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奉仕国民のみなさん!

作者: npoli


   一


「奉仕国民のみなさん! おはようございます!」

ただ眠るためだけに用意されたような、無機質で小さい部屋。その中で唯一目を引く、壁に埋め込まれた大きなTVが初老の男性の姿を映す。

「みなさんが尊敬して止まない稀代の英傑、終身名誉総理大臣様です!」

男性は自らのことをそう呼んだ。いや、お呼びになったのだ。

それは総理大臣様のご挨拶。僕たちにとっての目覚めの合図だ。

「さぁ、今日も奉仕活動の時間が迫ってまいりました。ワタクシの美しい国を守るため、精一杯奉仕活動に励みましょう!」

総理大臣様がそのようにおっしゃられた直後、TVの電源は自動的に落ち、ただの無機質な壁へと戻った。

「今日も素晴らしい目覚めをありがとうございます! 総理大臣様!」

感極まって、思わず言葉が出てきてしまった。

総理大臣様のご挨拶を拝聴すると、どれほど疲れていたとしても、どんな悪夢を見たとしても、すっきりとした朝を迎えることができるのだ。

そんな僕の名前は赤柿八番あかかきはちばん。赤柿家で育った八番目の人間で、この国を支えさせて頂いている奉仕国民の一人だ。

僕は顔を洗って、鏡に向かって身だしなみをチェックする。無精ひげも伸びていないし、髪型も一分刈りの坊主頭で乱れはない。続いて笑顔の練習を行って、奉仕活動の心構えを確認した後、国から配給して頂いた朝食を摂る。それは乾パン型の栄養食品で、これを一つ食べるだけで夜まで保つという非常に優れた国民食だ。それから灰色の寝間着を脱いで、同じく灰色で統一された作業着と作業ズボンを身に着ける。これが我々奉仕国民の正装――奉仕服なのだ。

「いって参ります」

使い古された安全靴を履き、総理大臣様のお住まいの方角へと一礼してから家を出た。

一歩外へ出れば町中が灰色一色に染まっている。それは僕と同じように奉仕服に身を包んだ人々だけでなく、僕の住む五階建ての住宅も、各住宅を隔てるブロック塀も、電柱や道路はもちろん、ポストでさえ全てが灰色で染め上げられていた。

そう、ここは奉仕国民だけが暮らす町なのだ。

「美しいなぁ」

ふと、そんな台詞が漏れてしまう。いつにも増して今日の僕は感情的だ。

この美しい町が保たれているのも、全ては『一億総奉仕社会化法』という法律にある。

それは僕が生まれる少し前――今から三十年ほど前に施行された法律で、国民を政治家や官僚、富裕層など一部の上級国民様を除いて、全て奉仕国民として国家の管理下において頂けるというものだった。

ああ、何一つ悪いことなどない、何て完璧な法律だろうか!

今度は声に出さず、心の中で僕は叫んだ。

奉仕国民は国家あるいは上級国民様に奉仕活動を行い、奉仕することの喜びを得て、さらには衣食住まで与えて頂ける。労働ではないので、報酬が発生する訳ではないため、そこに貧富の差はない。いや、そもそも僕たち奉仕国民にとってはお金という存在が過去の遺物となっているのだ。この法律が施行された際、国民は平身低頭してそれを受け入れ、そこに込められた革新的な考え方に涙したのだという。

僕は多くの感動を胸に抱いて、自転車のペダルを大きく動かす。夏の陽射しが早朝にも関わらず強く照り付け、道路から湯気が出るような暑さの中を、奉仕場まで勢いよく突き進んでいく。

命に関わる危険な暑さ、と昔の人たちは言ったそうだ。けれど、通い慣れた道で見かける馴染みの人たちは、皆満面の笑みを浮かべている。僕と同じく奉仕場へ向かう作業員、町を綺麗に保つため水を撒く清掃員、総理大臣様を称える国歌を斉唱する子供たちも、皆、一様に笑顔だ。

何て、何て幸福な国なんだろう。

不満の声を上げる人たちなんて誰もいない。そう、誰一人いないのだ。

その理由は『特別奉仕警察』という偉大な存在にある。

それは一億総奉仕社会化法が成立したと同時に作られた、強大な権限を持つ新しい警察組織で、法律に反対する非常識な人間を探し出しては逮捕・連行し、この国から排除してくれているのだ。

日夜を問わない彼らの活躍によって、今やこの国は世界中で一番幸福な国となったという。

自然と、ペダルを踏み込む力が増していく。特別奉仕警察――奉警の英雄たちのことを考えたからだ。実はかつて、僕は奉警になろうとしていた。今や作業場でしか使われていない、無駄に大きいこの身体も、奉警を目指して日々鍛えていたものだ。もっとも、どれだけ身体を鍛えても、またどれだけ武道を学ぼうとも、僕に奉警になる資格はなかったのだが――。

いや、今はそんなことを考えまい。これから奉仕場で作業が始まるのだから。昨日の作業終了から実に六時間も待ち焦がれていた、僕の今を生きる喜びが、すぐそこにまで迫って来たのだから!

見上げるのは年季を感じさせる五階建てのビル。僕が通わせて頂いている奉仕場だ。

多くのトラックが横付けされた、吹き抜けの一階には、すでに二十名ほどの奉仕仲間が直立不動の姿勢で待機していた。作業開始時間は朝の八時からだが、その三十分前からミーティングが始まり、僕たち作業員はさらにその三十分前から待機するのが常識となっていた。

もちろん、皆の顔には満面の笑みが浮かんでいる。少しでも早く奉仕活動に入りたいという思いは僕たちにとって共通のもので、誰一人欠けていることはない――。

「あれ?」

違和感を覚えて、思わず僕は声を出した。けれど、その直後、

「おはよぉござぃまぁす!」

この奉仕場を仕切る作業部長がやって来たため、ひとまず僕は生まれた疑問を頭の隅へと押しやった。

「それでぇは、きょぅのみぃーてぃんぐをはじめぇまぁす!」

舌使いの独特な喋り方をするこの男性の名前は杉四番すぎよんばん。髪は老人のようにかなり薄くなっているが、年齢は僕といくらも変わらない。それでも、この奉仕場において現場作業を一任されているというのだから、部長という立場だけでなく、人としても純粋に僕は杉さんを尊敬していた。

「きょぅのちゃっかは十トンとらぁっくが二十だぁい。しゅっかは二千けぇん、ぁりまぁす! ぁと、ぁしたは『マジック』と『ヴァイス』のぉしんさぁくがはつばぁぃされぇるぅのでぇ、ぁしたのじゅんびぃまでやりぃたぁぃとおもぉぃまぁす!」

『マジック』と『ヴァイス』。それはそれぞれ『マジック・パウダー』と『ヴァイス・プルファー』というのが正式名称で、いずれも上級国民様がお使いになられる『幸せになる薬』だ。

この『幸せになる薬』がどういう薬なのかは、奉仕国民である僕の知識では詳しく伝えることができないが、東南アジアや中南米など海を越えないと入手が難しいもので、しかも上級国民様の生活になくてはならないものだと聞いている。

そして、僕たちの奉仕場はその幸せになる薬の卸問屋であり、その上、この国においてトップシェアを誇っているのだという!

そんな重要な仕事の一端を担えるのだから、僕はもう奉警になれなかったことを悔んだりしてなどいなかった。

「それかぁら、きょぅのほうししゅぅりょぅよてぃじかぁんでぇすがぁ」

とはいえ、どれだけ大事な奉仕活動であっても、終わりの時が来るのは避けられない。定時は夜の八時なのだ。しかし――、

「おわぁったらぁ、おわぁりぃとします!」

杉さんはそう言った。言って、くださった!

仲間たちの笑顔がより一層花開く。この場にいる全員が定時を気にせず奉仕活動を続けられることを喜んでいた。杉さんが最初に告げた着荷と出荷の量を考えると夜の十時は回るだろう。そうすると、少なくとも十四時間は奉仕活動に身を焦がすことができる。こんなに、嬉しい、ことはない!

最後に国歌を斉唱してミーティングは終了だ。壁に掛けられた時計の針はまだ八時に程遠かったが、開始のチャイムを待ちきれない皆はもうすでに、着荷作業に励もうと笑顔でトラックに向かって駆け出していた。

もちろん、僕も皆に続いて駈け出そうとも思ったのだが、まずは先ほど覚えた違和感を解消するため、一人の男性の元へと向かうことにした。

芥子嶋けしじま管理長。質問の許可を願います!」

「あ?」

一言、その男性――芥子嶋管理長はそう返した。深く皺の刻まれた浅黒いその顔には、奉仕国民の皆と違って笑みがなく、眼鏡の下の血走った目が僕を値踏みするように睨み付けている。

この方のフルネームは芥子嶋弥二男けしじまやにおと言い、僕たちとは違って由緒ある姓名の持ち主――つまりは上級国民様なのだ。僕たちの奉仕作業を管理するため国から派遣されているお方で、その一環として、今日も朝から奉仕場の片隅に腰かけて、幸せになる薬を入れたキセルを口に咥え、品質に問題がないかどうかを直に確かめていらっしゃるのだ。

「何や、西柿にしかき。言うてみい」

西方訛りのその言葉に、僕の心は嬉しさでいっぱいになった。

芥子嶋管理長は僕の名前を一文字でも覚えて頂いている!

