金糸の巫女
ーーーいつも手を伸ばしている
目を覆うような光の中。煌々と輝く金の糸目指して
いつもその先に誰かがいる。眩しすぎて見えないけれどーーー
その先の誰かを見るたび、心が熱くなるような不思議な感覚に襲われる。
「ーーー」
光の向こうの影が自分を呼ぶ。それに応えようとしてーーー
ピピピッピピピッ
「…っ!」
聞き慣れた電子音とともに目を覚ます。
最近こんな夢ばかりだと少し痛む頭を軽く振ってから起き上がる。
いつも通りの朝だ。また少年…九重 榛にとっての代わり映えのない1日が始まる。
高校に行く準備を整えてから一階に降りる。リビングの扉の前で一呼吸。いつもあいつに会うときはひどく気を使う。
「おはよう榛」
「…おはよう、命」
扉を開けると、榛よりよっぽど早起きな兄の命がコーヒーを飲みながら、新聞片手に榛を振り返った。
柔らかい茶色の瞳と髪色は榛と同じだが、他は大きく異なる。大学で何があるかは知らないが、スーツ姿の命は榛に微笑みながら「ネクタイ、曲がってるぞー」なんていいながら、榛のネクタイを直した。
そんな命を止めず、榛はリビングを見回す。
父親はとっくに仕事に出かけており、母親はまだキッチンで命の弁当を準備していた。いつもの九重家の光景だ。
榛は命に「ありがとう」と声をかけてから、兄の隣を通り過ぎ、キッチンに入り手早くパンをトースターの中に放り込んだ。冷蔵庫から500mlのミネラルウォーターを取り出しバックに詰め、生焼けのパンをかじりながら、命に「朝練だから」と声をかけて家を出た。
榛にとって、九重家にとって、いつもの光景だ。
兄の命はよくできた人間だ。大仰な名前に見合うような人で、文武両道、才色兼備。何をやらせても何かしら賞を取ってしまうような、そんな人間だった。そんな兄に父や母は期待して…そして、榛にも期待した。
だが榛は兄のように秀でたところは一つもなかった。器用なのは器用だ。大抵真ん中あたりの成績は取れる。だが、そんなことを両親は望んでいたわけではなかった。
…待っていた結果はこれだ。家ではいてもいないような扱いで、両親には期待の一つされない。両親には兄がいるから。
最初はなんだかんだと両親の目を引こうとしたが、そのうち諦め受け入れた。これでいいのだと。
今家に居場所があるのは兄が両親に榛のことを通してくれているからだ。
だからといって兄のことが好きなわけではない。むしろ恐ろしいのだ。兄が何を考えて榛に気を遣っているのかがわからない。
…榛は命のことが嫌いだった。
特別な日なんかではない。いつも通り学校に行って、いつも通り授業を受けて、いつも通り家に帰るだけだ。
12月、だんだんと暗くなるのが早くなり、空はもうほとんどが濃紺に染められ、ぽつぽつと星が輝き出している。
息を吸うと冷たい冬の風がつんと鼻の奥を冷やした。
まばらにある街灯が榛の横顔を照らした。
今日も特に用事はなく、だらだらと外が暗くなるまで時間を潰した。
携帯を触りながら歩きなれた道を歩く。家までの道のりはもうなれたものだ。
もうすぐ、この角を曲がると家が見える。
榛の居場所はなくて、笑みを貼り付けた兄だけが待っている家が。
ーーー足が止まった。胸がもやもやとして気持ちが悪い。
不当な扱い、兄への劣等感、自分に対する負の感情。
いろんな思いがないまぜとなって榛の心を突き刺す。心臓がズキズキと痛み、苦しくなった息を吐き出す。
「…このままじゃダメだな」
このまま家に帰ったとて、兄に心配されて余計に榛の肩身が狭くなることだろう。
