4.シオリサイド
夕食は残り物で手早く済ませることが多い。
朝食と昼の弁当用に多めに作っておいただし巻きの残りと味噌汁、それに冷凍保存していたご飯を温めてテーブルに並べた。
味もメニューもこだわりなどない。振る舞う相手も、ましてや一緒に食べる相手もこの家にはいないのだから。
「…」
だし巻きを箸で小さく千切り、口に運ぶ。ねぎを入れただし巻き。いつもと変わらない。
茶碗を手に取り、ご飯を口に運ぶ。柔らかめに炊いておいた白米。いつもと変わらない。
ただ、いつもと違うのは。
「…」
箸を置いた。もともとあまり量は多くないのに、なぜか今日は食事が喉を通らない。
箸を置いた手で、そっと唇に触れた。
電車の中で『彼女』の唇が触れている間、ほのかに桃の香りを感じていた。
そしてその香りはホームに降りてからも私にまとわりついていた。より正確に言えば私の唇からなぜか『彼女』と同じ香りがしていた。
あの後、逃げるようにホームに降りて駅のトイレに入った。早い鼓動のまま、目の前の鏡を見た。何の変哲もない、型にはまったような印象のつまらない私の姿が映っている。しかしひとついつもとは違っているところがあった。
毎朝見ている、色を失ったような私の顔。その中にひとつ、色づいた私の唇があった。ほんの少し艶めいて、桃色に染まっている。『彼女』が付けていたグロスか何かが移ったのだろうか。
唇に蜜がまとわりつくような感覚があった。
「…変な感じ」
高等部に進学し、校則の厳しい我が校でもこっそりとメイクを始める同級生もぽつぽつと出てきたが、私はといえばメイクをしたことなどない。
興味がなかったということもあるが、恐らくしてみたいと思ってもする環境がなかっただろう。
ああいったことは周りにいる友人と情報を共有して覚えていくもののようだから。
ティッシュを取り出し、唇を拭う。またいつものつまらない私に戻った。拭った後のティッシュを見ると、うっすらと桃色に汚れていた。私の唇からはもう、桃の香りはしない。途端にとても虚しい気持ちになった。
(何がしたかったんだろう、私は…)
先程の『彼女』はきっと気味悪く感じたことだろう。あるいは怒りを覚えたかも知れない。どちらにせよ、負の感情は持ったに違いない。
顔を合わせない方がお互いのためだろう。とはいえ正直なところ私が会わずにいたいという気持ちが大きい。
顔は見られていないはずだが明日からは念のため、しばらく髪型でも変えて通学するべきか。
と、ふと我にかえった。
長い間考え込んでいたせいか、いつの間にか食事は冷め切ってしまっているようだった。温めなおすのも面倒なので、そのまま食べて片付けてしまうことにした。続けて空になった食器をシンクへ運び、洗い始める。いつも品数が少ないので、洗い物もそんなに手がかからない。
だからいつも、私は独りの長い時間を持て余してしまうのだ。
(…部屋に戻って予習でもしよう)
父も母も当分帰って来ないから私が独りでここにいる意味もない。
テーブルに置いていたスマートフォンを手に取って部屋のライトを消した。
誰もいなくなった暗い部屋に、スマートフォンのストラップに付いたベルの音がチリンと響いた。