思わず、感謝の言葉が口から出そうになってしまったが、芥子嶋管理長の貴重な時間を無駄にはできない。ぐっと堪えて、今尋ねるべき言葉を紡ぎ出した。

枯山かれやまさんと金梅かなうめくんが来ていなかったようですが、二人はどうされたのですか?」

枯山さんと金梅くん。二人はこの奉仕場において、僕が最も親しくしている人たちだ。

枯山さんは僕に奉仕作業のイロハを直接教えてくれた初めての先輩で、逆に金梅くんは僕が奉仕作業のイロハを直接教えた初めての後輩だった。その二人が揃って姿を見せないものだから、気になって仕方なかったのである。

「あ?」

また、一言。今度は肺に溜め込んだ煙をゆっくりと吐き出しながら、芥子嶋管理長はお言葉を返す。煙の痺れるような甘い匂いに、頭が少し熱くなったが――、

「何アホなこと言うとるんや、西柿! あの二人はこないだ非奉仕国民として連行されたやろ!」

芥子嶋管理長のその発言に、僕の頭は一瞬で冷めきった。

「おい、西柿! 笑顔出せぃ、笑顔! 何でお前はすぐ笑えんなるんや!」

芥子嶋管理長の目つきがより一層険しくなり、唾とともに怒号が飛んだ。無意識の内に笑顔が消えてしまっていたらしい。

「申し訳ございません!」

僕はすぐに笑顔を浮かべ直した。ただ、それを見ても芥子嶋管理長の目つきが戻ることはなく、

「お前の代わりはいくらでもおるんやからな」

一言、そう残して、煙に包まれた世界の中へと帰っていかれた。

――ああ、本当に芥子嶋管理長のおっしゃる通りだ。僕のことを思い、こんなに暖かいお言葉をかけて頂ける上級国民様を満足させられないようでは、僕にこの奉仕場にいる資格はない。

そう。どれだけ身体を鍛えても、どれだけ武道を学んでも、奉警に入る資格を得ることができなかったように……。


   二


僕たちの奉仕活動は上級国民様を満足させるためにある。それは奉仕作業から生まれるその結果だけでなく、奉仕作業自体の姿だってそうだ。

そして、そこに『笑顔』は欠かすことができないものだった。

例えば、今僕はトラックから下ろされた荷物をリレー形式で五階まで運ぶ、という奉仕作業を行っている訳だが、この荷物がなかなかに重い。幸せになる薬が段ボール箱いっぱいに詰められており、優に三十キロは超えている。しかも、空調なんて贅沢は敵だから、湧き出る汗はとどまることを知らず、濡れに濡れた奉仕服が僕たちの奉仕活動を阻害するようにまとわりついていた。しかし、そんな中にあっても視線を上へ向けてみれば、そこには笑顔があった。

僕の上で荷物を受け取るお河童頭のおばあさん。この会社唯一の女性である五麻田ごまださんにとっては、持ち上げるのもやっとという重さだ。それでも決して笑顔を崩すことはなく、ふるふると身体を震わせながら荷物を運んでいく。そしてまた、視線を下へ向けてみても、やはりそこには笑顔があった。

僕の下で荷物を受け取る背中の曲がった小柄な男性、浜梨はまなしさんだ。この人は先日の奉仕作業で腰を痛め、このまま奉仕国民でいることが難しいと言われたそうだ。そんな時、彼の発したという台詞は今でも僕の心に残っている。

――寿命減ってもいいので、奉仕させてください!

真に浜梨さんは奉仕国民の鑑と言えよう。その後、彼は奉仕場に残ることを許され、今もこうして這いつくばりながらも荷物を取って、荷物と体を引きずりながらも笑顔と共に僕の元へと運んできていた。

もちろん、今僕のそばにいるこの二人だけではない。この奉仕場にいる僕の仲間全員がいついかなる時も笑顔を絶やしてはいなかった。

これこそが上級国民様のお望みになる奉仕作業の姿そのものだ。奉仕活動は清く正しいだけでなく、明るく楽しいものでなければならない。そんな中で、笑顔を浮かべていない作業員など、常識的に考えてあり得ない存在なのである。

……けれど、そうなると僕は非常識な存在となってしまう。僕は常に笑顔でい続けることができなかった。

かつて奉警の面接官に言われたことがある。余計なことを考えているからできないのだと。確かにその通りだと僕も思う。でも、それでも、どうしても考えてしまうのだ。さっきだって枯山さんたちがいなくなっていることを気にするべきではなかった。芥子嶋管理長の価値ある時間を邪魔するべきではなかった。すぐにでも奉仕作業に入るべきだったのだ。そうでないと、今度は僕が非奉仕国民として連行されてしまう――、

「……あれ?」

そこで僕は、再び違和感を覚えてしまった。どうして、どうしてなんだ?

どうして僕は、誰よりも親しかったあの二人が連行されてしまったことを覚えていなかったんだ?

またしても余計なことを考えてしまったため、天罰が下ったのだろうか。僕は荷物を上げる際にめまいを起こし、階段から転げ落ちるはめになった。浜梨さんが僕の下敷きになり、荷物の中身がぶちまけられて白い粉が宙を舞った。

「むかつくなぁ!」

浜梨さんはそう言葉にするも、粉まみれの顔には相変わらず笑みが浮かんでいる。だけど、僕はやっぱり笑顔を維持することなどできず、強く打ち付けた後頭部を押さえ、苦悶の表情でうずくまってしまった。

「何遊んでるんや! 帰れ!」

騒ぎを聞きつけた芥子嶋管理長がやって来て、僕に帰宅命令を出す。夜の八時を告げるチャイムが鳴ったばかりの出来事だった。

申し訳ございません、芥子嶋管理長。僕は本日二度も貴方様のお時間を邪魔してしまいました……。

僕は自分の不出来さに涙を流しながら、それでも顔には笑みを作って帰路に着いた。


   三


「奉仕国民のみなさん! おはようございます!」

目が覚める。気が付くと朝になっていた。身体を起こせば、犬小屋のように小さな部屋を占拠するかのごとく、壁のモニターいっぱいに映し出された初老の男性の姿が飛び込んで来る。

「みなさんのことを第一に考えている稀代の英傑、終身総理大臣様です!」

その男性はたるんだ頬を震わせながら、笑顔を向けて挨拶した。

よくもまぁ自分自身をそんな風に言えたものだ。

「……うっ」

頭が痛む。後頭部に触れると大きなこぶができているのがわかった。

はて、それにしても今の一瞬、俺は何を考えたのだろう?

「さぁ、今日も奉仕活動の時間が迫ってまいりました。ワタクシの美しい国を守るため、精一杯奉仕活動に励みましょう!」

違和感を覚えつつも俺は洗面台で顔を洗う。部屋の中は酷く蒸し暑かったが、これで僅かでもすっきりとした気分にはなれる。続いて口にした朝食は薬品のような味しかしなかったが、丸一日食べていなかった俺にとっては十分なご馳走だ。とはいえ、空腹を調味料にするのも限界がある。今日こそは配給用のプリカをもらって帰らないとな。

汗の跡が残った作業着と作業ズボンを身に着けて、つま先が傷んでシリコンの樹脂がむき出しになった安全靴を履き、いつものように奉仕場へ向かおうと外へ出る。そんな俺を迎えてくれたのは青々と広がる空だった。今日も憎たらしいくらいに暑くなりそうだが、

それでもこの真っ青な空にはどこか心を爽やかなものに変えてくれる力があった。対して、地上は灰色に染まっていて、それは大雨が降る直前の厚い雲を思わせ、心が詰まるような息苦しさを感じさせた。

「……うぅっ」

頭が痛む。俺は何を考えているんだ?

違和感を振り切るように、自転車のペダルを大きく踏み込んだ。向かい風が俺の身体に強く吹き付けてくるが、汗は乾く間もなく次々と吹き出してくる。けれど、そんな暑さの中にあっても、すれ違う人たちは皆満面の笑みを浮かべていた。シールで貼り付けられたような……不気味な笑顔を。

「うぐっ」

また頭が痛んだ。いや、おかしいぞ。俺は頭を打っておかしくなってしまったのか? 俺たち奉仕国民が笑顔でい続けるのは常識じゃないか。

ペダルが重く感じてきて、俺は自転車のスピードを緩めざるを得なかった。そんな時、視線に止まったのは子供たちだ。

「そそそそそそ、そうりー♪ そそそそそそ、そうりー♪」

国歌を斉唱しながら行進する子供たちは皆やはり笑顔で、歌はおろか手足の一挙手一投足まで乱れていない。まるで機械仕掛けの人形のようだ。

「……子供ってあんなものだったか?」

心の中の声を押しとどめることができず、呟きとなって漏れてしまう。頭の痛みも押さえることはできずに、ずきずきと主張してくる。

俺は頭を抱えながら、よろよろとした動きで奉仕場へたどり着くこととなった。

「あ!? お前、今日は遅刻しとんのか!」

奉仕場で俺を待っていたのは芥子嶋管理長の怒号だった。

「お言葉ですが」

まだミーティングの始まる二十分も前だ。三十分前に集まっているのはあくまで作業員が自主的に行っているだけに過ぎない。

そう反論しようとしたのだが――

「言われた通りにしとけばええんや!」

一声。芥子嶋管理長は言葉を吐き捨て、煙をぷかぷか浮かべる作業へと戻っていった。

……なんだ? 自主的な話じゃなかったのか? 少なくとも、俺はそんな規則があるなど聞いていないし、あまりに理不尽な対応じゃないのか?

「ほぅしかつどぅはせかされるぅものぉでしょぉ」

まるで俺の心の内を読んだかのように、杉さんがいらだちを増幅させるような喋り方で注意してくる。もちろん表情は笑顔のままで。いや、しかし、急かされるも何もおかしいだろう。そもそも奉仕活動はまだ始まってすらいないんだぞ――

「痛っ」

思わず言葉に出てしまうほど、頭の痛みが酷くなった。いやいや、おかしいのは俺の方だ。上級国民に奉仕国民が反論するなんて非常識だし、上級国民の要求がどんなものであったとしても、ただ黙って従うのが奉仕国民の常識じゃないか。

……とはいえ。

「きょぅのちゃっかは十トンとらぁっくが二十二だぁい。しゅっかは二千五百けぇん、ぁりまぁす! それかぁら、きょぅのほうししゅぅりょぅよてぃじかぁんはおわぁったらぁ、おわぁりぃとします!」

毎日毎日同じような話をただ突っ立たされて聞かされるだけ。こんなものがミーティングと言えるのか? 奉仕活動が急かされるものだというのなら、こんな無駄な時間は省略して、とっとと作業に入るべきなんじゃないか?

「そうりー♪ そうりー♪ そうりそうりそうりー♪ あーべーはーたーそうりー♪」

そして、この国歌斉唱も時間の無駄じゃないのか? だいたい国歌と言いながら、これは国を称える歌ではなく、総理大臣個人を称える歌だ。いつからこの世は一個人のものになったんだ?