もう少し暇を潰そうと、回れ右をして歩き出す。
いつも通る道から、あまり行かない道へと。
街灯が数を減らし、暗闇が目立つようになった道のその一歩を踏み出したその時ーーー
浮遊感。
「…えっ」
榛は知らずにマンホールにでも落ちてしまったのかと下を見る。すると…
青。蒼。碧である。
「な、これっ」
上を見ようとも、落ちたと考えられるマンホールの穴も、先ほどまでの濃紺の空、街灯の光もなく、ただ薄い雲と晴れ渡るスカイブルーが広がるのみであった。
急激な下降感と風圧。
榛は上空をものすごい勢いでスカイダイビングしていた。
「うぉおぉぉぉぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
感情の表出が少ない榛だって、驚くときは驚く。叫ぶときは叫ぶ。
非現実な状況に命の危険さえ感じながら、榛は叫びながら急下降して行った。
ものすごい風圧で息を吸うのすら苦しく、頼みの綱であった携帯の入った通学カバンは先程「まぁ頑張れよ」と言わんばかりに榛の腕をすり抜け飛んで行ってしまった。
とりあえず榛は死ぬ前にせめてここがどこだか確かめたいと、周りを見渡した。
ここら一帯は森林地帯なのだろうか、針葉樹林が所狭しと並んでいる。遠くの方には微かに町のような開けた街が見えた。
スカイダイビングをしてる人はこんなに綺麗な景色を見てるんだなぁ…と思うほどの絶景である。
『この高さだったら、なんか特徴的なものがあるだろ!』
しかし、榛の期待を裏切り眼下に広がるのは見慣れぬ景色ばかりである。
そして榛は気づく。
「なんだ、これ…」
ーーー糸である。金に光る細い糸。
その糸がまるで大地を包み込むかのように、四方に伸びている。
よくよく見ると、かなりの数だ。
榛はこんなものが地球に巻きついているなんてことは習った覚えがない。
いやしかし、榛の知らないところでお偉い人は知っていたのかも…?
そんなことを考えている間に一つの金色の糸が前方に迫っていた。
「や、やばい…!」
避けるすべもなく榛は金色の糸に衝突する。
「いった!!!…くない…」
榛の思いを裏切るように金糸はふわりと榛を受け止めた。
よく見るとなかなか太い糸である。榛が抱きつけるぐらいの太さがある。
金の細い糸が幾重にも幾重にも重なって太い糸を形作っていた。
「なんだこの糸…」
まるで金色の糸から光がこぼれ出ているかのような神々しさ。触れると少し暖かい。表面はツルツルとしていて、本当に糸か疑うぐらいだ。
榛は今の状態も忘れて、糸に触れる。
「…変な糸だな……って…うぇっ!?!」
…ズルズルと落ちている。当たり前である。ここは高度うん千メートルという上空。そして金糸はカーブを描いて地上を取り巻いているのだ。
…安心したもつかの間。榛はその糸に掴まったまま、重力に引かれ糸のなだらかなカーブを勢いよく下っていった。
ガタガタ…
「…ん…」
榛は不規則な振動で目を覚ます。
身体中が痛く、口の中は血の味がする。
指先、足先…動く。
視界…霞むが、目は開けられる。
あの上空から落ちたと考えると、運が良すぎるぐらいだ。
辺りは暗く見渡すがよく見えない。時折硬い木の床が、ガタガタと揺れた。
近くで息遣いを感じる。ヒヒーンと馬の鳴き声が近くで聞こえた。
ーーー何かに乗っている。
寝起きの体を起こそうとすると、何か柔らかいものに頭を載せていることに気づいた。
そっと目線をあげる。
