるかな。僕ぁ、そこのPと大学の同期でね……君を紹介したいと思ってるんだ」
サンライトミュージック。音楽業界では大手と呼んで差し支えない企業。
その分野も手広く、JPOPからクラシック。さらに従来の音楽に縛られない、言うなれば創作音楽も発表している。
そんな企業のP。その言葉を素直に受け取るなら、プロデューサー。
制作の総括を担当する人間。紹介ということは、言うなればプロへの近道だ。
「えっと、話が急すぎて……」
もしこの場に部長がいれば助言を得ることが出来たのだろうが、彼女は多忙の身。
加賀津谷と入れ替わるようにこの場から立ち去っていた。
「だから、改めて場を設けようと思ってるんだ。来週の水曜、名気屋駅のマリオネットホテルのカフェとかどうかな?」
「それは……」
次から次へと、雪崩のように情報が押し寄せてくる。
───あんな、出来損ないの演奏が評価される?
だとしたら、プライドが許さなかった。
一方で受けてみたいという欲求もあった。
───あれで評価されるなら、いつもの実力が発揮されれば……
それはもう、凄いことになる。
いずれこのあがり症が改善されれば、きっと自分は国際的に評価される。
なりを潜めていた驕りが、思考の大通りを練り歩き始めた。
この傲慢を補助する大義名分もあった。
───もしプロになってお金を稼げれば、慶くんの居候にならなくなる。
評価されたい。評価に値するはずだ。自立したい。
心の隙間に、加賀津谷という男が入り込もうとしていた。
「どうかな? 決めるのは、話を聞いてからでも遅くないと思うよ?」
向こうもこう言ってる。なら、行くだけ行くべきじゃないのか。
乾いた唇が開いた、その時だった。
「待った!」
うわずった声に、二人は振り返った。
段をのぼるふたり。慶太と、その後ろを歩く知樹だ。
「……なんだい、君らは」
「あっ……」
トーンが一つ落ちた声。手慣れた穏便な威圧だった。
一般人は、こういった攻撃に慣れていない。
実際、慶太は容易く気圧されてしまった。
「こっちは大人の話をしてるんだ。邪魔を……」
「へぇ、大人が学園の外でお話しするのか。どんな話すんだ?」
すかさず知樹が乱入した。
加賀津谷の目的は全く想定の外にあったが、ろくでもない雰囲気は掴んでいた。
「そりゃ、契約とかそういう話だ」
「なら、対等に文華先輩も大人を出さないとな」
「……もちろん、そうですね」
状況が不利と見たのか、口調も改めた。
一方で、声から漏れ出る不機嫌さは隠さない。
彼にとって大人を出されると不都合な事情がヒシヒシと伝わってきた。
「誤解しないで貰いたいんですが、もちろんそう伝えるつもりでした」
知樹は知樹でこの豹変させた態度が酷く気に入らなかった。
「ガキみてぇに不貞腐れやがってコラ、大人なんだろ?」
「別に、そんなことはない。言いがかりはやめたまえ。文華さん、お話はまた今度」
「はっ、はい……」
腹を揺らしながら、足早に舞台を去る。
知樹はその背中を油断せず睨んだ。
◆蝶を狙うウツボカズラ───