けれど、けれども俺がどんなに疑問を抱いても、奉仕活動は続けられる。それはそうだ。これは常識なんだから。疑う理由なんてあるはずがない。そして、皆は奉仕活動を楽しんでいる。ほら、周りを見渡せば今日も皆は笑っている。前も、後ろも、上も、下も、どこかもかしこも笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔――

「うぷっ」

駄目だ、今度は吐き気がして来た。それが頭痛のせいなのか、それとも周りの雰囲気のせいなのかはわからなかったが、俺は許可を得る余裕もなく作業を放り出して、トイレへと駆け込んだ。トイレと言っても、奉仕国民が利用するそれはきちんとした設備がある訳ではない。奉仕場の裏へ置かれているブリキのバケツが俺たちのトイレだ。俺はバケツを掴んで、すでに注がれていた排泄物の上から、自分の吐瀉物を注ぎ足すこととなった。鼻を歪める悪臭が吐き気を促進させた。

ややあって、俺は溜まりに溜まった汚物から視線を反らそうと顔を上げる。すると、別の人間と目があった。五麻田さんだ。彼女は向かいのバケツに腰かけて用を足していた。奉仕国民は男女平等だ。男女でトイレを分けるなんて差別的なことはしない――

頭が弾けるような感覚がして、再び俺は吐いた。今度はバケツに手を伸ばすのが間に合わず、地面に吐瀉物をまき散らすこととなってしまった。とはいえ、もう胃液しか出て来るものはなかったのだが……。

「大丈夫?」

表情は笑顔、声色は心配そうに五麻田さんが近付いてくる。下半身を丸出しにしたままで。

大丈夫と聞きたいのは俺の方だ。あんたには恥じらいってものがないのか?

赤西あかにし!」

今度は怒声が飛んで来た。芥子嶋管理長がまた騒ぎを聞きつけたらしい。

「赤西! お前、また遊んどんのか! 今日も帰れ!」

赤西ってのは俺のことか? 昨日は西柿だったのに、なんで一文字しか合わないんだ? 人の名前に西って付ければ、自分が西方出身者だってアピールできると思ってんのか? だとしたら、あんたの脳みそは猿以下だぞ!

「……わかりました」

言い返そうかと思ったが、そこまでの元気がない。とりあえずここは常識に則って、上級国民である芥子嶋の指示に黙って従うこととした。吐くものを吐ききったからか、頭の痛みがすっきり引いたことが唯一の救いだった。

太陽に見送りされながら、帰路に着けるのは初めてじゃないだろうか。強い陽射しから視線を背けると、配給センターが目に止まった。そう言えば、結局プリカをもらうことができなかったな……。

おそらく夜勤の作業員だろう、配給食の入ったビニール袋を下げた男性がセンターから出てくると、俺はその姿を羨むように目で追ってしまう。袋の中に入っているのは米と梅干しだけで作られた、国旗を模した粗末な弁当だったが、いつも腹を空かせている奉仕国民にとってはご馳走だ。けれど、どれだけ腹を空かせても、その場で食事をとることはできない。皆、割り当てられた狭い部屋に帰ってから、弁当に向かって平伏し、国家に感謝をささげながら食事をとらなければならないのだ。それがこの国の常識だし、俺たち奉仕国民が食事の姿を人前に見せるというのは、上級国民にとって非常識極まりない行為なのだ。

――しかし、それは本当に非常識なのか?

家に帰った俺は、夕食をとることができない上、こんな時間では眠るのにもまだ早いということで、ひとまず寝転ぶだけは寝転んで、コンクリートがむき出しの天井を眺めながら、『常識』について思いを巡らせていた。

国民は奉仕国民と上級国民という二種類に分けられるものだという常識。

奉仕活動は奉仕国民に課せられた義務であるという常識。

奉仕国民は見た目や行動を制限されるという常識。

上級国民は神様だと思えという常識。

総理大臣は国家そのものであるという常識。

――はたして、それは本当に常識なのか?

俺は最初、自分が頭を打っておかしくなったのではないかと思ったが、実はおかしいのはこの国の方で、俺は正常に戻ったのではないか?

そんなことを考えていると、普段使うことのない備え付けの黒電話がチリンと鳴った。俺は反射的に受話器を取る。

「君の考えには根拠がない」

受話器の向こうからは酷くしゃがれた男の声が響いてきた。思わず息をのんでしまい、声を返すこともままならない俺に対して、男は一方的に言葉を続ける。

「君の常識よりも国家の常識だ」

それだけ残して、通話は途切れた。背筋の凍るような思い、というのはこういうことを言うのだろうか。俺は部屋の蒸し暑さも気にすることができず、染みだらけの布団を頭からかぶって眠りにつくこととなった。


   四


「奉仕国民のみなさん! おはようございます!」

またも気が付けばこの時間となっていた。とはいえ、目が覚めたと言うより、無理矢理現実に引き戻されたような感覚だ。昨日起きた奇妙な出来事のせいもあって、眠りが非常に浅く、半覚醒の時間がずっと続いていたような状態だったのだ。

「謙虚な心を忘れない稀代の英傑、終身総理大臣様です!」

謙虚さを微塵も感じさせないその台詞を聞いていると、怒りが沸々と湧き上がってきた。

「うるさい」

TVを消そうと電源を探すも、どこにも見当たらない。それはそうだ。この放送は奉仕国民へ一方的に押し付けるだけのものなのだから。

「さぁ、今日も奉仕活動の時間が迫ってまいりました。ワタクシの美しい国を守るため――」

「うるさいと言っている!」

モニターの中の、ブルドッグのようにたるんだ頬へと思い切り正拳を叩き込む。総理大臣の顔が血で染まった。残念ながらそれは俺の拳から流れ出たものだったが。

「何なんだ、この国は!」

吐き捨てるように言葉を残して家を出る。すると、途端にぞくりと背筋が震えた。何事かと思って周りを見ると、住宅中の窓という窓に貼り付いた笑顔があって、その視線が皆俺の方を見ていたのだ。

恐怖そのものだった。俺は逃げ出すように自転車へ飛び乗り、そのまま脇目も振らず全力疾走することとなった。けれど、通勤中にすれ違う人たちが皆、こっちを見ているということは肌で感じられた。作業員も清掃員も子供たちも皆、何の感情も読み取ることができない貼り付けられたような笑顔のままで。

いつも以上に汗だくとなって職場へ辿り着く。しかし、そこには作業員の姿が誰一人見当たらなかった。ミーティングの三十分前は切っているというのにも関わらず、だ。

代わりに目を引き付けるものが一つ。作業場の中心に手紙がぽつんと置かれていた。俺は導かれるように手紙を拾い上げ、その中身を確認する。そこには次のような内容が印刷されていた。


この国は狂っている。

この国の常識は非常識だ。

この国を正さなければならない。


「それ、共謀罪やからな」

突然、背後から声をかけられた。この主張の激しい西方訛りは芥子嶋しかあり得ない。しかし、今日の彼は煙をまき散らすことはなく、密かに忍び寄っていたのだ。

「何のことです?」

言っている意味がわからない。俺は本当に猿と会話している気分になった。

「でも共謀しとったやろ」

けれど芥子嶋は一方的に言葉を続ける。俺の手に下げられている手紙を睨んで。

「いや、これはここで拾ったものですよ!」

なんなんだこのチンパン野郎は。俺は手紙を後ろへと放り投げた。

「なげぇなぃでねぇ」

すると、また背後から声をかけられた。危ない薬を決めて呂律が回らなくなったような喋り方をするのは杉しかあり得ない。彼は笑顔のまま俺が放り投げた手紙を拾い上げ、再び俺の元へと差し出してくる。その手は白い軍手に包まれ、彼の指紋が残ることのないようにされていた。

「何なんだ、あんたたち! 俺を反乱分子にでも仕立てあげようっていうのか!?」

恐怖を怒りで打ち消すように叫んだ。どうしてだ? どうしてこんなことになっている?

今朝の行動が原因なのか? それとも昨日途中で帰った時からなのか?

「文句言うやつはこの国いらんからな」

しかし、俺の叫びは虚空へと吸い込まれていくだけだった。芥子嶋が自分の背後に視線を向ける。そこにはいつの間にか作業員が集結していた。全員が笑顔と台車を俺の方へと向けてくる。その台車には人が入るほどの大きさの白い箱――棺桶のようなものが載せられていた。

「何をする気だ!?」

ゴロゴロと転がるプラタイヤの音から距離を取ろうと、身を翻す。すると、

「にげぇなぃでねぇ」

杉が俺の身体を羽交い絞めにかかった。けれど、俺は後ろ手で杉の頭を掴み、渾身の力で投げ飛ばしてやった。ただでさえ少なかった頭髪もついでにぶちぶちと抜けてしまったが、そんなことを気にしてやる道理はない。

俺はそのまま奉仕場の外へと駆け出した。

とはいえ、これからどうすればいい? 杉は「逃げないでね」と言ったが――実際、逃げる先なんか存在するのか? 国全体が狂ってしまった以上、もうこの国の外へ出るくらいしかない訳だが、その方法をどうやって手に入れるんだ?

余裕がなさ過ぎたせいだろう。俺は周りに注意を向けることができなかった。曲がり角から飛び出してきた軽トラに俺の身体は弾き飛ばされることとなった。冷たい闇が俺の意識を飲み込んでいく……。


   五


「――おはよう」

そして、俺は目覚めた。酷くしゃがれた男の声に呼び戻されて。この声には覚えがある。

「また戻ってきたのか。ここまで強情だとは思ってもいなかったよ」

声の主は病的に痩せ細った骸骨のような老人だった。だが、そのぎょろりとした大きな目は、生き生きと輝いて俺のことを見下ろしている。

この男が電話の声の主……?