そこには一人の少女の顔があった。
「ーーーっぅ…」
榛は急いで体を起こそうとしたが、身体中の痛みで断念せざるを得なかった。
そんな榛の様子に気づいたのか榛の頭を膝に乗せてくれていた少女が榛にかすかな笑みを榛に向ける。
「まだ動かないで、怪我がひどいの」
少女は榛の頭を少し撫で、このままの状態でいるよう促した。
少女に促されて榛は膝枕の状態のまま自分の体を見た。
硬くて冷たい首枷が付いている。そこから伸びる鎖が手枷、足枷へと続いている。
先ほどまで来ていたはずの高校指定の制服は姿を消し、薄汚れた麻布の服を着ている。
つけていたはずの眼鏡やマフラーも同様にない。
全身に擦り傷や打撲痕があり、上空からのフライトがどれだけ過酷であったかを物語っていた。
「…なんだ…これ…?」
榛は首枷につながる鎖を引っ張りながら、変わり果てた自分の姿に独言る
少女はそんな榛の言葉に律儀に返事した。
「奴隷商だよ、君はつい一刻ほど前かな?連れてこられたんだ」
奴隷商…現代日本でこんなものはなかった。外国になるとあるかもしれないが…
榛が辺りを見回すと、暗さになれてきた目が榛と同じような格好をした人たちを映し出した。少女の言う通りみんな奴隷なのだろう。
「まってね、今微精霊に誰か呼んできてってお願いしてるから」
少女はまた榛の頭を撫でながら、呟いた。
よく見ると整った顔をしている子だ。大きな瞳に少し癖がかった髪を二つにまとめている。人の良さそうな雰囲気で、榛のこともきっと放って置けなかったのだろう。少女の周りにはふわふわと小さな光がいくつか浮かんでおり、少女の胸元には上空で見かけたものと同じ金の糸が輝いていた。
「また金の糸だ…」
榛が呟くと、少女はびっくりしたように大きな目をさらに大きくした。
「…君糸が見えるの?」
少女がぐいっと榛に顔を近づけて尋ねる。同じ服を着ているはずなのに、少女からは甘い匂いがして、榛は思わず顔を背けながら少女に答えた。
「あぁ、その胸元の糸、金色の…空にあったのと一緒だ」
少女はその答えを聞いて、どこか悲しそうな顔をした。榛は何か悪いことを言ってしまっただろうかと、先ほどの言葉を振り返ったが、何が少女の顔を曇らせてしまったかわからなかった。
と、そんなやりとりをしていると…
ガシャーーーン!!!!!!
「っ…!」
物凄い轟音とともに奴隷商の馬車がひどく揺れた。どこかで馬が嘶く声も聞こえた。
少女は榛の頭をかばうように抱きつき、榛は顔面で少女のささやかな膨らみを受け入れた。
外の様子もきになるが、まずは目前、言葉通り目前の柔らかさが気になる。榛がどう言葉をかけようか悩んでいると、少女が体を起こした。
「だ、大丈夫?痛いところはなかった?」
「あ、あぁ…い、痛くはなかったんだが、その…」
榛が伝えようか伝えまいか悩んでいると少女は胸を榛に押し付けてしまっていたことに気づいたようで、顔を真っ赤にして満身創痍な榛に遠慮しながら、「ばかっ」とデコピンをした。
周囲の奴隷達も何が起こったのかわからないようで、そこらじゅうで、「なんだ…?」「どうした?」と声が上がっていた。
少女は榛の頭を膝からよけて、こそりと立ち上がり、榛の耳元に小さな口を近づけた。
「きっと私が微精霊に人を呼んできてってお願いしたからだと思うの。今のうちに外に出よう」
立ち上がると少女の小柄さがさらに目立つ。榛はこう見えて身長が175センチはあるが、その榛の隣に並ぶと榛の腰より少し上ぐらいの背丈ではないだろうか?