「いい加減、受け入れてもらいたいものなんだがね」

頭の中に靄がかかった気分だったが、俺は何とか現状の把握に努めようとした。俺は今、安楽椅子に座っている……いや、座らせられている。身体をベルトで固定され、頭には何かヘッドギアのようなものが被せられているのが感じられた。

「そうでなければ、私が総理大臣様に首を差し出さないとならなくなるんだ」

部屋の中は病室のようで、小型のモニターが付いた医療機器らしきものと、薬剤の入った瓶が多数、脇に置かれていた。

俺はトラックにはねられて、ここへ連れてこられたのか……? いや、それにしては怪我をした感覚もないし、痛みだって感じられない……。

「こうして、せっかく素敵な研究所を与えて頂いたのだから、結果をお見せする必要がある」

その台詞で、頭の中の靄が一気に引いた。今まで俺が見ていたものは現実じゃない! この男が作り出した仮想現実だ! 俺はこの男を知っている!

「いくら君が特別な存在であったとしても、必ず完全なる奉仕国民へと生まれ変わってもらうよ」

こいつの名前は古華原双夢こかはらそうむ、ドクター古華原の名で知られている男だ! 総理大臣の古くからの友人であり、非奉仕国民を実験材料として利用する狂科学者! そして俺は――、

「いいだろう、赤柿八番くん? いや、最強のテロリスト、レッドエイトと呼んであげた方がいいのかな?」

俺はやつに捕まってしまったのだ! 非奉仕国民として連行されていたのは、俺だったのだ!

ベルトを引き千切ろうと力を込める。しかし、ベルトは腕に食い込むばかりで、伸びる気配すら感じられなかった。ベルトの方を破壊するのは無理そうだ。俺は次の行動に出ようとするが、それより早くヘッドギアが明滅し、電子音が鳴り始めた。人工的に生み出された深い闇が、再び俺の意識を飲み込んでいく――

突然、爆発音が響いた。

落とされていた瞼を開くと、照明が消えているのがわかった。それだけではない。脇に置かれた機器も、頭に被せられていたヘッドギアも光を失い、その動作を停止していた。

「何が起こったんだ!?」

古華原にとって予想外の出来事だったらしい。奴の骸骨面が部屋の出入り口の方を向く。このチャンスを活かさない訳はない。俺は全身全霊の力を両手に込めて、椅子のひじ掛けを握り潰した。ベルトと椅子の間に隙間ができたので、そこから拘束を解いていく。

古華原の顔が再びこちらへ向けられた時、俺の顔はすでに奴を見下ろす位置にあった。

「約束通り、あんたの首を差し出してもらうぜ!」

言うと同時に古華原の首を脇で固め、そのまま首の骨を頂いた。

「ただし、俺にだがな」

自分の背中を見つめる形で絶命した古華原に言葉を残す。友人である総理大臣に差し出せなくてさぞかし残念だっただろう。だからと言って、俺があんたの友人になってやるのは御免だが。

「ドクター! 大丈夫ですか!?」

部屋のドアが勢いよく開き、二人の警備兵が姿を現す。一人はカエル面の小柄な男。一人は丸顔で恰幅の良い男。二人は共にミスをしていた。拳銃が腰にぶらさがったままなのだ。俺はためらうことなく二人の警備兵へと向かっていった。

チビは殺す! デブは盾だ!

「緊急事態だ! レッドエイトがドクターを!」

この期に及んで、銃ではなく無線を手にしたチビの方を、俺は壊した椅子の破片で串刺しにする。デブの方は銃を手にしたが、一瞬遅かった。俺はデブの手を捻り上げ、銃を奪いつつ、脇で首を固め、古華原と同じようにへし折ってやった。さすがに骨と皮だけの古華原よりは抵抗があったが、その分殺したという実感を強く得られる。

俺はそのままデブの死体を前にして部屋を出た。すると、今度はいきなりの銃撃が俺を襲った。もっとも、それらは全てデブの腹に吸い込まれていったが。やはりデブは使える防具だ。かなり汗臭いのが難点ではあるが。

デブの盾を駆使しつつ、部屋の外へ出る。俺が捕らわれていた部屋は通路の端にあたり、敵はガラス張りの渡り廊下がある方から向かって来ていた。敵の数は三人。背後を気にする必要はなさそうだ。そう判断すると同時に、俺はデブを前面に押し出して突進した。奪った銃も使って、火薬の匂いをばら撒き、汗臭さを打ち消すようにしながら。

上から目線が常識となっている、上級国民の警備兵には油断があったに違いない。敵の内二人は俺の射撃によってあっさりと死に、残る一人も突進を直に食らってデブの下敷きになり、その上から銃弾を叩き込まれて死ぬこととなった。これで汗臭い盾ともおさらばだ。

だが、俺もこの瞬間、少しの油断を抱いてしまった。

風を切る音。とっさに俺は拳銃を音のする方へと向けた。しかし、トリガーを引くより早く、手に強い打撃をくらって、銃を落としてしまう。俺は受けた衝撃を逃がすように転がって、気配なく現れた敵から距離を取る。

敵は灰色のボディアーマーを身に纏い、同じく刃も含めて灰一色の槍を携えた一人の男だ。

「奉警野郎か!」

そんな装備をするのは奉警以外しかあり得ない。だが、少し違和感を覚えてしまう。その男の顔が仮想現実で見た杉という奉仕作業員にそっくりだったためだ。

あの世界にでてきた連中にはモデルがいるのか? 現実の方はもっと髪が薄いようだが……。

とはいえ、その槍使いも奉警以外ではあり得ないほど巧みなものだった。捌き方も間合いの取り方も実に一流で、こっちは拳でやり合わなくてはならない訳だから、懐に入り込むか、槍を取り上げるかしなければならないのだが、その隙が全く見当たらなかった。何よりも表情が常に笑顔だから、動きを読むことが困難だ。

奉警隊員は槍一本で戦闘機を墜とせるなんて話があるが……さすがそれはあり得ないとしても、目の前の敵はかなり手強い相手だった。冷や汗が頬を伝ってくる。

「だが、俺には使命がある! この国を正すって使命がな!」

勇気を奮い立たせるように、声を張って宣言した。すると、

「それぇだれぇにぃわれたのぉ」

仮想現実と同じく舐め腐った喋り方で言葉が返ってきた。勇気が俺の心を満たす代わりに、怒りの感情が俺の心に広がっていく。

こいつは、俺自身が、直接地獄に送らないと、気が済まない!

何としてもその手段を見つけないと! 俺は薄毛野郎の攻撃をかわしながら、槍と打ち合える武器が何かないかを探した。ちょうどその時、部屋の一つから男が出てきた。新たな敵かと一瞬身構えたが、そうではなかった。奉仕作業員だ。それも仮想現実で見た浜梨という男にそっくりの、背中の曲がった小男だ。そいつは俺たちの戦いなど見えていないかのように、奉仕活動を黙々とこなしていた。棺桶が載せられるくらい大きな鋼鉄製の台車で、山積みされた荷物を運んでいる――。

「これだ!」

叫ぶと共に小男の方へと駆け寄り、鋼鉄製の台車をひったくる。その直後、俺の背中目がけて槍が振り下ろされたが、振り向きざまに台車で攻撃を受け止めた。

「戦闘機ですら墜とせるって話じゃなかったのか!」

俺は台車で槍を押し返し、薄毛野郎がよろめいたところに追撃をかけていく。台車を斧のように振るって槍に打ち付けた。俺の得物と奉警の槍とじゃごつさが違う。二、三度打ち合ったところで、薄毛野郎の槍はぽっきりと折れてしまった。今度は直に薄毛野郎へ台車をぶち当てると、奴は大きく吹っ飛び、ガラス張りの渡り廊下まで転がっていった。

「いいことを教えてやる」

ガラスの壁にもたれかかりながらも、笑顔で立ち上がった薄毛野郎に声をかけた。このときばかりは俺も笑顔を返さずにいられなかった。

「人を地獄に送るときは、台車をこう使うんだ!」

遠心力も駆使して、俺は台車を思い切り振り抜いた。その衝撃は薄毛野郎の身体ごとガラスを突き破り、薄毛野郎は地の底へと落ちていった。

「出荷完了だ」

下を覗き見ると、俺が今いるフロアはかなりの高層階だったことが分かる。薄毛野郎の死体をはっきりと見ることはできなかったが、頭がスイカのようにぱっくりと割れていることは確認できた。これなら少なくとも薄毛で悩むことはないだろう。

俺はすっかり手に馴染んだ台車を床に下ろすと、そう言えば、この台車の元の持ち主はどうなったんだと気になって、辺りを見回す。すると、視界に入ったのは、荷物を地べたに積んで、台車を使わず押し運ぼうとしている小男の姿があった。俺たちの戦いなどまるで気にせず、曲がった背中で必死に荷物を運ぼうとしている。進み具合はナメクジのようだったが、それでも笑顔だけはきちんと浮かべて。

「そこまでして奉仕活動を続けたいってのか?」

何だか気の毒になって、思わず声をかけてしまう。もっとも、頼まれたとして台車を返してやる気はなかった。今じゃこいつは俺の相棒だ。

だが、小男の口から言葉が返ってくることはなく、代わりに頭から血しぶきが飛んできた。崩れゆく小男の先を見ると、敵の増援の姿があった。

俺は台車を立てて身を守る。その上に容赦ない銃撃が浴びせられた。

「俺の相棒が!」

警備兵が使うような安っぽい拳銃じゃ鋼鉄の盾はすぐに貫かれることはなかったが、衝撃を逃すには不十分で、表面が次々と抉られていく。このままじゃジリ貧だ。俺はさっき弾き飛ばされた拳銃を探したが、見当たらない。隠れる場所も探したが、見つからない。じりじりと後退するしかなかったが、その先には俺が自分で開いた地の底へと繋がる大穴が待ち構えていた。

こいつはマズい!

そう思ったとき、敵の方向から新たな銃声が聞こえてきた。それは安っぽい拳銃の乾いた音ではなく、腹に響くような自動小銃の音だった。閃光と共に放れた銃弾が敵を木くずのように吹き飛ばしていく。

そして、全ての銃声が途絶えたとき、屍の山を乗り越えてこちらへ向かってくる一つの影があった。それは髪を金色に染め上げた二十代前半の若い男で、

「もしかして、助けはいりませんでしたか。センパイ」

ボロボロになった台車から顔だけ出して様子を伺う俺に、そんな軽口をかけてくる。こいつの名前は金梅十三番かなうめじゅうさんばん。通称、ゴールデンデッドという銃火器の扱いに長けたレジスタンスだ。そしてまた――、

「逆転劇が見られなくて残念だったな、相棒」

俺にとっては相棒だ。俺たちは互いに不敵な笑みを見せながら、がっちりと握手を交わす。力強い温もりを感じ、改めて思う。

ああ、やはり相棒は生身がいい。


   六


俺も金梅も『カラーズ』というレジスタンスの構成員だ。

『カラーズ』は奉仕国民の解放――すなわち、一億総奉仕社会化法の廃止を掲げ、日夜を問わず政府に対して抵抗活動を行っていた。

そして全ては三日前、『カラーズ』の武器庫が政府軍に強襲されたことから始まった。

俺は仲間と武器を守るため政府軍と戦ったが、物量の差で押し切られ、多くの仲間と武器を失い、俺自身も捕縛されてしまうミスを犯した。

本来はその場で処刑されてもおかしくないはずだったが、洗脳して手駒にすべきだという古華原の進言により、奴の研究所へと連行されることになった。一方でその情報を得ることができた俺の相棒――金梅は、残された武器を携え、俺を奪還するために単身研究所へと乗り込んできてくれたのである。

「しかし、俺を助ける余裕なんてあったのか?」

助手席に座り、銃の手入れをしている金梅に声をかけた。俺たちは今、廃品回収業者を装い、古紙を積んだ軽トラに乗って、研究所から続く上級国民専用の高速道路を走っていた。

一億総奉仕社会法が施行されてから、法律の名称とは裏腹に、上級国民と奉仕国民の二分化は進んでおり、俺たちのアジトがある奉仕国民の町へと帰るには、天高く築き上げられたこの道路を下へ下へと向かっていくしか方法がなかったのだ。

「余裕がなかったからですよ。これ以上、仲間を失う訳にはいきませんからね。次のミッションは必ず成功させなければなりませんし。それに何たって、センパイは最強のテロリストじゃないですか」

「最強のレジスタンス、だ」

上級国民に恐れられるのは構わないが、正直テロリストと呼ばれるのは気に入らなかった。

「こいつは失礼。けれど、俺も成長しましたし、師匠から最強の座を奪う日も近いかもしれませんね」

師匠、か。そう呼ばれるのは久しぶりだ。仮想現実の設定と同じく、金梅に作業のイロハを教え込んだのは俺だった。ただし、上級国民に奉仕する作業ではなく、上級国民を殺害する作業のイロハだったが。

「この調子なら、次は俺一人でいけるかもしれませんよ」

にやりと、拳銃を構えて口にするその姿は堂に入っており、俺が初めて出会った時の面影――政府の教育施設から脱走してきたばかりの、不安に表情を曇らせていた金梅十三番――はもうどこにもいなかった。とはいえ、

「お前に一人暮らしはまだ早い」

俺は突っぱねるように言葉を返した。

「一人暮らし?」

ぽかんと口を開く金梅。

「今のお前は、料理ができるようになったから一人暮らしをしてみたいっていうような子供そのものだ。確かに、銃器の扱いに関しては俺も認めるレベルだが、戦い方はまだまだ学ばなければならないことが多くある」

俺はまだ最強の座を手放すつもりはなかったし、こいつの相棒って立ち位置も手放す気になれなかった。

「何ですか……その例え。それじゃあ師匠っていうよりパパさんみたいですよ」

その台詞に少しショックを受けてしまう。年齢的にはこいつの兄貴分でいいはずなのだが、どうにも年寄りくさくなってしまったようだ。

だが、そんな気の抜けた時間もサイレンの音で終わりを告げた。

「ずいぶんと遅いお出ましだな」

バックミラーの遥か後方に映った警察車両を見て、嘲るように言葉を漏らす。政府の研究所が壊滅することになったんだ。カモフラージュしているとはいえ、認可されていない車が走っているのに、いくら何でも呑気すぎるだろう。

「偽の通報入れておいたんですよ。あいつら自分が疑わしいと思えば、何も考えずに向かって行くんで」

言いながら、背後の窓を開き荷台へと這っていく金梅。

「何をする気だ?」

「パパさんに一人暮らしを認めてもらうため、頑張ろうかと思いまして」

そう残して、古紙の山の中へと身体を滑り込ませる。

やれやれ、本当に頼もしくなったものだ。

「俺もまだまだ負けていられんな」

やっぱり年寄りくさいかも、と思いながら、俺はアクセルを一気に踏み込んだ。

同時に荷台からロケット弾が放たれる。後ろを見やると赤梅の肩にはロケットランチャーが担がれていた。

対戦車ように作られたその威力に、白と黒の馴染み深く、俺たちにとって憎たらしい車は赤い炎に包まれて吹っ飛んだ。ガードレールを突き破って奈落へと旅立っていく。

「もう一発!」

続いて現れた後続車両も、金梅の攻撃によって高く吹っ飛び、ガードレールをたやすく乗り越え、空を挟んで向かいに見える別の高速道路へと墜落していった。

「いい気分だな」

奴らは全ての国民を守る存在ではなく、政府と上級国民、それから自身の面子だけを守る存在だ。そんな連中が次々に死んでいく様を見ていると、心が晴れやかになっていく。

「でも、消防法違反してるのは悪いって思ってますよ」

にやにや笑いながら言葉を返してくる金梅。こいつは絶対悪いと思っていないだろうな、ブラックなビルのオーナーのように。

「というか、そもそもこれは消防法の問題じゃないだろう」

などと下らないやり取りをしていると、俺たちに猛スピードで接近してくるバイクの姿がミラーに映った。それは灰色のバイクで、乗り手も同じくスーツからヘルメットに至るまで全て灰色で統一されている。

「奉警野郎!」

俺たちは同時に声を上げた。ただの警察より厄介な連中の登場だ。奉警はただの警察と違って、俺たちレジスタンスと戦い慣れているし、何より面子を守ろうとか、自身の命を守ろうとかそんな欲を抱いていない。せいぜい欲があるとすれば、国家に奉仕したいという無理矢理植え付けられた黒い欲望くらいのものだ。

「奉警野郎にはこっちだ!」

小回りの利くバイクと対峙するにあたって、金梅は拳銃を取り出した。奉警野郎のバイク捌きもなかなかだったが、金梅の銃捌きほどではない。銃撃を受けた奉警野郎は振り落とされ、バイクだけがガードレールへと滑り込んでいく。

その直後、バイクが火柱を上げて爆発した。

「何だ!?」

またも俺たちは同時に声を上げていた。明らかに普通の爆発じゃない。軽トラが浮かび上がり、ハンドルを取られそうになるほどだった。こいつは――、

「……爆弾を積んでいるのか」

信じられない、といった口調で相棒が呟く。そりゃそうだ、まさか警察が自爆テロを仕掛けてくるなど思いもしなかった。まさに奉仕社会ならではだ。

「次、来るぞ!」

とはいえ、今はそんな警察への怒りや、それに連なる国家への憎しみに心を動かされている場合じゃない。灰色のバイクが今度は二台同時に現れた。それに合わせて、金梅も両手それぞれに拳銃を構える。

「ただ倒すだけじゃなく、近付けすぎるなよ! 巻き込むことが奴らの目的だ!」

「わかってますよ、パパさん!」

軽口を叩ける余裕はあるようだ。金梅は距離に余裕をもってバイクを二台とも迎撃した。しかし、爆炎の向こう側から、またバイクが現れた。しかも四台だ。

「手ぇ、貸してくれません!?」

「一人暮らしはどうした!」

そこまで切羽詰まった声じゃなかったため、そんな風に返したが、実際俺はハンドル操作で手一杯だった。とはいえ、いくら金梅の射撃の腕が一流でも、物量の差で押し切られれば勝ち目はない。奉仕国民はいくらでも代わりが効くと思っている上級国民どもの、実に身勝手で腹立たしい戦法だ。

それなら――、

「俺たちにも奉仕してもらうとするか!」

ペダルを踏み抜く勢いで軽トラのスピードを限界まで上げる。

「どうするつもりです!?」

後方には金梅の射撃から逃れたバイクがまだ二台残っていた。

「航空法違反さ!」

その一言で全てを察したのか、金梅が射撃の手を緩める。二台のバイクが一直線に向かってきたが、こちらも一直線に疾駆した。カーブを気にせず、ガードレールへと向かって。

「行くぞ、不良息子!」

ガードレールはあっさりと突き破られた。思っていた通り点検不足だ。そして、車は宙を舞い、続いてバイクも宙へと踊り出る。重力の支配から解き放たれ、時間がゆっくりと流れる感覚の中、相棒の二丁拳銃が火を噴いた。

爆発、次いで爆発。

二台のバイクが連鎖して爆炎を上げ、圧倒的な爆風が軽トラまで届き、それは俺たちに空を航行する力を与えてくれた。向かいに見えていた高速道路がぐんぐんと近付き、荒っぽい音を立てて着陸する。

その衝撃には顔をしかめることとなってしまったが、俺も、軽トラも無事だった。それから金梅は――、

「俺、思ったんですけど」

古紙に埋もれてしまった身体を起こしながら、

「そもそもこれは航空法の問題じゃないでしょう?」

にやりと笑顔をこちらへ向けた。俺も笑顔でそれに応じる。車の進む先には、夕陽を受けてきらきらと輝く俺たちの町が見えていた。

脱出完了だ。


   七


カラーズの本部は、かつて総理大臣の友人が設立したという私学跡地にあった。

一億総奉仕社会化法が施行されるにあたって、全ての教育――それは洗脳と呼ぶべきものではあるが――を国家が行うことになり、私学というものはこの国からなくなったのだ。それは総理大臣の友人のものであっても同じで、国民の血税を横流しして建てられた、という噂もあった立派な建物も今や鬱蒼たる木々に覆われ、森だけが友といった有様だ。

俺と金梅は組織によって森に仕掛けられたトラップを避けつつ、草木と同化するようにカムフラージュされた本部への扉を開く。

そこでは長髪の老人が俺たちを待ち構えていた。

白く染まったその髪は長きに渡る潜伏生活のため、ろくに手入れがなされていなかったが、反り返る後ろ髪は猛り狂う龍の尾を連想させ、頬は少しやつれているものの、眼鏡の下から覗く瞳は獲物を追い求める虎の如き強さを感じた。

この人こそ枯山万治かれやままんじ。カラーズの指導者であり、俺たちの師であり、そしてまた――、

「よく帰って来てくれた。レッドエイト、ゴールデンデッド」

俺たちの親代わりとなってくれた人だった。

先ほど、全ての教育は国家が行うと俺は伝えた。では、それはいつから始まるのか?