そんな少女が「よいしょ」と可愛く声かけをしながら、175センチの榛を軽々と横抱き、悪く言えばお姫様抱っこし、持ち上げた。
「えっ、ちょっ」
「ちょっと揺れるけど我慢して」
少女はそういうと、ひょいひょいとほかの奴隷の間を抜け、あっという間に奴隷商の馬車から出てしまった。
突然の光に網膜が焼かれ、視界が白く染まる。光に目が慣れると、ここが森の中の道であることがわかった。
奴隷商の馬車は合計で3台。その先頭一つの操縦席が見るも無残に潰され、炎が上がっている。少女に続いてちらほらと奴隷達が馬車より降りて、そこら中に散っていた。
よく見ると先頭の馬車の前に二つの人影がある。男女のペアのようだ。紅蓮に燃える髪を持つ女性と深雪のような髪を持つ男性が馬車の行く手を阻むよう立っている。
女性の方が奴隷商の馬車に向かって声を張り上げた。
「私は二等裁縫師のスフィアだ!混合種以外の奴隷商は禁じられている!!おとなしく投降しろ!」
女性の声に対して、操縦席にいた奴隷商人達は震え上がり、我先にと逃げ出した。その数6人。
女性は「逃すか!」と言い、空中に手を差し出した。
ーーーすると、
何もなかった空中に小さな赤い光が浮かび上がり、型をなし凝集。みるみるうちに一本の長い糸へと変貌した。その糸はまるで蛇のように空中をうねり、次々と男達を絡め拘束した。
男達はその場で地に伏せ、「なんだぁ!?」などと声を上げていた。
「な、なんだ今の…」
「裁縫師様だよ!君も糸が見えるんだよね?あの人たちを捕まえたのが見えたんじゃないかな?」
榛が独言るとすぐ耳元で少女の声が聞こえた。忘れていたが、今の今までずっと少女に抱きかかえられていたのだ。
「ご、ごめん」と榛は少女に目を向ける。
ーーー綺麗だと思った。
綺麗な大地の色の瞳、高い位置で二つに結われた茶色くて、毛先になるほど若草のような色になる髪、少し尖った耳、整った顔の少女がお人好しそうな笑みを榛に浮かべながら、「大丈夫だよ」と榛に笑いかけた。
その顔を見て、どきっと心臓が高鳴るのを覚えた。
榛が少女を見て顔を赤くしていると、そばに誰かが近寄ってきた。
榛と少女がそちらを見やると、榛よりも偉丈夫な男が立っていた。先ほど馬車の前にいた男の方だ。
男は長い前髪に覆われ片方しか見えていない気だるげそうな垂れ目を少女に向け、言葉を発した。
「…よう、俺はスフィア…あーあの、ぼんぼん燃やしてるオネーさんね、の守護者のナタだ。微精霊に助けを頼んだのはお前か?」
ナタは真っ白な髪をボリボリとかきながら訪ねた。
男を一言で表そうとしたら「胡散臭そう」である。真っ白な無精髭を生やしながら、どこか古き良き日本を思い出すような着物を着崩して着用している。腰には日本刀を二つ挿しており、癖のある深雪の髪を一つにまとめ、長い前髪で左目を隠している。右目は血の色のように赤く…どこか雪うさぎを思い出すような色合いである。…おっさんの雪うさぎってなんだ!という話だが。
もっとも異彩を放つのは鈍色に輝く首枷だ。奴隷がつけている首枷のようなものを男はつけている。
そんな男を前に少女は口を開いた。
「はじめまして、ノカと申します。微精霊に頼んだのは私です。助けてくださりありがとうございました」
ノカは榛を横抱きしたまま、深々と頭を下げた。榛はされるまま「うわっ」と落ちそうになり、ノカにしがみついた。ナタはそんな榛を見て「…ははっ」と少し笑った。
「なんだァこの情けないのは」
ナタは榛を指差しながらノカに尋ねた。ノカは眉を少し下げ
「この方は怪我をされているんです。治療の心得はないでしょうか?」
とナタに尋ねた。榛はそろそろ恥ずかしくなってきたので、ノカに懇願して、地面におろしてもらった。
よくよく見ると、ノカもナタも普通の人ではない感じだ。普通の人でないとは人種的意味で、ノカは耳が尖っていたり、よく見ると毛先が葉っぱのようになっていたり、ナタは垂れた長いうさぎのような白い耳が髪の毛に混じって生えている。
現代社会において、耳が尖った人間や、長い耳を持つ人間など確認されたことがない。まさしくファンタジーだ。
そして榛は一つの答えに行き当たる。
「…異世界転移…?」
突然のスカイダイビング、変わった人種、見たことのない金の糸。どれもこれも異世界のものだと考えれば、納得できないこともなくなくない。
ノカが榛の言葉を拾って、「いせかい、てんい?」と復唱していたが、申し訳ないがスルーだ。
この世界には榛を無下に扱う者はいないし、何より命がいない。
榛にとって命がいない世界は心から安心できる場所だった。
「よかった…」
榛は涙を滲ませながらぼろぼろの体を抱きながら膝をついた。
ノカはそんな榛を見て驚いてしまったようで「あわわ、大丈夫?もっかい抱っこしようか…!?」と榛に駆け寄った。
安心感と、全身の痛みを感じが榛はそのまま地面に蹲り意識を失ってしまった。