答えは生まれたその瞬間からである。

俺は赤柿家で育った訳だが、赤柿家で生まれた訳ではない。赤柿家で教育されたというだけで、俺の生みの親は別にいる。名前も知らない別の人間が。

奉仕社会においては奉仕国民の子が生まれると、すぐに上級国民が運営する教育施設に送り込まれ、名前として扱われる番号を付与される。そして国家に尽くせるような年齢になるまで、寝ても覚めても奉仕国民としての常識を叩き込まれるのだ。もし、そこで常識を非常識と感じてしまったら、選択肢は二つしかない。上級国民に欠陥品として処分されるか、俺や金梅のように施設から脱走するか、だ。

そういう意味で俺たちは非常に幸運だった。教育施設から逃げ切ることができた上に、一億総奉仕社会化法が成立する前から、総理大臣と戦い続けていた偉大なる指導者が俺たちの親代わりとなってくれたのだから。

「また会えて光栄です」

俺と枯山さんは肩を寄せ合った。この時ばかりは虎の眼差しも優しげなものへと変わっていた。

「とりあえず、めでたし、めでたし。でイイんですかね」

すると、部屋の奥から乾いた拍手と共に、皮肉めいた口調で声が飛んで来た。視線を向けると、そこでは髪をオレンジに染め上げた一人の男が足を組んで座っていた。

「けど、赤柿さん救うためにまた武器が減っちまったんでしょう? そこまでして助ける価値あったんですかね」

干し肉をくちゃくちゃと噛みながら、挑発的な台詞を続けてくる。この男の名は――、

「オレンジセプテンバー、よさないか」

美和鬼九番びわききゅうばん。通称をオレンジセプテンバーといい、俺と同じ時期にカラーズへ入った古参の戦士で、何かと俺に対抗してくる、色の趣味も合わせてそりの合わない男だった。

美和鬼は枯山さんの虎の目つきに睨まれて、一瞬萎縮するものの、

「けどまぁ、赤柿さんが帰ってこようが帰ってこなかろうが、次のミッションで総理大臣を殺すのはオレの役目、って条件で救出に行かせたんですからね。そこのところ、忘れないでくださいよ」

テーブルをトントンと叩いて、強調するように言葉を続けた。

「そうだったのか?」

俺は金梅に問いかける。

「……ええ。黙っていてすみません」

救出してもらった側の俺が強く追及することはできなかったが、思わず眉間にしわが寄ってしまう。あの自分自身が国家そのものと考えている、勘違い野郎の首の骨をこの手でへし折ることができないなんて!

「おやおや、そんな顔しないでくださいよ。赤柿さん」

干し肉を口に放り込みながら、俺が悔しがることが嬉しくてたまらない、といった表情で美和鬼が近づいてくる。

「オレは犬を捌くのには慣れてるんでね。人の姿をしたブルドッグ捌くんなら、オレがやった方が確実でしょう?」

そう。そうだった。

こいつが今くわえている干し肉は牛や豚のものじゃない。奉仕国民が食事としてとれるのは薬品のような乾パンと、古びた米と梅干しで作られた弁当くらいで、肉類なんかは上級国民の間でしか流通していない。だから、干し肉を食おうと思えば、上級国民から盗んでくるか、自分で作るくらいしか選択肢がない。

そして奴の干し肉は奴自身のお手製で、上級国民の飼い犬をわざわざ盗み、捌いて作ったものだった。

だから、俺はさっきの言葉を訂正しよう。

美和鬼とは、色の趣味だけじゃなく、食の趣味についても理解ができない。

「……諸君。もう一度、次のミッションについてまとめておこうか」

枯山さんの低く落ち着いた声に、俺たち三人は気を引き締める。彼の手元には二つの写真が並べられていた。

「今回のミッションは我々の宿願、終身名誉総理大臣――阿辺畑三世あべはたさんせいの殺害だ」

枯山さんの指先が写真の一つを指し示す。そこには俺たちのよく知る、ブルドッグ面の初老の男性の姿があった。

「明日の正午、阿辺畑はとある奉仕国民生産場の視察を行う。場所は東方〇地域。二〇二〇年に行われ、失敗に終わった万国体育競技会の会場跡地だ」

そう言って、枯山さんの指先がもう一つの写真を指し示した。

「この生産場の管理長の名は鳥頭薙斗とりとうなげと。阿辺畑の古くからの友人だ」

写真にはニワトリの鶏冠のような髪形をした、細身で小柄な男が、幾人もの女性を侍らせている姿があった。名前だけじゃなく見た目の方も随分とふざけた野郎だ。

「この視察は非公式のものであり、阿辺畑の護衛の数も少ない。そして、我々はこの生産場に清掃員として諸君らを送り込むことができたのだ。これは阿辺畑に引導を渡すためのかつてない機会である!」

右手の拳を握り締め、顔の前で振り上げながら、枯山さんが力強く宣言する。それだけで俺たちはやる気に満ち溢れてくるのだ。このミッションは必ず成功させる、と。

だが、そうであっても口を挟んでくる奴もいる。

「ですが、本当に来るんですかね? 非公式のものですし、何より研究所が潰れるような事件が起きたばかりでしょ。少なくとも、俺だったら止めておきますね」

美和鬼だ。発言は枯山さんに対してだが、視線はあてつけるように俺を見ている。わざわざ空気を悪くするなんて、本当に嫌な野郎だ。少なくとも、仲間でなければ息の根を止めている。

「来るさ、必ず。阿辺畑はそういう男だ」

だが、枯山さんは反抗期の子供なだめるような優しい笑みを浮かべ、そう答えた。

「……ずいぶんと奴のことを理解しているようですね」

これには美和鬼も毒を抜かれたらしい。発言も視線もだいぶ弱々しくなった。

「よくも悪くも長い付き合いだからな。阿辺畑の情報はなんだって知っている。奴自身が気付いていない癖でさえも把握しているぐらいにな」

一億総奉仕社会化法が成立する前、枯山さんはペンを武器に戦っていた人だった。今はもう公式に見ることができない彼の著作には、阿辺畑あるいは阿辺畑内閣を細かく取材し、その危険性を警告するものがいくつもあった。

「例えば……そうだな。阿辺畑は自分の思っていないことを口にするとき、ブルドッグのような頬をふるふると震わせる癖がある。今度放送を見ることがあれば、奴の顔をじっくり見てみるといい」

「それがミッションというのならやらせて頂きますけど……正直、あの顔はじっくり見たいものじゃないですね」

金梅の言葉に笑いが漏れ、場の空気が軽くなる。こいつのこういうところが相棒としてお気に入りだ。

「私もそうだ」

枯山さんも笑みを返して答え、それから再び拳を振り上げる。

「だからこそ、このミッションで終わらせよう! 阿辺畑を倒し、この奉仕社会に終止符を打つ! そして、奉仕国民を自由な意思を持つ人間として、目覚めさせる! 必ずや、勝利をこの手に掴むのだ!」

そこで枯山さんは言葉を区切り、拳を俺たちの前へと突き出した。

「生きて、勝利をこの手に掴もう!」

その宣言に返す俺たちの言葉は一つだった。

「生きて、勝利を!」

俺も、金梅も、美和鬼も、互いの拳を突き合わせ勝利を誓った。俺たちは奉仕国民と違い、己の意見も述べるし、命だって粗末にしない。そのために言い争ったりはしたものの、今この瞬間、俺たちは自らの意思で選んだ一つの目標へと向かって、一体となることができたのだ。

あとは明日が訪れるのを待つだけだ。今日ほど、朝を告げる、あの自分勝手で下らない放送が始まるのを待ち遠しいと思った日はなかった。


   八


奉仕国民生産場といっても、俺たちは試験管の中で生まれてくる訳じゃない。技術が足りないのか、予算が足りないのか、あるいはその両方なのか。いずれにせよ、国家はもっと原始的な方法で奉仕国民を生産している。

すなわち、男女のまぐわいだ。

清掃員として生産場へ侵入した俺たちの目の前には、裸に剥かれた十組の男女が並んでいた。男は気を付けの姿勢で待機し、女は用意されている鉄棒を両手で掴み、あてがわれた男に向かって尻を突き出して待機している。だが、男女ともに恥じらう様子など微塵も見せず、極めて健康的な笑顔を浮かべていた。

奉仕社会が始まってから、出産に適した年齢となった女の奉仕国民は心身に問題がない限り、生産場に移送されていた。そこで選抜された優良な男の奉仕国民と交わり、新たな奉仕国民を産む機械として利用される。仮想現実で見た五麻田さんのように、産む機能を失う時が来るまで、ずっと。

そして、この計画を提言したのが、お立ち台の上で俺たちを見下ろしているニワトリ野郎。鳥頭薙人だ。奴の頭は本当に地を歩く鳥のごとく、行ったり来たりを繰り返している。裸の女を嬲るように見回す奴の視線に引きずられて。

鳥頭は当然服を着ている訳だが、奴の股間はズボン越しにもわかるほど大きく膨らんでいた。品質管理と称して、生産場の女に自ら種付けしているなんて噂もうなずけるほどに。

今回のターゲットはあくまで総理大臣だが、俺の脳内で作られている処刑リストでは、二番目の位置にある男だ。おまけで殺すことにしよう。

と、その時。処刑リストの一番上に位置している男が、アクリル板の仕切り越しに姿を見せた。

もちろん、総理大臣だ。

聞いていた通り、連れている護衛の数は少なかった。会場の外にはもっと待機させているだろうが、今この場に連れて来ているのは黒いスーツに身を包んだSPの二人と、灰色のスーツに身を包んだ奉警の一人。合わせて三人だけだった。

そのSPの方も体格はがっちりしているものの、気の緩んだ様子で裸の女に見入っているし、奉警の方は草履のような顔にへらへらとした笑みを張り付けた小男で、まだ若く、とても強そうには見えない。これなら俺たち三人だけでも余裕で片付けられるだろう。

とはいえ、今はまだその時ではない。今回は銃や刃物を隠し持つことができなかったため、手元にあるのはモップなんかの清掃用具やペンなどの筆記用具くらいだ。これで総理大臣を殺すには距離があり過ぎる。やはり奴らがアクリル板のこちら側へ踏み込んでくるのを待たないと――

「それでは、本日の奉仕活動を始めます!」

そんなことを考えていると、トンビの鳴き声のような甲高い音が響いた。鳥頭の口にした笛だ。同時に、裸の男たちが裸の女たちの腰をむんずと掴んで、股間を大きく突き出した。もちろん、皆笑顔のままで。そして、『ト』の文字を作るような体勢になった後、全員がぴたりと動きを止めた。

ややあって、鳥頭が笛をピーと吹くと、その音に合わせて男たちがゆっくりと腰を引いていく。さらに鳥頭がピッと吹くと、その音に合わせて男たちが勢い良く腰を突き出す。

ピーで引いて、ピッで突いて。その繰り返し。さぞかし訓練されているのだろう。全員の動きは一糸乱れることなく揃っている。もちろん、笑顔も崩れることはない。

……しかし、何だこれは。あのニワトリ野郎、運動会の組体操でも見せているような気分なのか。だとしたら悪趣味が過ぎるだろう!

俺は吐き気を催すような怒りを覚えた。だが、この光景を見てげらげらと笑っている者がいる。総理大臣だ。奴にとっては動物園のショーを見ているような気分なのだろう。

そして一方、見られている側の奉仕国民はただ作業に集中するばかりで、他のことなど考えていないのだろう。太陽に裸を見られて、恥ずかしいと感じるだろうか。きっと彼らはそんな気分だ。

ああ、だが、俺は感じている。激しい怒りを。国民を玩具のように扱って、己の欲望を満たす総理大臣に対して。今すぐ、あのアクリル板を蹴破って、総理大臣の首をもぎ取り、モップの柄に刺し込んで、奴のブルドッグ面でこの国を清掃したい!

「奉仕活動、止め!」

しかし、俺の怒りが抑えきれなくなる前に、下品極まりない運動会は閉幕となった。総理大臣が満面の笑みで拍手を送り、鳥頭たちへ直接声をかけようと、仕切りから出てこちら側へと向かってくる。

ここからは俺たちの活動の番だ。

「清掃員、前へ!」

鳥頭の合図に従い、俺、金梅、美和鬼の三人が汗と体液で汚れた床を掃除するため前に出る。もちろん見た目は清掃員そのもので、灰色の帽子とマスクが俺たちの素顔を隠していた。総理大臣との距離がゆっくりと近付いていく――

「あっ」

その途中、俺は躓いたふりをして、清掃用具の入ったカゴを転がした。

「おい! 何をやっている!」

大きな音を立てたことで、連中の視線が俺へと向かって集中する。鳥頭は小さな肩をいからせて、俺の方へと駆け寄ってきた。

実に鳥頭とりあたまな連中だ。

俺は吹き出しそうになるのをこらえ、精一杯に誠実そうな笑顔を作った。奉仕国民は謝罪の際も笑顔を見せるのが常識だ。

「申し訳ございません」

だが、それを見た鳥頭は真顔を返して、

「……気持ち悪いね」

一言、痰と一緒に吐き掛けてきた。

……おめでとう、鳥頭薙斗。貴様は一位になった。俺の中の処刑リストのナンバーワンだ。俺の手で一番最初に殺してやる!

心の内でそう誓いながらも、視線を総理大臣の方へずらす。この僅かな騒ぎに乗じて、美和鬼は総理大臣の傍へ気配なく近付いていた。さすが犬を盗んでは殺すことを繰り返していただけのことはある。見事な忍び足だった。そして、その右手にはペンが握られていた。もちろん、ただ文字を書くためのペンではない。即死性の神経剤が入った立派な武器だ。

美和鬼が総理大臣の背後をとった。護衛どもはまだ気付く様子がない。見ているだけの俺でさえもアドレナリンが噴き出して、世界がゆっくりと回るような感覚を抱いていた。

美和鬼が腕を大きく振りかぶる。ペンによって総理大臣の生命に終止符が打たれる。来るべきその瞬間がはっきりと脳内に描かれた。しかし――、

「総理大臣様、危ない!」

ペンが総理大臣の首筋に打ち込まれるよりも早く、美和鬼の腕を掴んだ者がいた。それは黒色のスーツを着たSPでも、灰色のスーツを着た奉警でもない。さっきまで生産作業に従事していた、裸の奉仕国民の男だった。

「がっ!」

美和鬼が悲鳴を上げる。奴の太ももにはペンが深々と突き刺さっていた。奉仕国民と揉み合った際に誤って刺さってしまったのだろう。けれど、このミスはまさに致命的で、すぐさま美和鬼は白目を剥いて崩れ落ちた。

なんてこった、美和鬼の野郎! ただの奉仕国民にやられるなんて、犬死もいいところじゃないか!

世界が急速に動き出す。護衛どもが総理大臣を守るように陣を組んだ。そして、俺も動き出す。総理大臣の方へ顔を向けた鳥頭を後ろから掴み、そのまま首の骨をへし折った。さっきの誓いは、いともたやすく果たされることとなった。

「鳥頭様!」

SPの一人と目が合い、銃をこちらへ向けてくる。鳥頭は盾にするには小さすぎるし、細すぎる。だが――、

「フライド・チキンだ!」

SPへ向かって鳥頭を投げ付けた。空飛ぶニワトリ野郎だ。それを追いかけるように俺も突進する。鳥頭の頭突きと俺のラリアットを食らい、SPの一人は倒れ伏した。

そして、もう一人のSPも金梅がモップを武器に打ち倒す。すると、それを見た総理大臣は恐怖で気が動転したのか、一人で出口に向かって走り出した。

「総理大臣様!」

俺たちと戦う構えを見せていた奉警野郎が慌てて総理大臣の後を追った。俺たちもSPが残した銃を拾い、その後を追う。

――ただ、その前に。

俺は保健所で殺処分された犬のように横たわっている美和鬼を一瞥し、それから俺たちの邪魔をした全裸の男を睨み付け、

「俺たちはお前たちのためにやっているんだぞ!」

マスクを投げ捨て、強い怒りの言葉を直接ぶつけずにはいられなかった。言われた通りのことしかやらない奉仕国民が、何故こんな時に限って邪魔をするんだ!

けれど、男は何を考えているかわからない笑顔のままで、

「奉仕させて頂けるだけでも、ありがたいじゃないですか」

そんな風に言葉を返してきた。

「センパイ! 何してるんですか!」

出口の向こう側から金梅の声と銃声が聞こえる。

俺にはただ口を横一文字に結び、この場から去ることしかできなかった。


   九


「センパイ、こっちです!」

金梅と向かった先はVIPルームだった。総理大臣と奉警野郎はここに逃げ込んだらしい。とはいえ、この場所の出入口は一つだし、その扉は大きく開け放たれており、立て籠もる意思も感じられない。その場しのぎで逃げ込んだ、というようにしか思えなかった。

「自分から追い詰められに行った、って感じですね。残った奉警野郎も酷いチビの弱そうな奴でしたし、美和鬼さんは殺られちまいましたが、俺たちだけでも余裕そうですね!」

勝利が目の前にぶら下がっている、といった様子で興奮気味に金梅が話す。俺も正直興奮していた。美和鬼には悪いが、あいつの死を悲しむよりも、俺自らの手であのブルドッグ野郎を殺せるということが嬉しくて堪らなかったのだ。

「俺が前にいこう。後ろを頼むぜ、相棒」

ただ、隠れる場所は多かった。贅を凝らした巨大なシャンデリアが目を引くその部屋には、テーブルの上から足下に至るまでまで、壺や絵画や彫刻など、いかにも高そうな美術品が所狭しと並んでいた。

「鳥頭の部屋だったりするのか?」

銃を手に部屋の中を見回しながら、そう口に出した。絵画や彫刻の題材は裸の女ばかりで、いかにも奴の趣味だと思えたからだ。だが、その問い掛けに金梅は答えることができなかった。

「センパイっ!」

代わりに悲鳴が返ってくる。後ろを向くと、奉警野郎が金梅に飛びかかっていた。小柄な体を活かして、開け放った扉の陰に隠れていたのだ、と悟った時には遅かった。奴は見た目通りの素早い動きで金梅に絡み付き、手にしたナイフでその喉を掻き切っていた。

「金梅っ!」

全てが遅かった。俺は奉警野郎に銃を向けるも、奴は身を翻しながらナイフを投げ付ける。俺の指がトリガーを弾く前に、ナイフがその手に突き刺さっていた。その衝撃で俺は銃を取り落とす。間髪入れず奉警野郎が距離を詰め、回し蹴りを放ってくる。こちらは腕でガードするも、奴はそのまま足を駆使して、俺の体を駆け上がり、足と腕を使って俺の首を落としにかかった。俺は奴の手足を掴み引きはがそうとするが、見た目から想像もできない力で組み付かれ、動かすことができなかった。

「畜生!」

俺は自分の体ごと奉警野郎を壁にぶち当てる。衝撃で地震のように部屋が揺れるが、まだ離れない。もう一発。この衝撃で刺さったナイフが抜け落ちるが、それでも奴は離れない。俺の意識の方がこの世から離れてしまいそうだ。

「それ……ならっ!」

俺は奉警野郎に組み付かれたままテーブルの上へと駆け登り、飛び上がって頭からシャンデリアへと突っ込んだ。ガラスのシャワーが俺たちへと降り注ぎ、これにはさすがの奉警野郎も力が緩まる。その隙を付いて、俺は奉警野郎を引きはがし、腕を掴んで投げ飛ばした。

「どうだ? 背が天井まで伸びた気分は?」

受け身をとって、すぐに立ち上がった奉警野郎へ煽るように言葉をかける。

「余裕でしたよ!」

だが、奴も煽るように言葉を返した。頭にはガラスの破片がいくらか刺さっていたが、奴の草履みたいな顔に浮かぶのは、不気味に貼り付けられた笑顔ではなく、心からの余裕を感じさせる笑顔だった。再びナイフを手にして、俺の元へと踏み込んでくる。

一方、俺はというと全く余裕のない状態だった。刺された利き手からは血がどくどくと流れ出ているし、頭は衝撃と酸欠でくらくらとする。パワーとリーチじゃ俺の方に分があったが、スタミナとスピードを活かしたヒットアンドアウェイに対して翻弄されるばかりだった。

「奉警野郎の皮むきナイフに負けてられるか!」

そう意気込んでナイフを持つ手を狙って蹴りを放つも、あっさりとかわされカウンターで顎に蹴りを食らう。俺は吹っ飛ばされることになり、美術品を巻き込みながら床へと突っ込んだ。さらに追い打ちをかけるべく、奉警野郎が踏み込んでくる。俺は立ち上がろうとして、自分の両手に壺が触れるのを感じた。

「これだ!」

俺は切り下げられるナイフを拳で弾き飛ばした。もちろん素手という訳じゃない。俺は両手を壺の中に突っ込み、硬くて高級なグローブへと変えたのだ。

「皮むきナイフくらいは余裕で返せるさ!」

まさかナイフ自体を殴ってくるとは思わなかったのだろう。奴の余裕はナイフと共に飛んでいったようだ。その笑顔の中に初めて焦りが見てとれた。この隙を逃さない手はない。俺はボディへ一発重いパンチを打ち込み、奉警野郎の動きを止める。続けざまにハンマーパンチを放って、奴を床へと叩き付けた。そこから奴に覆いかぶさり、ひたすら草履みたいな顔を殴り続けた。

やがて壺が砕け、その顔が地面にぴったりとくっついたのを確認して、俺は殴ることを止めた。

「……終わった、ぜ」

ゆっくりと身を起こし、自然と視線が向かった先は、血だまりの中で沈む相棒に対してだった。

「一人になるのはまだ早いっていっただろう……」

そう呼びかけても、あの明るい口調が返ってくることはない。

だが、今は、感傷的になっている場合じゃないのだ。

俺は相棒の手に握られたままでいた銃を拝借して、体を引きずるように部屋の奥へと進んでいった。


   十


「おめでとう。よくここまでたどり着けましたね」

部屋の奥――恐らく鳥頭の執務室なのだろう。無駄に豪華な椅子に腰かけて、総理大臣は俺を待ち構えていた。予想外なことに笑顔と拍手を用意して、だ。

俺は銃口を向けて奴に応える。しかし、引き金は動かさなかった。糞尿垂れ流して命乞いするのがお似合いだと思っていたから、少しばかり面食らったのだ。

「さすがはレッドエイトの遺伝子を持つクローン、といったところですか」

さらに続けられた台詞に、俺は一瞬めまいを覚えた。

「……どういうことだ」

俺は目だけで殺せるくらいに強く睨み返した。だが、総理大臣は笑顔のままだ。奉仕国民でもあるまいに!

「ドクター古華原の計画ですよ。あなたは仲間から、レッドエイトを連行して洗脳するつもりだった、と聞いたのでしょう?」

俺は無言で返したが、奴はそれを肯定として受け取ったらしい。一方的に話を続ける。

「それは違います。ドクター古華原の計画はレッドエイトを殺し、身代わりのクローンを作り上げ、カラーズの本拠地に侵入させるというものだったのですよ」

「適当なことを!」

「本当ですよ。しかし、ドクター古華原はレッドエイトらしさを出すのに執着し過ぎて、ワタクシたちの仲間とするのは失敗したみたいですね」

……どちらにせよ、失敗してるんじゃないか。

心の中でそう嘲るも、声に出すことはできなかった。正直、奴の話は信じ難い。けれど、完全に否定することも難しい。古華原ならやりかねない話だし、もし、俺が奴らに創られた存在だとしら、これほど胸糞悪くなる事実はない。

「とはいえ、せっかくここまで来たのです。改めて、ワタクシの仲間に加わりませんか? あなたは本来そのために生まれたのですから」

そう言って、総理大臣は手を差し出してきた。

「ぜひ、加わってもらいたいんですよ。計画があるのです、ワタクシにも。警察学校に対テロリスト用の新たな学部――そう、銃器学部というものを設立しようと考えていましてね。あなたにはその講師の座を任せようと思っているのです。もちろん上級国民としてですよ」

俺は端からそんな誘いに乗るつもりはなかった。けれども、すぐに拒絶の言葉を返すことができなかった。俺が俺自身でないかもしれない、そんな考えに憑りつかれてしまい、返事の代わりに吐き気が口からこみ上げてきそうな有様だ。ただ、それでも、前に進まない訳にはいかない。俺は改めて総理大臣の顔を見据え――

「!」

そして、後悔した。奴の垂れ下がった頬がふるふると震えていたのだ。枯山さんが言っていたことを思い出し、俺は引き金に力を込めた。だが、それより早く――

「総理大臣様!」

背後から聞こえてきた声と共に放れた銃弾によって、俺の体は穴だらけとなった。総理大臣の時間稼ぎは成功だ。奴の本当のお仲間が到着したらしい。穴という穴から熱い血が噴き出し、代わりに冷たい闇が俺の意識を飲み込んでいく……。


   零


「――おはよう」

そして、俺は目覚めた。酷くしゃがれた男の声に呼び戻されて。この声を忘れる訳がない。

「気分はどうかね。負けて戻ってきた気分は」

目の前には古華原が立っていた。俺が殺したはずの男が立っていたのだ。

「あれも……仮想現実だったのか」

俺の体は安楽椅子に縛り付けられていて、頭にはヘッドギアが被せられている。今いる場所も奴の研究所で間違いない。

「そうだよ。前回とは趣向を変えてみたんだ。もし、君がこのままテロリストでい続けてたら、という方向で夢を創ってみたのさ」

「俺はテロリストじゃない……レジスタンスだ」

強く言い返したかったが、何度も仮想現実を見せられた俺の頭は酷く疲れ切っていた。一体どれほどの脳細胞が古華原によって死滅させられたのだろう。

「テロリストだよ。君たちは負けたのだから」

「それは貴様が創った夢だからだろう……」

「そうだね。でも、君たちは現実でも必ず負ける。それはどうしてだか気付いているかな?」

挑発的な物言いに俺は思考を働かせようと努める。俺が、俺たちが負ける理由……。俺の、俺たちの勝利を妨げるもの……。それは……。

「気付いたかな? それは、余計な考えを持っているからだよ」

古華原のその発言に、確かにそうかもな、と思ってしまった。夢の中で総理大臣と対峙したとき、俺は奴の話に惑わされずに、さっさと撃ち殺してしまえば良かったんだ。草履顔の奉警野郎は弱そうだ、なんて考えを持たなければ、金梅が殺されることもなかっただろう。奉仕国民が俺たちの邪魔をする訳がない、なんて考えていなければ、美和鬼だって犬死することもなかったはずだ。それに比べて……。

「それに比べて、奉仕国民は素晴らしいと思わないか? 余計な考えは抱かずに、ありのままを受け入れ、ただ言われた通りに行動する。そこには勝ち負けなんて概念さえもないのだから」

そうだ。俺たちの行動を妨げるのはいつも奉警野郎、ひいては奉仕国民だった。連中は国家に奉仕するという行為そのものが一番大事で、勝ち負けの結果どころか自身の命でさえなんとも思っていない。そして、そんな連中だからこそ、いつも俺たちは苦戦していたのだ。

「納得、してくれたかな? さぁ、仕上げに入るとしよう。この世界の常識を無条件で受け入れ、国家の言うがままに行動するんだ。それが君たちにとって一番幸福なんだよ」

ただ黙って顔を歪める俺を満足そうに見下ろし、諭すように古華原が言葉をかける。一方、俺は何の言葉も返せなかった。口を動かすのに気力を使うことができなかったのだ。

「私は上級国民だがね。奉仕国民の世界も、そんなに悪い世界じゃないと思っているんだ。君もきっとそう思うよ。もっとも、奉仕国民になればそんな思いも抱けないだろうけど」

古華原が手元の機器を操作する。するとヘッドギアが明滅し、電子音が鳴り始めた。人工的に生み出された深い闇が、再び俺の意識を飲み込んでいく――

突然、爆発音が響いた。

目を見開くと、照明が消えているのがわかった。それだけではない。奴の手元にある機器も、頭に被せられていたヘッドギアも光を失い、その動作を停止していた。

「何が起こったんだ!?」

古華原にとって予想外の出来事だったらしい。奴の骸骨面が部屋の出入り口の方を向く。その瞬間、俺は溜め込んでいた気力を両手の中で解放し、椅子ごと拘束を弾き飛ばした。

古華原の顔が再びこちらへ向けられた時、俺の顔はすでに奴を見下ろす位置にあった。

「そんなに悪い世界じゃないといっていたな!」

言うと同時に古華原の首を脇で固め、そのまま首の骨をへし折った。

「これでもそう思えるか?」

自分の背中を見つめる形で絶命した古華原に言葉を残す。もっとも、死体となった奴には何の思いも抱けないだろうがな。

俺はそのまま部屋の外へ飛び出す。廊下の照明も消えていたが、ガラス張りの渡り廊下から差し込む朝日が道を示していた。

もうそろそろ放送が始まる時間か。

そんな考えが頭の中をよぎった時、ふとひらめくものがあった。

そうだ、加えよう。計画を。

総理大臣を殺すより前に、あの放送をジャックするんだ。そして、奉仕国民に問い掛ける。

お前たちの常識は本当に正しいものなのか?

常識だからといって思考を放棄し、ただやみくもに受け入れてはいないのか?

常識だからといって諦めてはいないのか?

常識を疑うことを恐れるな。

常識に絶対はない。常識は時代によって変わるものだ。

もし、お前たちの常識が非常識ではないかと、そんな風に感じたら――

その時、どこかから声が聞こえて来た。俺たちにとって馴染み深いあの声が。

「奉仕国民のみなさん! おはようございます!」

――それは目覚めの合図だ。


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